さて、リハビリがてらこんな記事も復活させていきましょうかね・・・と。
12月に毒書会の相方と飯を食っていた際、トリアージや安楽死の話をしたことは前に書いたが、その絡みで利他などの話をした際に、日本における個人主義というものが、しばしば単なる「利己主義」に堕してしまうこと述べた(そのような個人主義を、あえて「孤人主義」と呼ぶこととしたい)。
もちろんこういった問いには反証がありうるわけだが、ひとまず日本がその発想を移植した大元の欧米(動画の中では主に米)では、それがどのように成り立っているかを掘り下げることで、日本との差異やそれによる機能不全の理由を考えるヒントにはなるだろうと思う。
すなわち、全知全能の神と一対一で繋がり、それが土台・準拠枠として機能するからこその自律=個人主義なのだが、一方でそれは社会に埋め込まれていないことを意味しない。むしろ、「我々はどうしようもなく個人個人でバラバラなのだけれども、一方で一人で生きていくことはできない以上、他者との協業・共生をどのようにしていくかを考えないわけにはいかない」というマインドになり、それが目的合理的に離合集散するアソシエーションの形成に繋がる、ということである。要するに個人主義とは、「集団」の対置項目でもなければ、「集団」の否定要素でもない、という点が重要と言える。
しかしながら、日本における「個人主義」の理解というものは、おそらくは社会や世間といった集団のイメージが強すぎ、また欧米的な土台(やその埋合せ作業)を欠いたままその理念だけを上滑り的に導入した結果、単なる集団の否定=エゴイズム(利己主義・孤人主義)として立ち現れてきているのではないか。そしてそういった痩せた社会理解の表出が、しばしばその社会的影響→自己への波及を無視した「自己責任論」という名の切断処理の数々ではないかと思うのである。
このように言うと、日本人が「無宗教」であることの弊害などと結びつける向きがあるかもしれないが、それは短絡的だろう。というのは、例えばフィンランドが中学校で自らの福祉社会のシステムを詳しく説明することで子供たちの社会理解促進と社会への埋め込みを行うように、代替的処置はいくらでもあるからだ。しかしここにおいて、日本は「よらしむべし、知らしむべからず」という発想の元に近代で生まれた民を兵隊化する教育でもって、考えさせるよりもマシーン化する人間を量産しているため、むしろ逆のことを延々やっていると言える。そしてそのような発想の人間を量産すれば、システムから外れた人間は理外の存在として切り捨ている人間が大量に出るのは、当然のことだろう。
以上の流れからモデルケースの話に以降すると、成熟社会となった今、フルパッケージとして理想形となる社会は日本の外に存在しない。どこの国も格差や排外主義などに苦しんでおり、言ってしまえばそれぞれが病理を抱え、その手当てをしながら死に至らないようケアをし続けている状態なのだから。これは日本が戦後に範型とし続けたアメリカ社会の現状を見れば、それ以上説明は不要のはずだ。分断の拡大により意見集約の合意形成すら難しくなってきている状況(選挙に関する陰謀論etc)、完全に宗教化し第二の魔女狩りと化しつつあるポリコレなどなど。また、よく引き合いに出される北欧型の福祉社会なども条件設定が違いすぎて実現不可能だろう。
では、「昔の日本に戻る」のはどうか?これまた全く現実的ではない。というより、2023年にあれほど閉鎖的組織の問題系が指摘される中、大真面目にそういった発想をしているのは、現実逃避をしているか無知蒙昧かのどちらかに属する人間しかないだろう。
じゃあどうするのか?以前の記事で、「ユートピアはその言葉通りどこにも存在しない」と書いた通り、どこかに理想郷=最終解を求めるのは不毛である。必謬性を負った人間が作る社会は常に完璧たりえない以上、またこの世界が常に有為転変して一瞬たりとも同じであることはない以上、求められるのは永遠の微調整である(こうなるとバーク的な保守主義に話がなっていくわけだが)。
このことを前提とし、常に問題はゼロにならないことを踏まえた上で、今ある問題系のピックアップと優先順位の設定の元、今より残酷さの少ない仕組みを目指して調整・変化を続けるしかないのではないか。
2024年は、前年を受けた取り組みが単なる誤魔化しか、それとも未来に向けた変化の端緒になるかが試される年になるだろう。
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