YU-NOエンディング批評~フラグメント5~

2012-04-30 18:26:04 | YU-NO

もうすぐ終わる、全て終わる、そうシマコーのなく頃に・・・というわけで一応YU-NOエンディング批評シリーズも最終回でございます(要約版はこちら)。3,4月は仕事がクソ忙しいから、時間をかけなくてもアップできる記事にしよう。じゃあこの機会に傑作ゲームレビュー復活を・・・てーのが掲載に到る流れでしたが、いやはや思ったより長くて4月も末までかかっちまいました。

ただ、なんかまだ伝えるべきことを全然伝えられてないような気がするのよね。まあそれが何かもよくわかってないんだけどw灰羽連盟の再考と同じで、その日は突然訪れるのかもしれないし、あるいは死ぬまでわからんままかもしれない。もっとも、「傑作PCランキング」に限定したって書くべきことを(ほぼ)書ききったのは「君が望む永遠」と「沙耶の唄」くらいで、後は色々残ってるんだけれども。前者は受け手の反応の奇怪さはすでに書いた通りなので、後は単純な演出方法の批評だけだし、後者は「純愛」に関する話を書いたら終了・・・と思ってたんだが、「君が望む永遠」で感じた問題はむしろ「呼んでますよアザゼルさん」などに見られる無害化の構造、「臨死!!江古田ちゃん」などで取り上げられていることと合わせて、最終的には「紀子の食卓」に対する感情的な反応などへと広げられると考えており、まあまだ全体像をカタチにするのにはけっこう時間がかかりそうな気配が漂っている。

まあ同じような前置きを何度も繰り返してるのもアレなんで、5月からは本格的に新しい話題に入っていきたいものだ。

 

[原文]
「YU-NOエンディング批評」から「YU-NOエンディング批評のフラグメント~「大きな物語」からの距離~」まで約一ヵ月半、「YU-NOエンディング批評」から計算すればおよそ二ヶ月。たった一つのゲームの、たった一つの問題をこれほど長い期間かけて論じることになるとは正直予想していなかった(なお、一連の考察の中でクローズアップされた一貫性は、「YU-NOと情念」、「YU-NO物語の原動力とタブーの理解」で取り上げた「情念」と繋がっている)。まあそういった感慨はさておき、最後のフラグメントを提示することにしたい。


<復讐の承認[意味づけ]要求、死にゆく身体>
世界の始まりに立ち合う不死の人…神を連想するが、作り手ではない[→観想]。復讐の承認を社会に求めず…「罪と罰」ラスコーリニコフ=自分の行為[=復讐]が(人に)許される×自分の行為を(自分が)許す○⇒不適切なイメージを与えるかも。あえて他と繋げない。[たくやの]一貫した人間像を描いているのは重要だが、それだけにソゴ見えやすい。「終わりある日常への回帰」を、死にゆく身体の描写に重きを置く大塚英志の論を連想したかもしれない。しかし、そもそも私はその立場に組しないので、誤解を生みかねない。また、それをこそ描くべきであると描けば、そこに焦点がいってしまい、問題となっている一貫性から遊離する。


たくやは、セーレスの復讐を社会という「大きな物語」に認めてもらうことを要求していない。この思考様式をラスコーリニコフによって説明しようとしたのが上記の記事だが、彼の老婆殺害の喚起するイメージがたくやの復讐と大きくかけ離れたものである可能性を考慮し、お蔵入りとなった。

また、私は「終わりある日常への回帰」こそがYU-NOのエンディングに相応しいと言ったが、これは死にゆく身体の描写を重要視する立場に結びつきやすい。しかし、本文中にもあるように私は必ずしもそれが必要だとは思っていないし、またそれに言及すればドラマツルギーに関する批判が表現の倫理に関する批判だと誤解される危険性があったため、あえて注にも書かなかったという経緯がある。


