鎌倉幕府はなぜ滅んだのか?:集権体制と分権体制

2022-10-02 11:21:21 | 歴史系

 

 

昨日の記事では、「室町時代(中世)に興味を持っている理由は、今日の主権国家体制や国民国家を対比的によりよく理解することへもつながるからだ」と書いた。そんな折、ちょうど鎌倉幕府の改革(弘安徳政を通じた地方分権体制の志向)に関する動画が出ていたので参考までに掲載しておきたい。

 

元寇を通じて幕府の影響力の及ぶ地域が西側へ拡大したことが、「東国政権」であった鎌倉幕府のキャパオーバーを惹起して破綻と滅亡に繋がっていったのではないか?という話は「『最大版図』の輪:拡大と衰退の構造」でも触れた(陣取りゲームではないので、領土拡大=国力増大という単純な理解は危険である、ということ。これは戦争を考える際に現場での戦術と同等かそれ以上にロジスティクス[ここでは生産力や輸送力]を考慮する必要がある、といった話にもつながる)。

 

今回については、「そもそも集権体制の志向=改革・改善なのか?」という視点が提示されていて興味深い。

 

政権の安定的運営という視点で考えれば、集権体制の志向=改革とみなす発想はそれなりに根拠のあるものだ。例えば、ビザンツ帝国がテマ制からプロノイア制に移行したのはイスラーム勢力の拡大による領土縮小(これに対するアレクシオス1世の救援要請が十字軍へとつながる)などで帝国が弱体化してからだし、また神聖ローマ帝国は分権的構造もあって常に様々な角度から皇帝権力への挑戦を受けることがあり、13世紀半ばには皇帝不在が10年以上続く大空位時代を経験することにもなった(これに関してはカノッサ事件や金印勅書なども参照)。また分権的体制は、王権弱体化即強大な対抗勢力の登場となりうるわけで、それが数百年にわたる春秋戦国時代を招来することにもなったのである(ただ、周王朝の権威に利用価値があった春秋時代と、利用価値がなくone of them化した戦国時代へと大まかに分類されるが)。

 

以上のような事例に基づけば、中央集権化の成功は政権安定化とリンクする部分が大きいわけだが、さりとて「集権化=絶対善」ではないことも事実だ(これは今日で言えば地方自治の重要性が叫ばれることを想起してもよいだろう)。例えば前述の戦国時代を終わらせ中華を統一した秦は、たかだか30年ほどで滅亡してしまった。これは始皇帝からの継承の失敗という側面もあるが、一つには中央集権的な郡県制(やら度量衡の統一etc)を全国に施行したことへ反動・反発という側面も見逃せない。

 

 

まあこの場合は、施行(変化)のスピードが拙速だったり、「戦乱による疲弊や敗北による敵愾心を踏まえた民力休養」という柔軟さ=アメとムチのバランスが欠けていた部分があった、という点も注意を要するだろう(これを踏まえると、前漢の支配体制は興味深い。というのも、最初こそ首都長安の近辺は郡県制を敷き、遠方は一族・功臣に支配を任せる封建制を併用した郡国制を採ったが、徐々に韓信など国内の対抗勢力となりうる存在を排除して封建制の領域を狭め、最終的には呉楚七国の乱で実質郡県制=集権体制に移行したためである。つまり、秦を反面教師としてゆるやかな集権体制の構築を行った、とみることができるだろう)。

 

ともあれ、今回取り上げた動画を見る限り、単に鎌倉幕府が滅亡した理由の考察だけでなく、そもそも「鎌倉幕府とは何であったのか?」という点や、「理想的な政権運営(あるいは王権論)についての多様な視点」という意味で実り多き内容になるのではないか、と期待を述べつつこの稿を終えたい。


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