室町は今日もハードボイルド:アナーキーな中世と、その背景となるコスモロジー

2022-11-03 11:32:32 | 本関係

前の毒書会記事で(ピダハンとか)コスモロジーの話をしたので、我が国もなかなかにエキセントリックなコスモロジーをしとるでーという事例として室町時代のアナーキーさを取り上げた清水克行の『室町は今日もハードボイルド』を紹介したい。

 

そもそも冒頭からふるっていて、

ここ(学校の道徳の教科書)で採り上げられている人物が、いずれも古代・近世・近代に活躍した人物ばかりで、私が専門とする「中世」の人物は誰一人紹介されていないということ、だった。そこで紹介されている人物は、いずれも質実、家族愛、立身、学究、憂国など、わが国で「道徳」的と考えられている徳目に合致する逸話や発言を(それが事実であったかどうかはともかく)残している者たちである。それに対して、まことに残念ながら、私に馴染みのある中世の人びとは、おおむねそうした徳目とは無縁、もしくはそれらが希薄な者たちだったのである。教科書作成者がそれを意図的に行っているとしたら、それはそれで優れて鋭敏な配慮と思わざるをえない。たしかに中世を生きた人々の中には「道徳」的な人物は少ない。というよりも、むしろ、そうした私たちの既存の「常識」や「道徳」の埒外にあることが、中世人の最大の特徴であり魅力なのである。

となっている(ちなみに野口英世などは数多のクズエピソードで超有名人なので、なるほどクズでも能力があれば偉人扱いされるんやな~という現代の世知辛い能力主義を反映しておりマス←違う)😀

 

同著者による『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(こちらは共著)や『喧嘩両成敗の誕生』などを読んで中世人の行動を知っていればうなずきしかないわけだが(あるいは大内氏ご乱行の「寧波の乱」とかw)、こんな調子で飢饉などの際に行われた人身売買、山賊・海賊の独特なルール観、うわなり打ち(夫の不倫相手ぶっ殺す!)、リアルデスノート(『二水記』かw)、熱湯裁判(湯起請・鉄火起請)などが紹介されている。こういった現代から見れば「アナーキー」・「カオス」に見える諸々が、清水克行によって躍動的に活写されるのだからおもしろくないはずがない(かなり皮肉の効いたコメントやノリのいいボケエピソードなども披露してくれてます)🤣

 

日本人の「無宗教」の話を書く時はいつも言っているし、また少し前に「同性愛」=病気と神道系のグループが発言しているのに突っ込んだりしたが、要は不都合な歴史に目をつぶって(もしくはそれを学ぶ意思すらなく)「日本とは~である」とか「AとはBである」などとのたまう精神からまず脱却する必要があり、本書はそれを楽しくもやれる優れた書であると言える。すなわち、「あ~自分日本のこと何も知らんかったわ。てか日本中世おもろーwそして自分の今の世界観が相対化できておもろーwww」という具合に(ちなみに「ファスト教養」を自分が受け入れる気がないのは、こういう志向性が弱いからでもある)。

 

とここまで書いて、「日本のイメージを逆張りするために書かれた本なんじゃないか?」というような杞憂にとらわれた方がいたら、ご安心めされい(実際、村井章介『中世日本の内と外』なんかは、アンダーソン意識しすぎて話がちょっと飛躍してないか、みたいな批判もされていたし)。そこはちゃんと史料的裏付けを元に、それが行われるようになった歴史的経緯とその世界観についてもきちんと考察・評価をしている。

 

例えば、先に触れた「うわなり打ち」。これは妻が(不倫した夫ではなく)夫の不倫相手に集団でカチコミをかけ時には命をも奪う行為のことを指すが、今の学生に話すと、あたかもその行動が女性特有の傾向であるとか、しかも脳科学的にそれが根拠があるなどと言い出す人もいるが、その歴史的文脈を踏まえ、「一夫一妻」の建前の中「一夫一妻多妾」という現実があり、それゆえ正妻の地位が極めて重要となるために、その地位を守る目的で夫ではなくその不倫相手を物理的・社会的に抹殺しようとする行為で、生理的とか脳科学的とかいった話ではなく、当時の女性の置かれた(弱い)社会的地位を反映した行為だと評価している(学生諸君の反応は、歴史的文脈を慎重に踏まえないと、一見異常に見える行為を明後日の理由付けで正当化するという「認知的不協和」の典型例として見ることができる)。

 

あるいは「湯起請」や「鉄火起請」。これは教科書的には古代の「盟神探湯」などを例に挙げた方がピンとくることが多いと思うが、要は熱湯に手を突っ込んでも火傷をしなかった無罪!という神明裁判と呼ばれるアレだ。これを聞くと中世人の信心深さというか迷信深さを感じるかもしれないが、清水はそこに一種の流行があることと、その流行の記事がむしろ乱世などによって人々の信仰心が揺らぐタイミングであることに着目する(ただ、1460年代は応仁の乱なのでわかるとして、1430年代って何かあったっけ?という感じもするが)。

 



 

そして普通に裁判したら9割方有罪の男が、あえて自分から「俺は無罪なんだから湯起請やったろーじゃねーか!」と言って無罪になり、後に他所で死んだその男のことを、貴族が「あーやっぱ盗みで身を滅ぼしたか」と全く裁判内容を信じていないコメントをしていることに注目し、これらの流行が信心深さではなく、むしろ「神を疑うがゆえに神を試す行為」だったのではないかと分析している(これについては、『楢山節考』所収の「白鳥の死」に関連して記事を書いたこともある)。

 

もちろん、清水自身も言うようにこれを史料的に裏付けることは非常に難しい。さりながら、むしろ今述べたような神明裁判の捉え方とともに一時その形態が流行し、その後廃れて復活しなくなるという現象をこのように分析しているのは日本人の宗教意識とその変遷に興味を持つ者として大変参考になった次第である(ちなみに言うと、ケガレを祓う諸々の行為についても言及があるが、著者も控えめに述べるように、コロナ禍で非科学的な言説・行動に関する情報が垂れ流されたのを見てなお、現在の我々なら迷信深さや非科学的思考から自由である、などとは到底言えないだろう)。

 

とまあこんな具合で非常に刺激的な本である上に大変読みやすいので、ぜひ休みの多い11月に手に取ってみてはいかがだろうか?


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