<「不老不死」の完成>…不死の主人公とサブキャラたちの死
どんな苦境に陥っても、たくやは決して死なない。その一方で、主人公の代わりとなるかのように、サブキャラたちは容赦なく死んでいく。最終的に主人公は、一度も死ぬことなく、つまり「連続した」存在としてエンディングに到り、おそらく不老不死が完成する。ここにおいてたくやは、真の意味で「不死の主人公」となったわけだ。そう考えるなら、[現行のエンディングは]一貫している。しかし、具体例から考えるに、たくやが不老不死を選択するとは考えにくく、むしろ「あえて」終わりある日常を選ぶ。


この覚書は、死の描かれないたくやが「因果律の流れに捨て去られた」空間において真の意味で(不老)不死になったという構造を指摘したものである。しかし最も重要なのは、「不老不死」が(龍蔵寺によれば)有馬広大の研究テーマでもあったことだ。たくやは広大が求める事象(歴史)の根源に到ったことで彼から「うらやましい」と言われており、それは父親を超えたという見方ができるわけだが、不老不死という点においても同じことが言えるわけである(誤解を招く恐れがあるので説明しておくと、広大が不老不死を研究テーマとした理由はケイティアの死が深く関係してると見て間違いない=自分が不老不死になりたいわけではない)。

とすれば、不老不死の状態になるエンディングは広大の意思をたくやが引き継いだような内容だと見なせるわけだが、このことをもって単純にエンディングの質が高いと言うことはできない。なぜなら、たくやが求めるのは「真理」や「永遠」といった類のものではなく、一貫して日常性にあるからだ。しかも本編において、広大が不老不死を研究テーマにしていたのを聞き、たくやは狂人扱いさえしている。これらのことから、広大とたくやのアナロジーはそもそも成立しえないし、ゆえに不老不死の状態になった(ことを受け入れる)エンディングに必然性はないと言わざるをえないのである。

これに対して、次のような反応が予想される。
「終わりある日常」を選んだ結果ユーノは死ぬわけだが、たくやは自らの選択を後悔しつつ父親と同じように不老不死を求めるのではないか…と。なるほどその可能性は十分にあるだろう。しかし私は、その将来的な可能性も含めた、「厳しい」ハッピーエンドこそがYU-NOのドラマツルギーに相応しいと言っているのである(YU-NOにおいて数多くの人間が死んでいくことを想起したい)。たくやもユーノも死の運命から逃れることはできず、そして(我々の世界の言葉の定義で言えば)、「歴史は繰り返す」。


<時間的な制約>
エンディング批評の記事を見て、製作における時間不足を指摘する人がいるかもしれないが、その中であの内容が採用されたことに大きな意味があると言える。


この辺りの製作過程について私は詳しくないので、wikiなどを参照のこと。


<デラ=グラントにおける亜由美の死>
なぜ亜由美は最後で死ななければならなかったのか?その死が持つ意味はどんなものか?考えられるものは三つ。 

1.デラ=グラントの終焉を象徴
2.運命の皮肉
3.ユーノが唯一の家族に

1は、亜由美というよりは「神帝の死」と表現した方がわかりやすい。ただ、これはかなり図式的な意味である。重要なのは2と3。2はユーノを救おうとして帝都を訪れた行為が、かえって儀式の混乱と亜由美の死を招いたということを指している。もう少し詳しく言えば、たくやが来なければ龍蔵寺の解放もなく、よって心を封印したユーノは無事に儀式を完遂し、亜由美も殺害されずにすんだ、というわけである。

3はエンディングでたくやがユーノを選ぶ必然性を用意する。あの時点(のたくやの意識)においてはセーレスも亜由美も死んでおり、残った家族はユーノしかいない。ゆえに、彼はどちらを選ぶといった選択を迫られることもないし、また唯一の家族であるがゆえに、その行動原理からユーノを追いかける以外の選択肢が生まれえない、という状況が作りだされる。

もし亜由美の死がそのような計算に基づいたものであるなら、「日常性への回帰とモータリティの提示」で「ユーノを追う行為を改変することは不可能どころか愚鈍ですらある」と述べたような状況(必然性)は、非常に周到に用意されたものであったと言えるだろう。


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