断片のオマケとはこれいかにって話だが、「フラグメント75:距離感、ゴスロリ女」で「狂人」の話を説明しそこなったのでちょっと補足をしておきたい。
「狂人」というキーワードは二年半ほど前に書いた「汝自身を狂人と思え」という記事内容に由来する。その意図するところはすでに前掲の記事で述べたので繰り返さないが、まあ要は「それぐらいの認識でないと自分から距離は保てないんじゃないか」という話であった(「悪いのは常に他の誰か」や「『共感』が生む病理」などにも繋がる)。
とはいえ、だ。このような認識を通じて自分を客体化するという方法は、やはり有効に機能しないように思える。そもそも、「狂人」というカテゴリーが成立するには、「正常(な人)」という枠組みがなくてはならない。しかし、そのような二項対立は、いかなる基準、正当性をもって…なんて言うと堅苦しいが、まあ要するに(合意可能な部分はあるにせよ)かなり恣意的な領域が存在する「正常」という暗黙の前提に則っている時点で、「狂人」なるカテゴリーが生じさせる(ように思われる)距離感も、結局は予定調和の範囲内に収まるんでないか?ゆえに、本当に距離感を持てるようにするには、むしろ「正常」の相対化の方が有効である…とまあそういうわけだ。
確かにその通りだが、二つの問題がある。まず価値相対化の時代においては、とにかくただ流すスキルだけが上がるんじゃないか、ということ。この場合、自らの「正常」を相対化することは確かに相手への押しつけ、あるいは一般的な「真理」が存在する「はずだ」という思い込みから遠ざけてくれるであろう。しかし、その人の個人的(リレイティブ)な「真理」の吟味はどうであろうか?また、一般的な基準の準拠枠を理解しつつ、それを完全否定するわけでもなく、かといってそれに従うわけでもない。そういう浮遊したあり方を「狂人」と呼びたい。
This allows us to eat our cake and have it too, to be separated and yet not separated.
しかしこの「狂人」という強烈な言葉は、やはりプラスにせよマイナスにせよ強い偏りを伴わないわけにはいかない。
もしマイナスの意味を持てば、それは自分がおかしいという「自己卑下」となり、結局はルサンチマンを溜め込むだけではないのか?
一方でプラスの意味を持てば、それは自分が距離感を保てているという自負となり、つまり「狂人」という自己認識は単なる諧謔へと堕する。
まあ「狂人」の発言を戦略的にやった時点で半ば「詰み」だったようにも思うけどね。
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