性暴力の告発について

2017-12-30 12:19:53 | 生活

 

 

いわゆる「パワハラ」というものは、その場で抗議しなければ受け入れたことになるのだろうか?あるいは、ヤクザに脅された時などに、特に目立った抵抗をしなかった場合は受け容れたことになるのだろうか?あるいは、銃で金を出せと脅された時に、あらかじめ用意しておいた10ドル札を抵抗せずに渡すのは?

 

このような問いを立ててみると、おそらくほとんどの人が馬鹿げていると思うことだろう。なぜなら、パワハラの例では「上司の圧力が強くて抗しがたい」であるとか「言うと後々気まずい思いをするかもしれない」といった事情・計算などがあるわけで、その場で明確な拒絶の意を見せなければそれは即ち受容を意味する、などという理屈が成り立つはずもない。またヤクザの恐喝の例で言うならば、後に通報したりするケースはもちろんあるにしても、恐怖で動けなくなったりまともな思考ができなくなることだってある。最後の銃で云々というケースに到っては、抵抗などしようものなら命の危険にさらされるわけで、それなら10ドル札で済むに如くはなし、というわけだ(しかしそれをもって「10ドル渡すことに合意した」などとみなす人は皆無であろう)。

 

レイプやDVはもちろん、痴漢やセクハラについても同じことが言える。というより、同じことが言えないと考えるのは全く理解不能だと言ってもいい(告発した側が常に100%正しいわけではない、という点でも共通している)。にもかかわらず、しばしば「なぜ逃げなかったのか」・「なぜすぐに声を上げなかったのか」といった発言が跳梁跋扈しているのは、特に男性の側に、「望まぬ性的行為というものは端的に言って暴力と同じである」という感覚が欠落しているからだろう。あるいは「自分には悪気はなかったのだから(許されるはず)」というパワハラやいじめっ子の理屈にありがちな独善性か、もしくは自分が快楽を覚えたのだから相手もそうだったはずだというレイプファンタジーで頭が浸食されきっているのかもしれない。

 

いずれにせよ、非難すべきは加害者であって、被害者でないのは言うまでもない。むしろ、「どうして~しないのか?」といった被害者批判(という名のセガンドレイプ)は問題を温存させたり、深刻化させたりする以上の効果はないのであり、端的に言って有害無益である。そう考えた時に、例えば痴漢の問題に関して、「なぜ被害者は声を上げて訴えないのか」と非難したり、やたら冤罪のことを取り沙汰することは果たして公共的な発言・振る舞いであろうかと思う(たとえば、いわゆる「当たり魔」がいるからといって、「交通事故をいかに減らすかの前に当たり魔についてこそ議論すべきだ」などという言説は聞いたことがないし、仮にあるとしても話の順序が逆転しているとしか言いようがない)。というのも、前者は冒頭で述べた抵抗することの困難さや被害を訴えることの困難さを一般化して考えてない(=自分には関係ないと思考停止している)のであり、後者は冤罪を問題視すること自体重要としても、それが告発への委縮効果になるということを全く理解してないように思えるからだ(そして、意識的にやってるのだとしたら、かなり性質が悪い)。

 

 

まずそもそも、満員電車や監視カメラがごく一部しか取り付けられていないという環境面、あるいは法律のシステム上、痴漢を告発する場合に現行犯以外は難しく、今のような捕まえ方になること自体は必然性がある。問題なのは、当然誤解・冤罪もありえるのに、否認すれば代用監獄制度が待ち受けており、無実を訴えた際あまりに時間的・費用的代償が大きく、虚偽の「自白」をして保釈金を払い娑婆に出た方がむしろ失うものが少ない(かもしれない)という負のインセンティブがある現在のシステムなのだ。冤罪について問題を提起するなら、何よりもまずこの「中世的」システムをこそ強く非難すべきであって、それを追求することなしに告発した側へ非難の矛先を向けるのはとんだ筋違いというものだ。今の状況は、冤罪になりうるからと告発そのものを非難するもの発言が少なからず見られ、あたかも「お前たちが忍従していれば問題なく社会は回るんだ」とでも言わんばかりである。

 

痴漢そのものが許されざる行為だという認識に立つなら、そこから生じうる冤罪を問題とするにしても、司法システムそのもの、司法システムに関する無知(を許容する社会)、鉄道会社の対応、あるいはもっと大きく言うなら、未だにフレックスタイム制もテレワークも上手く導入できず、相変わらずの通勤ラッシュに悩む社会のあり方そのものへの疑義といった方向に行くのが当然だろう(というより、それらをまず問題とせずに告発者批判へと繋がる冤罪に言及するのは、代用監獄の問題などから目を逸らせようとする陰謀とでも考えない限り理解できないほど、意味不明であると言ってもいい)。

 

たとえば鉄道会社に関しては、「痴漢は許さない」などというスローガンや漫画を掲載している暇があったら、監視カメラを導入してそれを喧伝するなど具体的な抑止力を持ち込むべきである(まあ張り紙と違って金がかかるのでやりたくないだろうが)。また、「働き方改革」のようなものがただのお題目でしかなく、結果として都心部を中心に満員電車がなくならないのであれば、訴える・訴えられる場合の法的対応について、男女とも研修会をすべきだ(そもそも現行犯逮捕であれば警察官でなければ可能ということさえ、この日本においてどの程度共有されているのか極めて疑わしい。ちなみにこのような提言をした時に「自分は知っている」と言う人がいるが、それは一般と特殊具体の個別がつかない愚か者である)。そのようなことをせずに、「自己責任」として個人に任せ否個人に押し付けるならば、痴漢が生じさせる様々な問題というのは永遠に終わることがないだろう。

 

もちろん、「平穏な日常が痴漢として告発されることにより突然社会的に抹殺されるという通り魔的恐怖」については考慮してしかるべきである。しかしそれにしても、発露すべきは痴漢被害者に対するミソジニー的言説ではなく、それが成立してしまう環境・システムへの批判と提言ではないか。それをすることなく痴漢撲滅派に対して「冤罪撲滅派という名の告発否定派」のような態度で不毛な闘いを仕掛けるのは、社会や政府に問題提起するのではなく内ゲバで仲間内に矛先を向けて粛清を繰り返し消滅していった連合赤軍のように浅ましく、そして醜いと思う次第である。

 

 

[補足という名の蛇足] 

このブログでは「不毛」というカテゴリーでしばしば下ネタを書いてきたし、また性的嗜好について「オールレンジグリーン」という表現もしてきたので、今回の題材と論調は奇異に感じる人がいるかもしれない。しかしそれは、言葉の表面的な部分しか見ておらず、その背景にある考えを見落としている。というのも、これも何度が書いてきたことだが、基本的な発想は「他人に迷惑をかけない限りは何をやってもよい」(あるいはリベラル・アイロニズム)であり、ゆえに他人と関わらない個人的な嗜好が幅広いことと、痴漢やレイプを批判することは当然のように両立するからだ(ちなみに「迷惑」という言葉は抽象的だが、端的に言うと「暴力」である。そして冒頭で述べた「望まぬ性的行為は暴力である」ということを思い出していただきたい)。

私は自分に縁もゆかりもない他人のプライベートや嗜好について口を出す趣味はないが、一方で痴漢については社会に蔓延する暴力の一つとして解決すべきものと考える次第である。

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