俺の日曜日をつぶすな

2013-11-28 17:59:22 | 宗教分析

ただでさえ剣道の試合で休日がつぶれることも少なくないのに、別に行きたくもない長崎まで連れていかれるのはゴメンだ。朝から家を出て、どんなに早くても帰りは夜6時くらいになるから、まあ要するに一日つぶれるってこと。

かと言って、行きたくないと親に直接交渉するのも面倒だ。特に父親の場合、それでへそを曲げてそもそも行くことを止めにするとか言い出しかねないし。俺としては、別に親が行く分には全く構わないから、俺だけがそこからスルッと抜ける、そんな展開になるのが理想的だ。

となると・・・脱出、これしかあるまい。そしてその上で、あとは勝手にしてちょーだいと電話をかければ良いだろう。そうと決まればあとは逃走経路(byDIO)の確認だけやね。

玄関から出るのは面倒だ。鍵開けの音でバレる可能性が高いし、また出た後に鍵を閉めないといけないが、あいにくと鍵は今手元にない。後で叱られる余計な理由を作る(増やす)のは得策ではない。ということは自室(二階)から直接ということになるが、ダイレクトプレイは庭に芝生ありとは言ってもリスキー。となると、ベランダ横の中二階みたいなところを伝って外へ行くしかあるまい。おあつらえ向きに、門の外にはNの緑自転車がおきっぱなしになっているから、これを使ってコンドームの家にでも行くか(親戚ゆえ親との会話も不自然に思われないし、日曜日アポなし突撃も比較的しやすい)。靴だけ玄関から取って、と。二階に戻ってベランダへ出て・・・あとはダイブするだけやがちと緊張するのう・・・うおーワイは男やー!ジェロニモーーー!!

思いのほかあっさりと脱出作戦成功。あとは気づかれずに敵地を離れるだけやで。頭の中で「孤独のRunaway」が流れる中、コンドーム家到着。そこから電話して「今日はコンドームと遊ぶわーヽ(。∀゜)ノ」。その時以来、親が俺を長崎行きに誘うことはなくなった・・・

 

これは何の話か。一昔前に、「宗教と思索」という題名でも書いたが、長崎は(主に父)親が帰依していた宗教施設があった場所で、ふた月に一回くらいの割合でそこに家族連れで行く習慣になっていた。しかし部活の試合などもあるのにせっかく遊べる日曜日がそんなものでつぶれてしまうことを嫌がった俺はやや変則的な形でボイコットし、それ以来長崎に誘われることも(実際に行くことも)なくなった、という話である。

さて、前述の「宗教と思索」では、小さい頃から宗教が身近に存在したこと、小学生時代はそれにまつわる疑問などを父親にぶつける場合もあったことを書いた。そこでは中学時代には宗教が縁遠いものになっていたことも触れてはいたが、それがどのような様であったのかは曖昧なままになっていた(中学時代については「嘲笑の淵源:中学時代」という記事でも類似した書き方になっている)。一応、そのように言語化が難しいことが、当時の私の意識に宗教が絡まなかったことをパフォーマティブに示すことになると思い放置してきたが、(宗教がらみではないがw)タイの話を書いたついでに、当時の精神性を具体的に示すものとして、このエピソードを取り上げた次第である。

というのも、そこで長崎に行かない=宗教的なものへの距離感は、宗教的なものとの対決(たとえば宗教施設へ行くことの無意味さを説く)などではなく、「日曜礼拝をめんどくさがる悪ガキが親の目を盗んで脱走する」ようなものであり、別言すればそれが、アンチテーゼであれ自分の中で重要な意味を占めていたのではなく、単に「面倒なもの」程度に成り下がっていたことを意味するからだ(ちなみに言っておくと、宗教施設はキリスト教関連ではありません。あしからず)。

 

さて、ここからはちょっと別の話題。

俺は誰かにさっきのエピソードを話したことがない。なぜなら、そのような方法ではこの話の意図するところが伝わらない、と思うからだ。何度かこのブログでも取り上げてきたが、そもそも日本において宗教の話題が出ることは少ない。ましてそれが大きな宗教施設に家族連れで礼拝(的なもの)に行くといった具体的日常の話になればなおさらだ(ちなみにお隣の韓国では、キリスト教が盛んなこともあってそのような行動は割とありふれているのだが)。ゆえに、そもそも今のような話題を取り上げること自体物珍しいケースであり、その結果強い主張となってしまいがちなのである。そのためそのような行為がもはや大した意味を持たなくなっていたのであり、そしてそのような変化が重要なのだということを言っても、その意味が伝わりはすまい、ということである。周囲の会話のあり方を観察して俺が出した結論がそれだ。

よって、ただ言いたいから言う(=表出)が目的ならそれもいいが、言いたいことを伝える(=表現)が目的ならば、これを話題として持ち出すことはありえない。というのも、この話の要点であるところの、「それをもはや大したこととして意識しなくなった」という部分が、決して伝わらないと思うからだ。しかしこのように書かれた形で提示すれば、アーカイブとして対象化・距離化できる(のに加えてネタを挟んで中和しやすい)ため、要点が相対的に伝わりやすくなるだけでなく、今後の他の記事を書いていく際に参照項として活用もできるのである。

 

ここから、また別の話題につなげることができる。

前にも書いたことだが、普段俺が(直接人と)話していることが「建前・表層」で、ここに書いてあることが「本音・深層」などという見方は愚の骨頂である。単純に「表現」の手段としてどちらが適切なのかを判断し、使い分けているだけなのだから。例を挙げよう。仕事の具体的な話や改善の考えをこの場で書こうとは全く思わない。なぜならそれは、職場や会社の人間と共有すべき類のものであって、ここにちまちま書いている暇があるなら現場に持ち込んでとっとと協議・実行すべきと考えるからだ(もっとも、自分の職場でのつまずきや改善策は他の人にも共有できるし、場合によってはアドバイスをもらえたりするのではないか、という狙いで記事を書く方法はもちろん肯定する。ただ私の場合、意図的に自分の仕事を明かしてないので、そういう戦略は採りえないのである)。一方で、今回取り上げたような直接話しても意図が伝わらない(伝わりにくい)ケースというのも存在する。そういうわけで、繰り返すが、どちらが本音だとか建前だとか言うことではなく、その表現戦略に従って選択しているだけなのである(これは前に書いた「『ライフログ』の欺瞞」にも通じる話だ)。

たとえば前述の「宗教と思索」の記事を発表したのがブログを始めて3年後だったのも、初期に日本人の「無宗教」の話をする時、単に俺がそういう来歴だからそういう疑問・思考を持つのだという距離化・無害化を回避するという狙いがあった。また最近の「灰羽連盟」の記事でも書いたが、そもそも正確に説明しようとする行為が意図とは反対の結果をもたらしたり、そもそも主張内容とパフォーマティブに矛盾している、という事態をもたらすこともしばしば起こりうるのである。

というわけで、リニアに(=順に)書いていけばいずれ正しい理解にたどり着く/たどり着いてもらえるというのはあまりにナイーブな考え方である、と最後に書いてこの稿を終えることにしたい。

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