Abema TVで「子持ち様」に対する会社員の不満を扱った番組をやっていたが、内実としては「議論のようなもの」をしているだけで、解決に向けて真剣に考える内容7となっていなかったので、ここで批判的に取り上げてみたい。
回りくどい話は抜きにして結論から言えば、動画で茂木や夏野の愚にもつかない「お喋り」は飲み屋での放談と同じレベルであり、こんなものはフリップでまとめたらずっと簡潔明瞭に説明できる。
具体的には、
1:ライフスタイルの多様化
2:メンバーシップ型雇用の特性
の二つに集約されるわけで、要するにメンタリティの問題よりも前に、社会的・システム的な背景を押さえる必要がある(以前も紹介したが、小熊英二『日本社会のしくみ』などを参照)。
これを元に掘り下げると、前者についてわかりやすく言えば、もはや日本は見合いなどの激減によって皆婚社会ではないため非婚の人も増えてきているし、会社共同体の発想も崩壊して働き方も以前より多様化しているため、必然的に「お互い様」の発想が機能しづらくなっている(これは社会の変質と結婚・仲人の変化を分析した『仲人の近代』を参照されたい。戦後日本における会社共同体の役割の大きさと、その変化もよりよく理解されるだろう)。
例えば対照的な事例を出すと、江戸時代の農村のような流動性の極めて低い社会では、村の成員がどういう人物かよく知っている上に、若衆組などで繋がっていて結婚相手もそこが斡旋・承認するような仕組みがあり、かつ水の利用など共通の利害に則っていたため、ハイコンテクストな社会が成立しており、後の昭和時代に起きた津山事件のようにその抑圧的側面を決して無視はできないけれども、かかる運営方法は当時としては合理性をもっていたのである。そしてこう考えてみれば、人・物・情報の全てで流動性が極めて高い今日、もはやそういった社会は成立しえないことは論を俟たないであろう。
そういった社会状況において問題を面倒にしているのが、実は後者のメンバーシップ型雇用である。そこでは、ジョブ型雇用と違って職域が曖昧なため、会社の成員である以上、「穴」があればそれを埋めることが求められがちな構造となっている。しかも、そのような職域の件は契約上で明文化されている訳でもないので、「子持ち様」の事情による欠員を、子どものいない=時間的に自由が利くはずだとみなされる人々が、明確なインセンティブもなしに埋めることを要求されることとなるのだ。かつそれは「暗黙の了解」であるため、しばしば「子持ち様」や苦境に立たされた職場への「思いやり」として無言の圧力のように奉仕が求められる。これが業務量の物理的負荷はもちろん、不公平感という精神的苦痛(「空気読み」のストレス)を増幅することへと繋がっている、ということである(動画のコメントにもあるような「休んだ人の態度」が、カバーする側の納得感の問題としてしばしば取り上げられるのは、こうした背景があると考えればわかりやすい)。
以上のようなシステム的問題に着目すれば、夏野が言うような「会社に文句を言うべき」・「仕組みの問題」・「政府の対応云々」といった話は、抽象的すぎて論外である。これらは「しょーがねーじゃんどうしようもねーよ」と不満を抑圧するような内容にしかなっておらず、そんな発言しかできないのなら、黙って他の人間の議論を促す方がよほど生産的だろう。わざわざ費用と時間をかけ、仮にも問題を解決するために番組を作成しているのなら、そういった「曖昧な認識」を紐解いて問題を階層化したり、その上で解決策を考えるべきではないだろうか(例えば、メンバーシップ型雇用からジョブ型雇用の転換は大きな変更を要するため、短期的には不可能と思われるが、ならば現状起こっている問題を放置してよいという話にはならず、金銭的なインセンティブなど含めた体制の構築促進が必須だろう)。
次にライフスタイルの多様化についてだが、茂木が脳の構造がどうこうといっている愚にもつかない部分は、(例えば「国民性」というような)メンタリティの問題ではなく、具体的な社会構造の変化として説明することができる。そしてその構造変化が、社会成員のエートスを変質させている、という話なのだ(これはフリーライダー批判などともリンクする)。
こういった構造的必然の話をメンタリティの問題に帰結させるのは、「我慢しないお前が悪い」「私の方がもっと我慢している」という人格批判にしかならず、問題解決の糸口にならないばかりか、むしろ対立を煽る結果となるだろう(=最も解決から遠ざかるアプローチ)。その意味において、冒頭の茂木の「議論」は、最悪の一手と表現しても過言ではないだろう。
さて、以上のように、「子持ち様」批判が生まれる2つの大きな背景と、それぞれに対する茂木・夏野両名の全く的外れな「議論」を批判したわけだが、番組がこのような体たらくになるのは、つまるところ「子持ち様」批判がSNSでバズっていることに便乗しているだけで、それをどう分析して解決を模索するべきか、真剣に考える気などさらさらないからだろう。
そしてそういう「議論のフリをしたお喋り」は飲み屋の放談ででもやっていればよろしいわけで、金と時間を無駄にした挙句、むしろ対立煽りを激化させかねない構成は、無益を通り越して有害とさえ言っていい、と述べておきたい。
なお、前述した2つの背景というのはあくまで主要なものであり、この他にもサブ的な問題として、
3:同一労働同一賃金の問題
4:仕組みに関する無知=問題意識が周知されてない→丸山真男風に言えば「作為の契機の不在」
(いつ・どこで・どのようにといった問題を含め、教育の重要性)
(いつ・どこで・どのようにといった問題を含め、教育の重要性)
5:変化はしつつあるが、それでも権利主張をエゴと見なしがちな社会的土壌
(権利を「上からの恩恵」とみなす風潮。治外法権的学校空間の問題)
(権利を「上からの恩恵」とみなす風潮。治外法権的学校空間の問題)
6:環境を整えるのは会社や管理職の責務という認識の欠落
(5ともリンクする)
(5ともリンクする)
7:SNSという議論より直感的不満が噴出・増幅しやすいツールによる対立拡大
(エコーチェンバー・サイバーカスケードといった性質)
(エコーチェンバー・サイバーカスケードといった性質)
などを指摘することができる。要するに価値観が多様化しているため「暗黙の了解」を前提にしたハイコンテクスト社会から脱皮せねばならないのに、その仕組み作りがあらゆる点で遅れていて、そうして生まれた不満や誤解が、類似の背景を持つ人間同士の野合により、解決に向かうどころか、むしろどんどん増長されてしまっていると言える。
よって真剣に問題の解決策を考えるなら、これらを一旦整理した上で、長期的・中期的・短期的取り組みを段階別に切り分け、個人でできること、職場でできること、より大きな枠組みに訴えるべきことといった形で提案していくのが生産的な議論と呼べるのではないだろうか。
なお、今回この問題を取り上げた理由は、古典教育やマスメディア批判と類似している。というのも、古典教育不要論やマスゴミ観には偏りや問題があるのだけれども、それらが生じるのには十分な社会的背景・必然性があるからだ。よってそれらと真摯に向き合って対応法・解決策を考えなければ、つまり「こいつら何もわかってねえなあw」みたいな態度でいる限りは、その問題の多い発想が社会を席捲していくことは避けられないだろう、ということである。
以上。
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