ハート様の著作を読む企画に賛同したものの、実際は忙しさにかまけてまだ一度も会合が開けていない状態である。とはいえ、こんな面白い対談を見つけたので掲載してみようと思う。
ここで語られているのは比較憲法学・比較法学であり、またアメリカ憲法やイギリス憲法の持つヴィヴィッドさである。このような視点は、憲法というものを一種の「聖典」のごとく扱うのが当たり前となっている状況・認識から我々を自由にしてくれるだろう(ただそのことで、二項対立的に憲法をどう解釈しようが政権の自由なのだ、などという話にはならないが)。
日本は欧米をモデルにしてきたこともあってそこに理想があると考えてしまうことが多い。しかしながら、欧米も実態としては(ドイツ憲法[基本法]とイギリス憲法のマインドが異なるように)国ごとに大きく異なるのはもちろんのこと、様々な差別や問題、特異性を抱えていて、そこに掉さすものとして理論・理想があるという事実を忘れがちである(自由・平等の象徴のように言われるアメリカだが、実際は数多くの差別が存在することはKKKやリー将軍の銅像の件、あるいは昨今の相次ぐセクハラ告発を見ても明らかだろう。あるいはイギリスに貴族政度が残っていることをもって「意外に遅れているんだな」などと思うような反応もまた、その典型と言ってよいように思われる。つまりは四民平等というものが徐々にではあるが歴史的に実体化していった日本の現状からイギリスの様子を勝手に想像し、さぞやそこは自由・平等の社会であろうと勝手に妄想しているわけである。なお、そのような見方では、第一次大戦の時にイギリスの貴族たちがnobles obligeとして我先に志願し戦死していったという事実を容易く見落としてしまうように思われる)。そのような、私たちを未だに縛り付ける幻想から自由になる機会として、アメリカ憲法やイギリス憲法の、あるいは国際法の持つ端的な事実性の追認というか、ある種のアドホックさを学ぶことは大いに価値があると思った次第である。
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