いわゆる「武士道」が歴史的に作られた幻想に過ぎないと私たちに理解させてくれる。
内訌による裏切りの数々、二人の主君に使える両属体制、平時における荘園の横領、戦時の略奪行為(まあ補給が脆弱だった昔「現地調達」はありふれた話だが)etc...それは主権国家体制を自明としがちな今日の思考様式はもちろん、(太平の時代である)近世の『葉隠』や(異文化にそれをプレゼンせねばならなかった)近代の『武士道』によって醸成されたイメージを解体し、正しく実態を把握する動機づけを持つ契機ともなるだろう(これは前に書いた日本社会と同性愛の件なども同じだ)。
ちなみに、それなら「武士の世界=下剋上=実力主義」で考えればええやんと思われるかもしれないが、そこに家格=お墨付きが必要であったことは、後の有力者たちがこぞって自身を源氏などに結び付けようとしたことからも、そう単純ではないとわかる(また逆に言えば、それらしい理由づけさえあれば自分たちの刈田狼藉や横領が正当化できるということで、南北朝動乱が現場の武士たちによって体のいい口実として利用されることにもなった)。
そして同時に重要なのは、実態と言説の齟齬から、「なぜそのような物語が生まれたのか?」、「なぜそれが必要とされたのか?」という視点による分析・解体とその一般化(人間による事実誤認のパターン理解)まで進めれば、立体的な把握としてさらに望ましいと言えるだろう(それはイデオロギーや陰謀論の構造理解にも関わってくる)。
また、『葉隠』などは後世「武士道とは死ぬことと見つけたり」のような一部分が強調され、それが「死の覚悟で高いレベルで職分を全うする」という本来の趣旨から外れて死の要求やその自己目的化まで繋げられたことを思えば、厳しい現場・現実から離れた状況でこそ勇ましいことを叫ぶチキンホークが生まれる構造とも類似の状況を見出すことができ、大変興味深いと言えるだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます