これにて「YU-NOエンディング批評」シリーズは完結。この後に対話篇による説明と要約版を掲載していく。しかし今見返してみて、よくもまあこれだけ書いたもんだと思う。一体この情念はどこから湧いてくるのか、未だに疑問である。まあそういう不可解さへの興味が、書き続ける原動力の一つになってもいるのだけどwまた余談だが、ここでしている話を「ザンジバーランドの怪人」や「ひぐらし、うみねこ、『リアル』」と繋げてみるのもおもしろいだろう。
[原文]
定期の更新を忘れてしまい、会社までの運賃を払うというムダを月初めに何度も繰り返しているぎとぎとですが、みなさんいかがお過ごしでせうか。
さて今回は、YU-NOエンディング批評の最終段階として、これまで批判してきたエンディングの代案を提示したいと思う。これまでの詳しい経過については、「YU-NO~エンディングの持つ意味・効果について~」「YU-NOエンディング批評結:たくやの行動原理とエンディングの齟齬」「YU-NO:たくやの行動原理」などの記事を見ていただければわかるし、またいずれ一つの記事で要約を作ろうと思ってもいるが、一応簡単にまとめておこう。
比類なき傑作だと何度も強調しているYU-NOだが、そのエンディングには強い違和感を覚えた。この原因は、本編で描かれるたくやの人物像とエンディングの齟齬にある。具体的には、「家族への情念」、「日常性の希求」、「『大きな物語』の拒否」という最後の最後まで連続していることが強調されるたくやの三つの行動原理と、事象の根源という単一の真理に到る静謐で非日常的、哲学的、学術的なエンディングは全くそぐわないのである(これに対し、プレイヤーにとって意味があればそれでいいのだという反論を想定しうるが、物語の構造を成立せしめている根本原理[=たくやの一貫した行動原理]を否定する安直な意見と言わざるをえない。この行動原理とその一貫性については後に触れることになろう)。とはいえ、YU-NOのエンディングにはあまりに多くの意味が含まれており、また家族への情念からYU-NOを追いかけることも絶対に避けられない。これをただ否定するのは、主人公の人物造詣のみに注目して物語の終焉に作者が残した仕掛けを無視する行為以外の何物でもない…というわけで、本編の人物像を考慮したよりよきエンディングを提示できないか、という段になったわけである。
結論から言えば、改善案は大きく分けて二つある。
A:人物描写を変える=過程の変更
B:エンディングを変える=終わりの変更
そしてこれまた結論から言えば、私はBの方を採用すべきだと考える。なぜか?前回の記事でしつこく具体例を提示して明らかにしたように、有馬たくやの行動原理は一貫して、いや「あまりに」一貫している。そしてその行動原理が、ケイティアの胸の中から始まりユーノとの邂逅で終わるというYU-NOのドラマツルギーそのものであることからすれば、これを否定することは得策とは思えない。…少し抽象的な話になったかもしれない。もう少し具体的な話をすれば、たくやの行動原理の内容のみならず、それが一貫している(不変である)という自体が、実は物語を成立させる上で重要な意味を持っていることに注意する必要がある。というのも、これまた「たくやの行動原理とエンディングの齟齬」で述べたとおりだが、様々な可能性が生み出されうる現世編において、事象の分岐をあの範囲に収める必然性を付与し、自由度が空中分解しないようにするためには、この行動原理の一貫性がなくてはならないからである(システム的に多重人格的な描かれ方になってはいるが、実は主人公の強固な連続性の上に成り立っているのである)。あるいはまた、家族の希求が最初から最後まで一貫しているからこそたくやは苦悩するのだし、またタブーの描写が重要な意味を持ちえる部分もあるだろう(もしそれがなければ、相手が近親であることは、タブーを犯すことでセックスの快楽を高めるスパイス程度の意味しかなさず、少なくともテーマにはなりえまい)。
以上のような理由から、エンディングに合わせて人物像の変更を行うことには問題がある。そこでエンディングそのものを変えるしかないわけだが、具体的にはどうすばいいのか?繰り返しになるが、ユーノを追う行為を改変することは不可能どころか愚鈍ですらあるし、さらに事象の根源への到達もまた様々な意味を持つ上にプレイヤーのカタルシスへと繋がる必要不可欠なものだ。とするなら、変えるのはここからである。私の記憶が正しければ、最後は事象の根源を見やりつつ終わるのだが、そうではなくエンディングの空間から脱出し、今まで世界(それがデラ=グラントにするか境町かはともかく)に戻るという形に変更してはどうだろうか?
