岡倉天心『茶の本』:亜細亜主義、小中華思想、脱亜入欧的オリエンタリズム

2023-06-30 12:13:18 | 本関係

『茶の本』は、岡倉天心が日本の茶道を欧米に紹介するため1906年に著した『The book of Tea』の日本語訳である。いわゆる「茶道」の作法を説明しているだけでなく、中国における茶の歴史、欧米への茶の普及、抹茶と煎茶、道教と茶の精神性なども語っている。

 

こういった本を読むとき、中身自体の妥当性も去ることながら、意図と実態にも注目することが大事である、という事例として取り上げたい。

 

まず意図だが、明治期において、欧米に日本文化を紹介する目的という点ではこの数年前に発表された新渡戸稲造の『武士道』が思い起こされる(『茶の本』においては、武士道精神が日本の道徳性の根幹にあると述べた『武士道』のことを批判的に触れており、むしろ戦いと死より平和と生に導く文化として茶(道)があるのだと説いている)。

 

さて、「武士道」に関しては、武士の成り立ちや鎌倉・室町の実態などを少しでも知っていれば、そこで例に出される武士の振る舞いをもって武士の本質だなどとは全く言えないことは論じる必要もない。これはすでに太平の世となっていた江戸時代において、『葉隠』が「武士道とは死ぬ事と見つけたり」というのと同程度にはフィクショナルである。

 

では、そのような実態との乖離によってこれらの著作が全く無価値になるかと言えば、そうではないだろう。つまり、欧米という先進国に対し、日本や東洋を説明する必要にかられていたという当時の状況理解と、またどのように説明されたいと思っていたかの理解に繋がるからである(これは前に述べた「偽作された家系図を単に誤っていると切り捨てるのではなく、当時の継承に関する理念を説明してくれうると考えれば有益な部分もある」というのと似ている)。

 

この時の日本が置かれた状況を今の私たちが理解するのはなかなかに難しいが、例えば約半世紀後にレヴィ=ストロースが『野生の思考』を著し、それぞれの地域には体系的な世界理解というものがあり、近代欧米の価値観でそれらを野蛮だとか劣っていると評価することの誤りを指摘した。このような潮流は、マルクス主義史観(ヨーロッパ中心主義)を背景にしたサルトルらの世界観を打破し、後に多元文化主義へと繋がっていったわけだが、明治期の日本はネイティブアメリカンなどの文化と同じような立場に置かれていたと言っていいだろう(まあ日清戦争や日露戦争の勝利などを経た評価ではあるので、変化の途上にあったというべきだろうが)。

 

つまり、自分たちは欧米に比べて遅れているのではなく端的に異なるのだ、と具体的に説明・説得する必要に迫られていたのである(日米和親条約から続く治外法権の撤廃と日清戦争の勝利、そして日露戦争の勝利という時期であることを想起したい。なお、この数年後には故村治太郎によって関税自主権の回復が成し遂げられる)。このように考えると、一種野蛮性の象徴のように見なされていた武士のあり方を騎士道精神などとも比較対照しながら述べたり、あるいは同じ茶でも欧米とは全く違う味わい方をする茶道のあり方を説得的・魅力的にプレゼンすることが求められていたと言えるだろう(そのため『茶の本』では、ひとり茶のみならず、日本の建築様式と欧米の建築様式の違いなどにも言及した上で、前者の構造的意図や意味についても触れている)。

 

ただ、ここで『茶の本』に注目するなら、そこに日本だけでなく、中国やインドなど様々なアジア諸国の悠久の歴史を継承したところに日本の茶道が成り立っている、という視野の広さは亜細亜主義者岡倉天心の面目躍如たる部分とは言えるだろう。

 

もっとも、中華地域がモンゴル=異民族に侵略され、茶の伝統が途絶えた結果、それを移入した日本に茶の本質が継承されたと述べるあたりは、いかにも小中華思想にありがちなロジックではある(まあ最終的に日本を称揚する目的なのだからそれもむべなるかな、というものだが)。例えば清が成立した時に李氏朝鮮も同様の認識をしていたし、また江戸時代には明から様々な知識人が亡命してきたが、その中で満州族の支配する中華地域はもはやあるべき状態になく、そのエートスを受け継いだ日本こそ中華であるという発想も生まれてきた(まあここには中世から存在していた神国思想なども影響しているのだが)。そして、亡命知識人の一人である朱舜水の薫陶を受けた徳川光圀などによって水戸学の原型が作られていき、後の尊王攘夷運動などへと繋がっていく、というわけである。このように、別の視点から天心の『茶の本』を見るのも興味深いだろう。

 

ところで、『茶の本』の意図や特徴はわかったとして、当時の日本の実態としてはどうだったのだろうか?そのように考えた時、天心がそこでは美術学校の経営からは放逐され、半ば仙人のような生活をしていたことが思い出される。そして、天心が親交したタゴールが1915年に来日した時の反応は前に「脱亜入欧的オリエンタリズムとその淵源」で述べた通りだが、要するに彼を自分たちの同朋ではなく、近代化に遅れたよその世界から来た仙人のように扱い、お互いに失望を深くしたのであった。

 

ここには、亜細亜主義としてインド(や中国など)を同朋とみなすより、むしろ我々はアジアを脱却して列強の仲間入りをした。然るにあなた方はいくら大層なことを言っても所詮欧米の植民地となり、旧態依然とした文化の中で生活しているではないか、という意識が存在していたことが読み取れる。要するに、天心のような文化理解・世界理解は、当時の日本でも異端視され、後の日本でもそれほど変わるところがなかったと言える。

 

そしてこのような理解のあり方を思う時、日本の宗教意識を扱う際に、専ら欧米との比較をして日本特殊論を説く一方、アジアという視点は全くと言っていいほど欠落するという今日的特徴にも繋がっていると私は思う(このような歪んだレンズのままで大東亜共栄圏とか言っていれば上から目線になるのも当然という話で、そこから創氏改名や神道の強勢などが行われていくわけである。もちろん、資源がほしいがゆえの南進論という本音や、軍費をまかなうための軍票の評判の悪さいった具体的な面も様々あるが、こういった根底のメンタリティにも目を向けておく必要があるだろう)。

 

そして、天心のような発想から知識と視野の広さを抜くと、今日の不全感を埋め合わせするための「日本スゲー論」になってくるのだろうと述べつつ、この稿を終えたい。


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