目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

東部地区コース 約5.3km

2018-07-09 10:47:16 | ウォーキング
この回から八月末までの8回のウォーキングは真夏バージョンとして歩行距離を5km程度として、日陰があるところを選んでいます。


ナイアガラが所有するSLの主動輪

平塚幼稚園
祐天寺駅前のみよし通り商店街から平塚幼稚園に入る入り口のところにこの動輪が展示されています。所有者はナイヤガラというカレーショップ。このカレーショップは何度か移転していますが、私が知る限り半世紀前には高架になる前の踏切の脇にありました。この動輪はC57117のもので、日豊本線を走っていたそうです。
小学校の同級生には平塚幼稚園の出身者が結構いたように思います。幼稚園のホームページから引用してみます。
平塚幼稚園について
 平塚幼稚園は昭和24年(1949年)2月、戦後の混乱期で資材や器材も乏しく、地域に子どもたちの通う園がなかった時代に、各方面からの協力を得て開園しました。
 都心の限られた環境の中で、できるだけ自然を生かし、仲間との活動を通じて幼児期を育ち合えるような保育を目指しています。

毎日の仲間との生活を大事にしながら
一人ひとりの子どもの関わりを大切にしています
・走り回れる広い園庭
・子どもたちの育ちに必要な自然環境
・子どもたちが主人公になった生活を大事にし、一人ひとりの人格を育てています

あそびの時間をたっぷりとっています
・子どもたちに『一番楽しいことは?』と聞くと、必ず『あそぶこと』と答えが返ってきます。 あそびは子どもにとっては自分の意欲・自発性・集中力・判断力・身体機能発達など、全てを養い、また満足・充実感をもたせてくれます。
・おもちゃとあそぶ、テレビを見るといったあそびではなく、仲間と関わってあそびます。 その中で相手(友だち)の気持ちを知る、ルールを作り出していくなど、どう仲間と生活していったらよいかを学んでいきます。
 たとえば、ケンカもただやめなさい、という指導ではなく、社会生活のルールやどうしたらよいか筋みちにそって考えていく場としてとらえています。
 このような点からも、子どもの成長にあそびは大事なのです。

仲間の中での関わりを大切にしながら
子どもたちの発達に必要な活動をします
年少児は……『お母さんと自分』の世界から出て、幼稚園という初めての集団の中で、自分以外の人(相手)を意識していきます。 友だちと2人で砂場で山をつくったり、体を動かしたり、踊るなどの活動をします。
年中児は……基本的な身の回りのことが自分でできるようにしていきます。 仲間のなかで、一人ひとりが自分の意見を出せたり、のびのびと絵を描いたり、体を動かして表現するなどのことをします。
年長児は…… 仲間と関わって一緒に考えたり相談しながら、畑活動、合宿、動物小屋、運動会などに取り組みます。 また、それらの体験をみんなの前で発表したり、絵画制作や運動に取り組みます。

動物も子どもたちの仲間です
 動物小屋にはにわとり、アヒルなどがいます。 はじめは怖がっていたり、いじめていた子も、年長組と一緒にえさをあげたり、さわったりしていくうちに慣れてきます。
 また、卵からひよこがかえり、大きくなっていく様子をみて、その動物の生態を知り、自分より小さい生き物への関心や生命の大切さを感じていきます。
 年長組が毎朝えさをつくり、世話をしています。

畑(土をさわる体験のない子がふえています)
 みんなで土を耕し、堆肥を運び、野菜をつくります。 ミミズや虫を見つけたり、発表や成長の様子を通しての新しい発見や驚きがあります。 収穫物は味噌汁やおやつにして楽しんでいます。

毎日歩いて登園します
 ふだん、乗り物に頼りがちな生活の中で、自分の足で歩いて幼稚園に来ることによって、歩く力、足の力を養っていくことになります。 また、忙しく過ごしてしまう毎日で、子どもとの会話、子どもの話を聞く、親と子のふれあいのひとときにもなります。