もっとも、これは事象の流れから自由な、つまり不老不死の(かそれに近い)状態から抜け出ることであり、そこから「ケイティアとのアナロジーが正しければいずれユーノの死を招く行為なのではないか?」あるいは「各キャラと日常を生きるという現世編エンドとのコントラストが成立しなくなってしまうのでは?」といった反論が出るかもしれない。しかし私は、むしろその「終わりある日常への回帰」こそがYU-NOのエンディングには相応しいと言っているのである。
どういうことか?
思えばYU-NOにおいて、たくやは一度も死ぬことが無い。それは当然のことでもなんでもなく、むしろ死んでも不思議でない場面を何度も生き延びてきたのである(龍蔵寺に捕えられたり、ボーダーで怪物と遭遇したり、収容所で大地震に遭ったりetc...)。そしてあたかも、この主人公の不死を贖うかのように、他のキャラたちは死んだり消失したりする。具体的には、現世編の亜由美、美月、神奈、結城、梅(洞窟での分岐まで想定するなら、澪もこの列に加わる可能性が非常に高い)。異世界編ではもっとひどく、セーレス、神帝、アイリア、クンクン(及びその母)、たくや以外の収容所の人間…という具合である。アマンダは死にこそしないが、たくやが元いた世界に飛ばされ(消え)、そこでの死が現世編で言及されるという具合だ。人が大量に死ぬ話など珍しくも無いと言われれば確かにそうだろう。しかし、例えば結城は殺す必要があったのかさえ疑問である(澪の父親の話をリークした罰にしては割が合わない気が…)。そういったことを考えると、彼らの死は不死なる主人公の代わり、という意味があるのではないかと思えてくる。
しかし、前にも言ったように、たくやは非日常を楽しむような人物としては描かれておらず、そこから類推するに不死の空間というこの上ない非日常かつ異常な状況もまた歓迎するようには思えない(信じられないという思いがあるにしても、不老不死を研究していたという広大を半ば狂人扱いしていたことを想起したい)。であれば、「あえて」日常空間への回帰を選択し、たくやとユーノの来るべき死をきっちりと示しつつ終わることこそ、分岐世界を扱いながら、実は一貫した行動原理に突き動かされるYU-NOというゲームの最後に相応しい。だから、先ほどの反論にあったような現世編とのコントラストは必要ではないのだ。むしろ単一の展開によって現世編とは違う性質のエンドに到った「にもかかわらず」、結局は日常を選んで現世編と類似のエンディングになる、という構造にした方が、たくやの首尾一貫したキャラクターが織り成すYU-NOという物語の性質上適切、ということだ。
そしてそのような選択が、一貫する行動原理を完成させるだけでなく、澪の話に喜ぶと思われ、不老不死を研究し、かつ「歴史の真理を未だ探求」(『YU-NO完全ガイド』の作者インタビューによる)している、すなわちたくやの行動原理にそぐわない有馬広大とのコントラストを成立させるのである(だから、繰り返すが、現行のエンディングは「広大のエンディング」なのだ)。
以上をまとめよう。
まず行動原理の変更が得策でないことを確認し、エンディングの変更案を考えた。その結果、事象の根源まで到るところまでは同じにし、あえて有為転変する日常に回帰するという内容を代案として提示することとなった。この代案は、たくやが家族を取り戻す一方で事象の根源=一なる真理=「大きな物語」を拒み、日常に回帰することを意識している。この回帰は、広大とのコントラストを成立せしめるだけでなく、「不死」の主人公(とユーノ)のモータリティ、つまり主人公もまた特別な存在ではないことを暗示する形となり、さらにはたくやの行動原理を完成させる最後のピースとなろう。
たくやの人物描写と行動原理からは、以上のようにエンディングを変えるべきだと言えるのである。
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