毒書会 続報:アダム=スミス、「共感」、AI化と人間の「劣化」

2019-11-29 12:42:46 | AI

11/24、午前中の仕事を終えた後で毒書会の会場に向かう。今回は森本あんりの『反知性主義』がテーマであったが、正直なところアメリカを知るための入門書であり、この著書自体を議論するような類の本ではないだろう。

 

ただ、一つ述べておくなら、本書で強調しているのは反知性主義というものが知性主義の対立軸ということであり、その二項対立がわかっていれば、アメリカでしばしば見られるスイングバック、すなわち共和党と民主党の行きつ戻りつといった現象もよりよく理解されるものと思われる(子ブッシュからオバマ、オバマからトランプというのはその最たる例と言える。なお、この背景には沿岸部と内陸部の状況の違い、ゲリマンダーと呼ばれる選挙制度、最高裁判事の任命システムなども関連しており、単に思想や宗教の問題で片づけられない点は注意を要するが)。

 

ともあれ、冒頭で述べたような意味である種「つなぎ」の側面が強い回となったが、これからの短期・中期におよぶ読書課題を決められたのはまあ進展だろう。具体的には、12月に『AI時代の労働の哲学』、次に『ポスト資本主義』、そして次に『ホモ・ルーデンス』という具合である。

 

で、現状『AI時代~』を読み始めたが、それだけでは当然足りないので、森村進『法哲学講義』なども購入したし、途中で止まっている『ホモ・デウス』も読み進める必要がある。また、『AI時代~』はロックやアダム=スミス、ヘーゲルやマルクスの労働観が最初に語られるが、個人的にはヒューム的な懐疑論(つまりロック的な社会契約説なども懐疑する)とハイエク的な自由至上主義経済の連動性についても重要だと思っている。

 

というのも、たとえばスミスは「神の見えざる手」と述べて重商主義的な政府の介入を否定し、自由競争を是としたが、立論の背景に『道徳感情論』があったことを看過するわけにはいかない。なぜなら、自由競争を行ったとしても、ホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」状況に陥らず、社会のバランスが保たれると彼が考えたのは、(極めて大雑把に言えば)「共感」なるものによって社会がまとまっているのであり、それゆえにある程度の自己抑止が働くと推論したからだ。

 

しかし、独占資本主義自体のヨーロッパ世界の植民地拡大や破滅的な二度の大戦を思い描くまでもなく、今日の我々はグローバリゼーションと同時に、隣人すら何者かよくわからず、それゆえ深刻な分断が進む社会を生きているのであって、スミス的な理解が定言命法的な(=常に成立する性質の)ものではなく、ある特定の条件下でしか発動しないことは火を見るより明らかだ(リベラルナショナリズムなどの語を出すとわかりやすいか。ちなみに、私はAI社会の到来について述べる時、論者の多くが「AIはどれだけ人間に近づけるか、ないしは超えられるか」という視点でしか語っていないことをしばしば批判している。その理由は、そもそも人間が生活する環境が変化すれば、人間自体の行動や人間への評価も変化し、それがAIと人間に対する人間からの評価があたかも需要供給曲線のように変化していく、という視点を欠いているからだ)。

 

こういった変化は、近代的な規律訓練型から生ー権力型の管理への移行にも見て取れる。すなわち、国家を始めとする公的機関が教育や収監といった形で人を教育・矯正する社会から、住民が監視カメラでお互いを監視しあうような社会への変化である。もちろんこれはひとり思想的なものではなく、技術的な進歩という側面を無視することは決してできないが、そのような技術的進歩が人の行動様式(ひいては理性で自律できる存在=人間という近代的な人間観)をも変えることは、今の中国の顔認証システムの普及とそれによる変化にもすでに見て取れることである(もっとも、中国の場合は住民の相互監視ではなく、国家=ビッグブラザーによる監視網の徹底化という点でジョージ=オーウェル的なやや古い世界ではあるが)。

 

以上のような認識に立てば、社会契約説というものも一種の「神話」とする視点や、意識的・無意識的は別にしても社会契約説に基づいた考察を批判的に見る(デリダの脱構築はこの典型だが)ことも当然重要になってくるわけで、他にも色々と読むべきものが増えるなあと思っている次第である。

 

ああ、早く電脳化したい・・・(攻殻並感)


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