汝自身を狂人と思え

2007-08-29 01:29:59 | 抽象的話題
もし俺が狂人でないとしたら、この世から狂人という語は必要なくなるだろう。


「汝自身を狂人と思え」と言ったところで誰も受け入れはしないし、仮に受け入れたとしてもそういう人間はえてして「狂人」を「何をしてもよいという免罪符」のようなものと考えている。とはいえ、これを「謙虚さを持て」と言えばいかにも道徳的であり、下手をすると自分はおかしいのだと自暴自棄になったり、あるいは逆に自分をひたすら抑圧して欝になっていく人を増産するだけのような気もする。


何を言いたいかって?おそらく一番穏便な表現を用いれば、「自分を過信するな」ってことだ。ただ、この言葉も一般の認識を考えると俺の言いたいことからまだ遠い。というのも自分を過信しないとは、自分が犯罪者になったり自殺する可能性があることを、恐れるのではなくただありうべき将来の一つとして認識することだと俺は思っているからだ。今まで大きな変化を何度も繰り返してきたにもかかわらず、これからはそういう変化が訪れえない、すなわちそれほど今の自分が磐石で完成した状態にいるという認識・無意識的な思い込み…これが過信でなくて何が過信だろうか。人間の自己に対する根拠の無い確信はかくの通りである(え、そういうふうに考えないと不安でしょうがないって?そう、実はそのようにして宗教は生まれたのです。でも自己に対する根拠の無い確信は「自己に対する信仰」とは呼べないのだろうか?)。


ちなみに自分がおかしい可能性を想定していないと、不満や違和感などが生じた場合におかしいのは必ず対象の側だと思うようになる(モンスターペアレンツの話などに繋がる予定)。自分が絶対的な基準なのだから当然の結果である。そしてもしそんな前提があったのでは、色々考えても結局は自分を正当化するための思索にしかなりえない。例えば「自分ではなく常識が(絶対に)おかしい」という具合に。


おかしいと思う自分自身がおかしいのかもしれないし、あるいはやはり対象がおかしいのかもしれないという最低二つの答えを用意して始めて、創造的な思索ができるのだ(実際には時代の変遷や地域性といった状況の違いなどがあり、単純な白黒を付けれないことも多いだろう)。これが自己を客観的に見ようとする姿勢に他ならない。そしてもしかすると、そういう姿勢からしか自分の不満や違和感の源泉を探ろうとする行為は生まれてこないのかもしれない。


ちなみに、俺が自分のことを狂人と言うのは自己の客体化のためだけでなく、実際にそう思うからでもある。例えばこないだは、寝床についた途端に「ダッチワイフを買う理由・精神性について」という問いが突然浮かんできた。これは大枚はたいてまでダッチワイフを買う理由がわからんというところから生まれたのだが、それは以下の理由による。すなわち、

①:ダッチワイフに大枚をはたくということは、そこにそれだけの価値を認めるということに他ならない。ではダッチワイフの価値とは何か?想定しうるものとしてはアソコの感触が重要ってことだが、それならとりあえずオナホール辺りでいいやとかは考えんのかしら?考えないのだとしたらそれはなぜか。

である。そして
②:①に対して「いやいや人体(に近いもの)とヤル[?]のがよいのだ」といった反論が想定されるが、だとしたら風俗に行ったほうが安上がりなんじゃないか?

と考えられる。そして
③:もしこの意見が的を射ているとしたら、風俗に行くのでは得られない何かをダッチワイフに求めているということか?人形愛?動かない方がよい?何かしらの特殊な事情?

という段階まで到った。ここからはダッチワイフが実際にはどれくらいの値段でどれくらい売れているのかといったデータが必要になり、さらには異常性愛関連の研究も読みたくなる、という具合である(まあそこまではせんと思うけど…)。

まあ少なくとも、
④:こんなことをいきなり考え付くあたり俺はまことに頭がオカシイなあ

という結論は出た。なお、こういう思考様式がオカシイと思える程度には「常識」があったほうが世間的には便利だし、思考の幅も広がる。とはいえ、やっぱり俺がオカシイことには変わりはないが。くけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ。
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