古典教育の必要性とは?:原典を読解する力の養成?

2024-06-07 12:08:29 | ことば関連
 
 
 
 
法隆寺の記事を受けて織田信長の評価に対する歴史的変遷について書こうと思ったが、もう少しまとめるのに時間がかかりそうなので、ちょっと前に書いた古典教育必要論が主張する「原典を読解する力の養成」について述べたいと思う。
 
 
さて、私は古典教育必要派でも不要派でもなく、価値はあるがそれが十全になされる環境が整備されていないという「懐疑派」とでも呼ぶべき立場だが、そこからしてもこの「原典を読解する力の養成」については2つの点で全く実態がない(=ただのお題目だ)と考えている。
 
 
その一つは、「古典ではない国語=現代国語の授業でもそのような意識の元に授業はなされていないから」である。そもそも現代日本語を読解する訓練をしていない人間が、古典を読むときには十全にそれができるなどというのは、世迷言以外の何物でもないだろう。
 
 
ちなみに現代国語での情報の見方の訓練は、戦後における「言語」という名の授業で実際に存在していた。そこでは、マスメディアを通じて話している人間の姿を元に、「この人はなぜこんな発言をしていると思いますか?」と生徒に考えさせる授業だったのである。
 
 
それがなぜ今日では消滅しているのかは謎だが、要するに「現代国語」の授業を通じて情報を読み解く(=読解)練習をすることをやるべきで、今はそれがなされていないというのは、私の思い付きでも難癖でもなく、実際にその通りなのだ。
 
 
え、今やるのは難しい?いや簡単だよ。たとえ小学生でも、例えば3K新聞、朝目新聞、黄泉売新聞の3つを並べ、「なぜ同じ事件にも関わらず論調がこれほど違うのか、各班で理由を調べて発表しなさい」とやれば成立する(そしてこういう訓練をやっても力の身に付き方や、どういう論調を好むようになるかに個人差が出るのは当然である)。
 
 
あるいは評論文や文学作品を扱うなら、同時代で高く評価されている著者の文章を持ってきて比較対象するとか、あるいはその文章に対する反対意見の文章を持ってきた上で、「今君たちは二つの立場の文章を読んだ。ではそれぞれの立場に立った場合、相手の意見にどんな問題点があるかを考えてきなさい。WikipediaやYouTubeを使ってもOK。ただし何を参照したかは明記しなさい」とかね。
 
 
これをもう少し高度化すると次のようになる。例えば、高校生で学習する夏目漱石の『こころ』ならば、まず乃木夫妻の殉死としても登場するように、明治から大正という世相の変化を考えさせるのもよい。多分こうやると大正デモクラシーとかモガなんて話が出てくると思われるが、実はそこには急速に進む近代化と孤独という問題が生じており、それは後に「煩悶青年」を生み出し、朝日平吾のようなテロリズムにも繋がった(失恋が原因とされるが、明治末期における藤村操の自死もある種その走りと言ってよいかもしれない)。あるいはもちろん、漱石という作家個人により強く焦点を当てて『こころ』を考えてみるのもよい。そうすると、先の近代化と日本人の精神性であれば、『私の個人主義』や『明暗』を取り上げることもできるだろう(もちろん「則天去私」といったこともだ)。あるいは『こころ』から強烈に漂う理解し合いない他者という目線でいくなら、養子に出された彼の生い立ちも去る事ながら、『行人』を取り上げないわけにはいかない…という具合だ。
 
 
というか、こういった周辺情報なしで読ませて感想だけ聞いても、生徒の手前勝手な妄想が垂れ流されるだけなのではないか。それを仮に「自主性」などと思っているのであれば、とんだお笑い草である。「個性」というものは叩かれてもなお屹立してくるもののことを言う、とまで書いたらいかめしいが、『こころ』という作品の時代性や漱石の作家性に関して情報を得たとしても、それをどう評価するのは否応なしに個人差が出るのであり、周辺情報は言わば思考力という根を健全に広げるための水と言っていい。仮に十分な水のない状況で「思考力」なるものを発揮したところでその根は広がらず、他と繋がりを持つこともなく思考の埒外に消えていくのではないだろうか(これは「道具主義的に教授されるもの」とはまた違った意味で、血肉とはならないのである)。
 
 
というわけで、現代国語で読解をする授業について述べたわけだが、これを古典に置き替えると、前に書いた『伊勢物語』の「東下り」の話になる。すなわち、在原業平という人間の来歴を知らなければ、そして京にいる貴族の地理感覚(兵庫はもちろん宇治も田舎!)がわからなければ、京を離れて静岡に少ない随員で旅をするということの心細さや悲哀も、そしてそれゆえに生まれてくる和歌の意味合いも、全く理解できないからである。
 
 
あるいは『方丈記』を例にとってもよい。その冒頭「行く川の流れは絶えずして・・・」の下りは有名だが、それをただ和訳できたところで、だから何だと言うのか?具体的には、それが深刻な災害の後に書かれた「災害文学」の一種であり、そこにある無常観の背景をより深く知ること、そしてさらにはそこから東日本大震災が日本の言説に及ぼした影響といったアナロジーを考えさせる(つまり現代への共通性を指摘することで深い思考を促す)ことさえしないなら、一体そんな「読解」に何の意味があるのか、ぜひご教授いただきたいものである(読解の要素は横に置いて、ただ原典を現代語に訳すことが重要と言うなら、それはあたかも新聞の内容をただ読んだだけで偉いと評価するようなものである)。というのもそれは、単に古くからある文章に触れて訳させたという権威主義的な自己満足であり、いわゆる「論語読みの論語知らず」と一体何が違うのか、私には全く理解できないからである。
 
 
というわけで、そもそも古典教育を通じた原典読解などというのは絵に描いた餅だと私は評価する。その理由は、現代国語でさえそのような教授法はなされていないか、されていたとしても全く不十分だからである(そんな教育が「一次史料を読む練習」とはとんだお笑い草であり、ゆえにまずは現代語訳を読んでろよという話にもなるわけだ)。
 
 
いや、極めて厳しく言えば、このような「少し立ち止まって考えればわかること」が平気で無視して言説として流通しているところに、私は古典教育必要派の論理が単なる自己正当化の詭弁に堕しているという疑いを禁じ得ない。
 
 
もし古典教育必要派が真摯にそう考えているのであれば、思考停止的に必要性を訴えるのではなく、それが現在どのように実践されているか、また目的が十全に達せされるような状況なのか、そうでないとしたらどのような変化が必要なのかを最低限調べた上で論を構築していかなければ、グローバル化と成熟社会化が進む今日において、それに否定的な見解が強まっていく状況に掉さすことはできないだろう、と述べつつこの稿を終えたい。

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