YU-NO~エンディングの意味と効果~

2011-10-02 17:46:55 | YU-NO

かつてYU-NOエンディング批評の前置きをしてこの記事を書いたわけだが、それは単なる批判記事にならないよう問題点(短所)を考える前にまずその意味と効果(長所)を明らかにしておきたい、という狙いがあった。これ以上の説明は必要ないと思うので、あとは原文に譲る。

 

<原文>
さて今回は、「YU-NOエンディング批評」に引き続き、YU-NOのエンディングが持つ意味・効果について述べてみたい(もちろんネタバレである)。ただ、全てを文章にするのは煩雑になるので、各項目を設けてそれに解説をつけるという形式をとることにする。


1:プロローグとの繋がり
あるいはRデバイスを使うという意味において、単一の展開である異世界編からシステム的に回帰している、とも言える。


2:始まりに立ち会う男女
事象の根源(世界の始まり)に立ち会うたくやとユーノの姿は、アダムとイブを思わせる。ちなみに言えば、1996年に発売されたYU-NOであるから、最後のデラ=グラント衝突は2000年を意識したものであるのは疑いない(世紀末のデラ=グラントの荒廃した様子は、SFなどによく描かれるものである姿であると同時に、日本の世紀末をも意識しているのだろう)。ついでに言っておけば、まあこれは深読みだと思うが、「2000年=ミレニアム=キリスト教」というアナロジーも意識しているかもしれない。さらにデラ=グラントがコンピューターによって制御されていたことを考慮するなら、2000年におけるカタストロフとは「2000年問題」のメタファーかもしれない(この問題がいつ頃から意識されていたかを本で読んだ気もするが、今は思い出せない)。


3:有為転変する事象から自由であること
エンディングでたくや・ユーノのいる場所は、(1から考えても)プロローグでユーノが消えていった空間(?)と考えて間違いない。ところで、龍蔵寺はそれについてプロローグで「因果律の流れに捨て去られ」ると表現しているが、とするならば、つまりそれは事象の流れから独立した空間であるに違いない。事象とは原因事象に伴い続々と連鎖していくわけだが、その流れを脱することは容易ではない。というのも、作中の定義に従えば、仮に時間を遡ろうと、それは新たな事象が生成されるだけで事象を遡ることにはならないからだ。このように、有為転変する事象から自由になることは非常に困難なのであるが、それゆえに事象の流れから自由であるたくや・ユーノの存在が逆に不変性を帯びてくる。この不変性と事象の根源を考え合わせると、そこから一貫して変わらないもの、即ち唯一無二(不変)の真理を想起せざるをえないが、それは異世界編の一本道の展開及び唯一のエンディングと繋がると共に、現世編の並列世界やマルチエンディングと明確なコントラストをなしている。


4:ブリンダーの樹の根源[=断片を統合するもの]
上記の事項と関連するが、各人格[世界]の根源、集合体としての単一エンド[大きな物語、近代的]⇒現世編のマルチエンドとの対比[小さな物語、ポストモダン]


5:家族への情念
たくやの家族への情念はケイティアから始まり、亜由美、神奈とも関連するが(だから彼女たちとの恋愛を単なるタブーとして処理するのは不適切)、この家族への情念ゆえにクンクンを食べてでも生き延びてユーノのもとを目指したり、エンディング時点で唯一の家族となっているユーノを追いかけたりすることには強い必然性がある(事象衝突の回避よりもユーノ[と死ぬこと]を選ぶ=家族のいなくなった世界に生きていても仕方が無い?)。


6:たくやと広大のアナロジー
上記の項で述べた家族を追うたくやとケイティアを求める広大の間にはアナロジーが成立している。なお、たくやと広大は単にアナロジカルに語られているだけではない。たくやがエディプスコンプレックスを抱えていることはあまりにも明白だが、エンディングにおいてたくやは事象に根源へと到り、広大に「うらやましい」と言わしめており(ちなみに、「YU-NO完全ガイド」の中で剣乃は広大が「歴史の真理をいまだ探究しています」と述べている)、この発言からすればたくやは最終的に広大を超えた、という見方ができる。このように、たくやは広大の道を辿っているだけではない、という点に注意する必要がある。なお、上記の「歴史の真理」と事象の根源の性質が非常に似通ったものであることは言うまでもない。


7:ケイティアとユーノのアナロジー
5・6と関連するが、ケイティアとユーノもまたアナロジカルに語ることが可能であろう。ところで、ケイティアがそうであったようにユーノもまたグランディアの魂を宿しているのであろうか(衝突を回避した前者と物理衝突した後者が同じか不明)?もしそうであるなら、事象の流れから自由であることはさらに大きな意味を持つ。というのも、ケイティアは魂を有していたがゆえにそれを解放するため自殺したが(この理由は前掲の剣乃のインタビューによる)、ユーノも同じように振舞う可能性は十分にある。しかしながら、ユーノの場合は事象の流れから自由であるため、自殺をせずにすむとも考えられる(このあたりは設定などをあまり考慮していないので穴だらけだが)。要するに、事象の流れから自由であることによって来るべき死が回避されると考えられるのだが、これは3・8の事項と深く関連する非常に重要なファクターである。


8:究極の二項関係
娘のユーノだけでなく、義母の亜由美などとの関係などタブーの描写がYU-NOには少なくない。ところで、タブーというのは多分に社会的なものである。そう考えるならば、社会から離れた(=事象の流れから外れた)二人だけの空間にいるたくやとユーノは究極の二項関係の中にいると評することができるかもしれない(仕組みがよくわからないが、あるいは時間的な永遠性も担保されているのだろうか?)。


ざっと上げただけでもこれくらい出てくる。このエンディングを否定することなど到底不可能なのは容易に理解されるだろう。しかし次回、この意味・効果を前提にした上でよりよきエンディングはないのかを模索していきたいと思う。


[補遺]
東浩紀のYU-NO論に対する疑問について
東は「動物化するポストモダン」において、YU-NOの異世界編のエンディングが「大きな物語の凋落のあと、世界の意味を再建しようと試みて果たせず、結局はただ小さな感情移入を積み重ねることしかできない私たちの時代のリアリティを、独特の手触りで伝えている」と評価している。要するに東は、現世編での断片的な自己を統一した結果としての父(=大きな物語)への回帰に失敗したものが異世界編のエンディングだと言っているわけだが、今まで述べてきたように、むしろYU-NOは(無邪気に思えるくらい)大きな物語に回帰する話だと評価できるように思える。なるほど確かに父親には到達することはできないが、結局のところ唯一の展開、単一のエンディングの先に、たくや(たち)は不変なる空間、さらには世界の根源にまで到っている。しかもそれについて、広大自身が「うらやましい」とさえ評しているのであるから、たくやは意識する父親を超えるばかりか、世界の根源(≒歴史の真理)という大きな物語にまで到達したと見るのが妥当であろう(この発言などを考慮すれば、作者である剣乃もまた事象の根源への回帰をアイロニカルに描写しているようには見えない)。

以上のことから考えるに、YU-NOの異世界編のエンディングは、ポストモダン的な現世編における断片的自己が統合された結果、異世界編における単一の展開と単一のエンドを通じて世界の根源という真理=大きな物語に回帰するという、極めて近代回帰的な内容だと評価できるのではないだろうか。


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