熊本帰省四日目に「バーニング」という店に行ったことはすでに書いた通り。
そこで会ったのは斉木ありさという子であったが、大人びた印象の写真と対象的な喋り方、お嬢様系の格好、そしてブログの内容の全てがちぐはぐに思われて、おもしろいと感じると同時にものすごい危うい印象を受けたものだ(その危うさを表現する便利な言葉もあるが、ここでは書かない)。そしてその不協和音が、彼女を精神的に追い詰めてるのかもしれない、とか勝手なことを思ったり・・・
まあもっとも、そこらまで意識してブログを書いている場合は話は別だ。ブログのために話を捏造したりはしないにしても、「何を書くか・書かないか」を選定する段階でそもそもバイアスがかかるわけであって、それに意識的であるか否かでだいぶ違ってくる。
たとえば今回の帰省に際して、このブログの投稿数が急増したのは読者諸兄の見たとおりである。またそこでは、今まで表立っては書いてこなかった側面(つまり風俗とかのことね)をかなり扱っていて、人によっては意外な印象を受けたかもしれない。ではそこにある意図は何かというと、7月から8月頭にかけて、「中間体」、「ガラパゴス化、宙吊り、パラダイムシフト」が象徴的だが、更新が極めて遅く、そして一つ一つが長文であった。またそこでは「未規定性」の話をくり返しているわけだが、それをパフォーマティブにやろうと思い立ち、「思い出がおっぱい」で触れた風俗話に絡めて題材を決め、「記事が少ない⇔記事が多い」、「意図や背景の考察⇔感想重視」、「脳内対話⇔実際の対話」、「GWで紹介した熊本⇔お盆で紹介した熊本」といった部分を意識的に書いたわけだ(ゆえに、性質を異にする「はじめの一歩」に関する記事は意図的に掲載してない。ちなみに最後の項目は「東京」や「アメリカ」、「トルコ」に関して書いた多様性と繋がる)。
もちろん、これらの記事はネタ作りのためではなく、実際にあったこと・書きたいことを記事にしている。つまりは日常(東京にいる時)でも帰省時にあったような出来事や視点は存在しているが、単に書く時間がなかったり意図的に書かなかったりで表面化していないだけのことだ。ただそれでも、何を書くか、書かないかで見え方は大きく変わるのである(たとえば、表面しか見ない人間は「8月頭ぐらいから筆者が風俗にハマり始めた」と考えたりもするだろうwメディアリテラシーというのは、つまりそういう偏向や特徴をも見抜く視点であるはずだ)。またこのようなことに思い至れば、いわゆる「ライフログ」、ある意味では「世界そのもの」など決して描きえないことにも気付くはずだ・・・
賢明な読者諸兄に対してこういった説明記事を元に「一つ一つの記事が実際の・本心のものであることと、それをどのようにアーカイブとして利用するかという視点は当然のように両立しうるし、それができなければ結局それは単なる感想文の垂れ流しにすぎない」・・・などと話すのは釈迦に説法とも思うのだが、GWに帰省した時にメタ視点を非常に意識するしおみから「フラグメントにはコメントしづらい」と言われ、「おいおいアレの目的はレトロスぺクティブとハブ機能で、コミュニケーションなんぞ志向してねーよ」と思った経緯があったので、老婆心ながら書いておいた次第。
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