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共同幻想、あるいはAIと不老によるその終焉

2018-10-16 12:16:32 | 生活

自分が生きたいと思ったからといって、自分が死んだ場合に世界が変化を被ったり、誰にでも納得可能な「生きる意味」なるものが措定できるようになるわけではない(もちろん、自分で勝手にそう思い込むのは個人の自由だが)。

 

同様に、誰かを大切だと思ったからといって、その人の死が世界を激変させるというケースは稀だし、その人の「生きる意味」とやらが物理法則のように反復可能なものとなったり、それゆえ承認可能なものとして保証されるわけでもない(これもさっきの話と同じで、そう感じること自体は当人の自由である)。

 

要するに、両者は全く別物であるにもかかわらず、存在への欲望・執着がそれを混同させてしまうのだ。しかしこのような欲望や執着はかなりの程度ありふれているがゆえに、間主観的なものとして相互強化され、また排除の論理に比べれば他者を著しく侵害することもないために、言説としては世に溢れかえることとなる(ちなみにこの中間に位置するものとして、「なぜ人を殺してはいけないのか」がある。ただしこれは基本的人権や生存権といった考えが世界に広がり、ある程度の間主観性が担保された結果として、あたかもキラークエッションのようになっているだけで、実際のところそうしてはならぬ理由は存在しない。戦争や緊急避難など様々な話ができるが、この話はちと長くなるので今回は割愛)。

 

そもそも、「自分がそう思うのであるから、事実そうであるに違いない」などという発想は本当に成り立つのだろうか?もしもその論理が成立するなら、「自分が強い愛情や執着を持っているのだから、その相手は自分を愛しているはずだ。」ということとなり、自らの妄想を他者に仮託するストーカーなる者は世に存在しなくなる・・・そんな状況がありえるとでも??ポジショニングと党派性を元にしたレッテル貼りで罵り合っている状況を見るだけでも、性質の悪い妄言の域を出ないとすぐに理解できるだろう。まあ要するに、「生きる意味」の件はコントロール不可能な他者という当たり前の現実に目を向けた瞬間、「個人の感想ですね」でお話は終了するわけで、どうしてこれを「私は生きたいと思う」・「私はあなたに生きていてほしい」・「あなたが死んで悲しい」という言葉で正しく認識しようとしない(混同してしまう)のか。

 

もっとも、自分たちの存在を「神による創造」などの形で長い間有意味化・正当化してきた人間の在り方を思えば、その混同はもはや「原罪」とでも言うべき宿痾なのかもしれない。

 

まあとはいえ、個人的には「それを混同するがゆえに執着を捨てきれずこの世は一切皆苦となるのだ」とまでネガティブに考えず、先に述べたような感情と向き合いつつも世界の偶然性と未規定性の中で生きていけばいいんじゃないの?と思ったりする。まあ確かに、登場人物たちが極限状況や悲劇を通じてこの世界が偶然の産物に過ぎないと気づく様を描いた作品の多くは、それを体験した人間が日常に、社会に帰還することの難しさをしばしば表現している(たとえば「ユリイカ」)。多くの人が抱く幻想をもはや共有しなくなるのだから当然のこととは思うが、まあそうまでして繭の外に出るリスクを冒すぐらいだったら、パスカル先生じゃないが、宗教とかそれっぽいもの与えて生が充実した感じになるならそれでいいんじゃない??って結論になるんですかねえ(ちなみに私の場合、大切な人の死を悼む人間に対して、「いや別に人間なんかいつか死ぬんだし生きる意味もねーんだから執着すんなよ」とは間違いなく言わないだろうし、そもそもそういう場面でそう言いたい気持ちになったこともない。それは、「大切な人を喪って悲しい」という感情の方に寄り添おうと思うからだし、またそこでわざわざ世界の偶然性について語ったとしても、その人に気づきを与える契機になるとは全く思わないからだ)。

 

ただその意味で、人工知能の発達やアンチエイジング・再生医療などの技術革新によって生命というものの捉え方がどのように変わるか見てみたいものではある、と書きつつこの稿を終えたい。

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