YU-NOエンディング批評 序

2011-10-01 17:49:23 | YU-NO

先日「私的傑作PCゲームランキング」という記事を再掲し、「YU-NO」の他に「君が望む永遠」、「沙耶の唄」、「ひぐらしのなく頃に」の3作品を殿堂入りとして取り上げた。それらは何らかの形で私の認識の仕方に影響を与えたものばかりだが、その中でYU-NOだけは例外となっている。逆に言えば、甚大な影響を受けていないにもかかわらず、エンターテイメント性、ゲーム性、世界観などにおいて比類なき作品と確信を持って言える希有な存在であるということだ(全くの余談だが、同時期で私に最も影響を与えたのは虜2だろう。まあこれは「そういう作品に全く食指が動かないことをはからずも知った」という意味においてだが)。

そのような傑作において、私がどうしても違和感を拭えなかったのがエンディングだった。なぜそのように感じたのか?それは個人的な感覚の問題なのか、それとも何らかの瑕疵による必然的なものなのか?それを考えたのが、これから何度かに渡って掲載していく「YU-NOエンディング批評」である。

 

[原文]

<序>
様々な機会において、YU-NOが並いるゲームの中でも最高傑作であることを繰り返し述べてきたが、「YU-NOエンディング批評に向けて」でも言ったように、エンディングだけは違和感を抱えたままずっと気になっていた。しかしここにおいて、ようやくその正体などについて論ずる準備が整ったので、エンディングの問題点について書いていくことにしたい。YU-NOに関するレビューは少なくないが、エンディングにスポットを当てたものは管見の限り存在しないので、この記事が何らかの刺激になればと思う。


もっとも、PCゲームをある程度知っている人間なら有名な話だが、YU-NOの世界観やエンディングの意味については、東浩紀が「動物化するポストモダン」で扱っており、またそれと関連した形でwikiの方でも触れられている。しかし、次回の<エンディングの意味・効果>のところで述べるが、上記の見解に私は疑問があり、それもまたこの記事を書く動機の一つとなっている。ただ、念のため断っておけば、本編の内容から離れて近代―ポストモダンの話や精神分析の話をするつもりはない(ついでに言っておけば、上記の東論などが本編と乖離している、という意味ではない)。


またレビューの書き方に関しては、ネタバレを回避するのも考えたが、
1:YU-NOをガンガンプロモートする(笑)内容ではない
2:中途半端に回りくどい表現を使っても全く意味のわからない内容になる
という二つの点から、あえて完全にネタバレの内容にしたのでご了承いただきたい。また、かなりの長文になることが予想されるので、ここでは<違和感の萌芽><各要素の分析>の二つのみを扱うことにし、残りは次回以降に回すことにする。


最後に。この比類なき傑作を世に送り出した剣乃ゆきひろ(菅野ひろゆき)に敬意を表す。


<違和感の萌芽>
高校の時にプレイして以来、序文でも述べたように、エンディングに対しての違和感が消えなかった。それは「肩透かし」とでも言うべきものだが、それをもってただ「期待はずれ」「想像していたのと違う」と言うだけでは何も進まないのであって、齟齬の元になっている二つの要素、すなわちエンディングそのものの特徴(A)と私があるべきと思う内容(B)の二つを明らかにした上で、その是非を問う必要がある。よって以下では、各要素の簡単な分析を行うこととしたい。


<各要素の分析>
A:
事象のはざま(と推測される)にたゆたうユーノの元へ行き、さらには事象の根源へと到る、というのがその内容である。このエンディングがどのような意味を持ちうるかは次回述べるが、その特徴としては「静謐」「平静」「哲学的」「学術的」「(デラ=グラントの生活から見て)非日常」といったものが挙げられるだろう。


B:
そこから逆にBを推測してみよう。上記と反対の要素(反意語ではない)としては、例えば喧騒、激動、激情などが出てくるが、そう考えたとき、主人公の「有馬たくや」(以下「たくや」で統一する)はまさにそういう人物として描かれていることに気付く(うるさいだけと言えば語弊があるが、お調子者でよくしゃべる人物で黙っているシーンなどほとんどないのは確かだ)。彼は時に激情家と言えるほど感情表現の豊かな男であり、静謐な状況はむしろ嫌うようにさえ思える(家族絡みでは特に前者の特徴が顕著だが、「異世界編」における収容所の所長への振舞なども想起したい)。おそらく、このような一貫するたくやの人間像が、エンディングと齟齬をきたしているのだ。


上記への反論:
いま私は、エンディングと本編で描かれるたくやの人間像の乖離が違和感を引き起こしていると述べた。これに対して、次のような反論がありうる。すなわち、

「神帝も言うように、たくやは年月や一連の事件を経て成長している。ゆえにエンディングの時点においては、上記のような特徴があると必ずしも言えないのではないか?」

というものだ。なるほど確かに、「現世編」のたくやと「異世界編」の彼を全く同じだと言うのは誤りだろう。しかしながら、異世界編におけるセーレスやユーノへの態度、そしてそれが最後まで続いたこと(儀式に入ろうとするユーノをまるで駄々っ子のように止める)を思えば、激情家としての特徴をエンディングの直前においても有していると見るべきであり、ゆえに上記のような反論は当たらない。


小結:
たくやは(特に家族がらみでは)時に激情家とさえ言えるような人物として描かれているがゆえに、ただ静謐なエンディングを見せられても、そこに必然性・説得力を感じないのである(※)。では、現行のエンディングを否定し、全く異なった内容にすればいいのだろうか?事はそう単純ではない。そこで次回は、現行のエンディングが持つ意味・効果について言及することにしたい。



なお、この見解に対しても次のような反論が可能である。

確かに、本編のたくやはおしゃべりかつお調子者でアクティブな人物として描かれているが、同時に父親の不在・探索やセーレスの仇、ユーノの救出など家族への情念が根底に存在することに注目すべきだ。というのも、エンディングでは唯一の肉親となったユーノとの再会を果たした状況であるから、本編のたくやの人物像と同一のものとして論じるのは問題がある云々。

こういった意見は、特にセーレスとの生活を描いた話を見たことがない人は持ちやすいと思われるが、その点についても「日常性」の問題として後に扱う予定である。


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« YU-NOとタブー | トップ | YU-NO~エンディングの意味と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

YU-NO」カテゴリの最新記事