Vtuberの「身近さ」がもたらすメリット:セーフティーネットにつながる一つの道筋として

2021-08-27 11:20:20 | Vtuber関連
そう言えば、こないだひぐらし卒の感想記事で「息根とめる」のことを取り上げたんで、ここで少し話を広げておこうと思う。
 
 
そこでの話は「児童相談所から相談の電話がかかってきたら、虐待を受けている子どもはその人に真相を話すか」というもので、要は「信頼関係を築けていないにもかかわらず、恐怖に怯える子供が真実を打ち明けると考えるのは愚かだ」、ということであった(末尾にて補足)。
 
 
つまり、この話を一般化すると、「システムがあってもリーチしなければ(してもらえるようにしないと)意味がない」という風に言い換えられる(一応言っておくと、これは社会福祉においてはしばしば取り上げられるテーマの一つだ。例えば『貧困を救えない国 日本』などを参照)。例えば精神疾患で、そもそもどういう状態がどういう病気の兆候なのかはあまり認知されていないケースも多く、ゆえに「本人の努力不足」に短絡させてしまうことになるし、あるいはそれで本人が違和を感じたとしても、病院に行くこと自体がハードルとなって先延ばしとなり、結果的に重症化してしまう、といったことが起こっている(そして、精神的・肉体的にすり減っている状態で、色々な情報を調べ、病院の目星をつけ、人と会う決心をし、しかもそれで上手くマッチングするかはガチャであることも・・・となったら、重症化する=通院するとも限らない。なお、ここに無理解な周囲の抑圧が加わるというオマケまでついてくることを忘れてはならない)。
 
 
このような観点で見た場合に、然るべき仕組みへ到達する(あるいは事態が深刻化するのを防ぐ)可能性を高めるものの一つがVtuberではないかと思っていたりする(もちろん、顔出しでYou Tube活動をしながら病状などを紹介されている方もいる)。これは、その場に行く必要がなく、コミュニケーションを取る必要からも解放され、プライバシーが脅かされる可能性も下がるため、ハードルが低くなってアクセスしやすくなるからだ。で、結果としてそれで単純に興味が湧いたり、自分の状況と似ていると感じてより詳細なものを調べたり相談したりする方向に行くなら、それで十分ですよ、というわけ(これは歴史や雑学に関しても同じことが言えるのだが、これについてはお勧めYou Tubeチャンネルの記事で散々紹介してきたのでここでは詳しく触れない。ちなみに、アクセスのしやすさゆえの危険性もあるのだけれど、それはまた別の機会に)。
 
 
というわけでいくつか紹介してみると、前にも触れたことがあるのはADHD先生黒井や由宇霧チャンネルである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こういった動画から知識を得ることで、マイノリティとして、周りに理解してもらうのが難しい、悩みを周りと共有できない・・・あるいは実はそういう事例も少なからずあるのに、自分を異常者として過度に追い詰めてしまうetc...といった現象に歯止めをかけることがある程度可能だろう(なお、これはよく言っているが、「人間はわかりあえないことから始める」は大前提であり、ここで述べているのは「それでも自分が生きていくために、あるいは共生を模索する上で何が必要か」という話である。ちなみに由宇霧チャンネルをこの文脈で紹介するのは不自然ではないかと思われる方もいるかもしれないが、実はそうやって「悩みのゾーニング」のようなものをすることが、生きづらさの一つを構成しているのではないか?とここでは問題提起しておきたい)。
 
 
 
 
では、ここから先まだ紹介したことのないVtuberを取り上げると、
 
 
 
 
 
こちらは高校生で統合失調症になった経験がある「もりのこどく」の動画。掲載したのは一般的な統合失調症の症状に関する説明だが、この他にも自身の統合失調症の幻覚、症状改善のための薬、あるいはその副作用など様々なものを短い動画で細分化して紹介している(おそらく発症するのが若年層であり、ゆえにそこへ届かせることを考慮してのものだろう)。
 
 
 
 
 
 
こちらは「雨声シト」という薬剤師をしているVtuber。チャンネル名にもあるように、薬だけでなくメンタル系の話も扱っており、自傷行為とその意味合い・向き合い方なども紹介している(自傷行為に対するありふれた説教とのそのデメリットの話などが参考になる)。
 
 
・・・といった具合。
前述のように、Vtuber以外で普通のYou tuberとして活動してらっしゃる人たちもいるが、人が触れられる色々なチャンネルがあるのは良いことだと思う。適切な支援ができる環境か以前に、そこへ到らなければ意味がないし、周囲がそれを理解しない人間ばかりならば、無理解を通り越して抑圧・矯正すら行いかねないのだから。あえて繰り返すが、親族や隣人、知人の好奇の眼差しに晒されながら、その上で情報を調べ、適切な機関に足を向けることを決めるのは相当な負担がある(最悪のケースとして、周りがそれを止めさえする)。
 
 
だから、もっと身近に触れることのできる存在が必要なのだ(Vtuberの場合、生身ではないことで生々しさが低減されるけ一方、そこには確かに人がいる、という絶妙な距離感が重要)。そしてそれは、単に「情報を与えてくれる」だけじゃなく、似たような境遇の人たちの「居場所」にもなりうる。一人じゃないと知ることは、非常に心強いもので、それは蜘蛛の糸となりうるものだ。
 
 
「人は理解しあえない」というところからスタートできない人間は多い。ゆえに、人の内面に土足で踏み込んで好き勝手な言葉をわめき散らし、時には暴力で従わせ、人を破壊していく人間も後を絶たないのである(あるいは「人はどうせ理解しあえないんだ」で終わってしまう)。重要なことは、本質的に理解しあえない人間の集まりの中で、それでも共生のためにどうするかであり、その一助としてVtuberは有用である、と述べつつこの稿を終えたい。
 
 
 
【補足】
 
え?「折角助かる機会なのに利用しないのは感情的に納得できない」って??
そう思われる向きの方は、例えば内部告発や産業医での受信を想像してみるとよい。そこでは、ルールとして明確に提示されていたり、あるいはプライバシーの遵守が決められているにもかかわらず、それが守られない事例も報告されている。あるいは、自分の労働環境に問題点があると思った場合、ほぼ全員が労働監督署に訴え出るだろうかと言えば、そうではないだろう。要するに、ルールが明示されている大人の世界でさえそうなのだから、まして子供にとってをや、という話である。子供時代の話で言えば、「誰にも言わないからいってごらん」や「怒らないから言ってごらん」などの大人の言葉を全面的に信用したか?あるいはそれは実際に真実であったか?などを想起してもよいだろう。なお、この話は強制猥褻罪やその告発、そしてセカンドレイプの問題について考える際、パワハラとその告発などを事例として自分や自分に近いものに置き換えて考えるとわかりやすい(ちなみに、この手の話題は「性暴力の告発について」「性犯罪に見る反社会的自己責任論」「言い分を交換してみよう:Tバックと下ネタとセクハラと」などで度々取り上げている)。
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 四国周遊記:圧倒的ポロリ~... | トップ | 「脱社会的」Vtuberについて... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Vtuber関連」カテゴリの最新記事