沙耶の唄:市場分析の欠落と誤読

2011-06-25 18:11:54 | 沙耶の唄

沙耶の唄:作者のナイーブな期待と認識」において、次のように書いた。すなわち、沙耶の側へ親和的になる表現方法・内容となっているため、沙耶の唄=恋愛モノといった受け取り方をする人間が多かったのは極めて自然であること。しかし理屈では沙耶の側を全面的に支持するのは欺瞞であることが明白なので、感情と理屈のズレによって内省・葛藤が生じ、世界認識の変化をもたらしうる作品になっている、と(逆に言えば、そのような回路を経ることがなければ、たいていは安全な「風景の狂気」に終わる)。たとえばそれは、論理的であるのに間違うのではなくて、論理的であるがゆえに間違うこととがあるといった事実を認識することなども同じだ(「論理至上主義の陥穽」、あるいは「カラマーゾフの兄弟」の裁判)。

 

インタビューにおける「理性も狂気」といった作者の発言は似た種類の認識・気付きに見えるのだが、「なぜそうなるのか」という構造への無識さのためにむしろ極めてナイーブなものとなってしまっている(その危険性・閉塞性は、「相対主義」「ニヒリズム」で述べたこととも繋がる)。それはあたかも、結核という病の症状=表層を知っているだけなのに、いかにして結核になるのか=深層まで含めた全体性を理解しているという錯覚と同じで、わかっていると思っていて実は何もわかっていないという類の(ありふれた)病なのである。

 

<原文> 
さてここまで、「沙耶のビジュアルが持つ意味と効果」における問題提起に始まり、「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」、「『泣きゲー』へのアイロニー?」、「二項対立と交換可能性」、「作者のナイーブな期待と認識」という具合に、沙耶の唄の本編から読み取れる交換可能性と作者の思い描く二項対立的図式の齟齬について論じてきた。これまでは時代状況といった一般的・抽象的アプローチ、あるいはサウンドノベルという枠組みからの考察が主であったので、最後は本編の具体的な描写を通じて沙耶の唄を多くのプレイヤーが「恋愛もの」と受け取ったか、つまりそれだけ郁紀・沙耶の側に引きずられた要因を分析する予定であった。


ここまでの流れを追うのはそれほど難しくないと思われる。しかし、明快であるからこそ、私が抱え込んでいる違和感などをきちんと示しておかないと、下手をすれば今までの記事が単なる「個人攻撃」と誤解されることすらあるのではないかと危惧している。そこで今回は、結論の前に今一度議論の土台などを再確認しておきたい。


あなたの友人にクラシック好きの人がいたとする。彼が「クラシックが好きだ」と言うのと、「みんなクラシックが好きなはずだ(should)」あるいは「誰もがクラシックを好きにならなければならない(must)」と言う場合、果たして同じ反応をするだろうか?前者については「へ~そうなんだ」と流したりする人も、後者については「いやそんなことはないだろう」と反論したり、「なぜそんなことを言えるの?」と根拠を尋ねたりするだろう。前掲の「作者のナイーブな期待と認識」で述べた個人的な嗜好と一般的傾向の違いとは、要するにこういうことである(例えば私が「泣きゲー」を嫌悪しているからといって、それがブームにならなかったと言うことは当然できない)。


とはいえ、インタビュー記事を見れば明らかな通り、自らの嗜好が一般的であるとストレートに主張するほど作者は愚かではない(誤読の自由などにも言及しているし)。しかしながら、「恋愛もの」として自分の作品が評価(誤読)され、しかもその理由を二年も考察する時間があったにもかかわらず、「沙耶は異物以外ではありえない」という認識をプレイヤーが共有しているかのような論じ方をしていることは、作者の言葉が上辺だけのものであって、根本的(ないしはパフォーマティブ)には冒頭に述べた違いを理解できていないことを意味する(「誤読の自由がある」と言えば、誤読の自由を理解したことになるのか?「命を大事にしなければならない」と言えば、命を大事にしたことになるのか?と問えば頷く人はそれほど多くはいるまい。「シニカルという罠」も想起)。多くの作品に触れることによって獲得されるシニカルな視点をプレイヤーに要求するのも結構だが、それが通用しないという具体的な結果がある以上、「誤読の自由がある」などと上っ面だけの言葉を述べるのではなく、最もわかりやすい構図が要求されるはずの(例えば仮面ライダーのような)特撮ヒーローものでさえ、勧善懲悪どころか善と悪、こちら側とあちら側の境界の曖昧さを描くようになっているほどに価値観が相対化され境界線が揺らでいる、あるいは双方合わせて絶対的基準の失効した今日的状況についてきちんと考えるべきなのではないか(それを個人的に好きか嫌いかとは別に、だ)?そのような考えから、インタビューにおける作者の発言を私は「レベルの低いナイーブな視点」と評価したわけである(※)。


以上をもって作者の見解に対する私の批判の要点は理解されたと思うが、中には「学者でも批評家でもない人にそこまで要求するのは酷なのでは?」と言う人がいるかもしれない。であればこう言えば納得するだろうか?すなわち、「市場分析くらいしたらどうなのか?」と(「泣きゲー」ブームなどは特にそうだ)。インタビューを見る限りでは、当時の業界の趨勢やそれに対して作者自身がどのような態度を取ったかについての言及がなく、ただ誤読に戸惑って作品の参照物の説明をしているだけだ。このことから、作者に市場分析をしようという考えはなかったと推測される(あるいはやっても非常に稚拙なものであった)。つまり、そこにほの見えるのは、ただ自分の好きなことをやっていたら誤解され、理由がわからず戸惑っている姿でしかないのだ。


二年間という十分な分析の期間があったにもかかわらず、市場分析もろくにやらずに結果として以上のような反応しかできていない以上、時代状況などに対する作者の発言を不見識だとして批判することは全くのところ妥当だと言えるだろう。


以上をもって、批判の背景となる考えは理解してもらえたと思う。よって次回は、ニトロプラスの他の作品との比較を通じて、交換可能性について改めて考えていきたいと思う。そしてその過程で、批判の中になお残る戸惑いが明らかになるだろう。



とはいえ、「褐色症候群L4」、「ボーイッシュがいいのだ」を初めとする属性分析の記事に見られるように、人間には個人的嗜好をついつい一般化してしまおうとする傾向が存在するのは確かで、そのことも自覚する必要がある(というかまあそれをネタにした記事なのだけど)。「帰納、演繹、バイアス」や「玉ネギの皮」、「この道、わが旅…」なども参照。


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