水ノ浦教会堂では敗北を喫した(閉館していた)が、さて近くの楠原教会堂は如何?
ここは江戸末期に信仰を告白した潜伏キリシタンたちが、切支丹禁制を維持した明治政府の命令で投獄・拷問され、投獄者200名のうち42名が死亡した五島崩れの舞台となった場所である(五榜の掲示の第三札で「切支丹邪宗門厳禁」とされ、その邪教観が維持される中で切支丹一家がヘイトクライムのような形で惨殺された件は、上五島の旧鯛ノ浦教会堂の記事で触れた通りだ)。
そうした迫害を生き延びた信徒たちが、資金を蓄えて建造したのがこの楠原教会堂である。
この黒ずんだ重厚な煉瓦造りは、迫害と歴史の風雪に耐えて信仰を維持してきた人々の姿を象徴しているようにも思える。
今回、福江島や上五島の教会を自分の足で回った大きな収穫の一つは、コミュニティに溶け込んだ教会の姿、清掃の行き届いた教会内部、厳しい自然環境などを目の当たりにすることで、知識として学んでいただけの弾圧の歴史や信徒たちの過酷な生活、そしてそこからの信仰の維持がどれほど困難だったかを多少なりとも実感できたことだ。
そんな私の胸中には、五島にまつわる歌が度々甦ってくる。すなわち、本土での弾圧を受け五島へと渡る時は
五島へ五島へと皆行きたがる。五島はやさしや土地までも。五島へ五島へと皆行きたがる。五島はいなかの襟を見る
と歌われるが、そこでは当然ながら過酷な環境やコミュニティとの軋轢も相まって、
五島へ五島へと皆行きたがる。五島は極楽来てみて地獄。五島は極楽行てみりゃ地獄。二度と行くまい五島のしま
となるわけである。
アウクスブルクの時にも触れたが、観光客の目線では日常と違う新規さが魅力的に映るかもしれないけれども、一たびそこに根を張ったならば、様々な難点や煩わしさが見えてくる。なるほど、その時もし身軽な立場であるなら、居所を変えることも容易だろう。しかし、抑圧された生活の中、行き場もなく貧しい生活を強いられた存在であれば、ようやく見つけた新天地もまた「地獄」であるなら、その時の絶望はいかばかりか、想像に余りあるというものだ。
そんなことを思いつつ、シンプルなステンドグラスを外から眺める。
最後に遠景を写真に収める。
最後に原付の走行距離を見ると、582キロとのこと。まあ原付にしてはずいぶん走ったと言えるだろう。
では、目的も果たしたことだし、入江レンタカーへ返却に向かうとしますかね。
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