積極的に園外へ出かけていきます
(田んぼ・いもほり・たこあげなど……)
 子どもの生活の範囲を広げます。
 テレビや図鑑、本からの知識だけでわかったつもりになっている子どもが多くなりました。 都会の子どもだからこそ、自然に直接触れる体験が大事です。 幼稚園では友だちと田んぼに出かけていって、米づくりの一連の仕事を体験します。 田起こし、田植え、稲刈り、そして自分たちでつくったお米を食べます。 レンゲを摘んだり、かかし立てや虫を捕まえるなど、見たり触れたりの経験から、感じる心が育ち、感性がみがかれていきます。
 年長児は、小さい子たちの手をつないであげて出かけます。

お母さんがつくったお弁当を食べます
 たくさんの食品が今、氾濫しています。 生活習慣病が幼児期まで低年齢化していること、食品添加物、食品に関する問題が多く出されている現在、お母さんたちが自分の目で確かめ、その子どもの年齢や季節にあったものを作ることが大切になってきます。
 また、お弁当のときには、幼稚園の畑でみんなが作った野菜をおひたしにしたり味噌汁に入れて、当番の子どもが運んで食べます。




明顕山 祐天寺
祐天寺の境内をお借りしてストレッチをしてからウォーキングの開始です。現在でも消防と縁の深いお寺ですが、関連の話を「東京荏原歴史物語資料館」のページから一部引用します。
まといは堂内の天井にも描かれているという。祐天寺は江戸の町火消しと関わりが深いそうだ。というのも、火消しの組織の原型を作ったのが祐天上人とされているからである。祐天上人が増上寺の大僧上にもなったが、その頃増上寺は火災が大変多かったそうだ。そこで祐天上人は、寺内に火消しの組織を確立し、防火を行った。これが町奉行大岡忠相によって江戸の町にも応用され、町火消しができたという。そういう縁があるので、今でも正月の出初式のときには、消防団がお参りに来るのだと、郷土史家の先生はおっしゃっていた。


祐天寺裏五差路
祐天寺の裏は谷戸前川が削った谷になっており、川沿いのバス通りを含めた五差路になっています。駒沢通りがあるので、この五差路を通る車は多くありません。


油面小学校
さらに南下すると油面地蔵通り商店街があり、右側に油面小学校があります。油面は産業が地名となった良い字名だと思うのですが、現在の住所表示には使用されません。目黒区のページから引用します。
目黒の地名 油面
「油面」は、衾・碑文谷などとともに、初めての人にはまず読めそうにない地名の一つ。もとは、現在の中町一丁目に、同二丁目、中央町二丁目の一部を加えた一帯の旧字名だが、その名は、油面小学校、油面公園をはじめ、商店街通りや交差点、バス停などに今も残り、「住区」の名称ともなっており、その長い歴史に新たな一ページを加えている。
さて、「油面」の地名は、多くの地名の例に漏れず、土地の産物にちなむもの。江戸時代の中ごろから、この辺り一帯では菜種の栽培が盛んとなり、絞った菜種油は芝の増上寺や、その流れをくむ祐天寺の灯明用として使われていた。この油の奉納に付随して、絞油業に対する租税が免除されていたらしく、油製造により税が免ぜられている村、すなわち「油免」が、いつしか「油面」となったと伝えられる。
ただし、「面」については、韓国などで、村長のことを面長といっているように、「村」の意味とする説もあり、この説によれば、「油面」は、単に「油のとれる村」の意味となる。
なお、菜種の栽培は昭和の初めごろまで行われ、開校当時(大正14年)の油面小学校は、菜の花畑と竹やぶ、雑木林に囲まれた、畑の中の学校だったという。路線バスが商店街や住宅地を縫うように走る今日の町並みからは、想像もできない風景である。


油面小学校は区内でもかなり古い開校を誇ります。八雲小学校(1874年)、菅刈小学校(1875年)、下目黒小学校(1878年)、碑小学校(1879年)、中目黒小学校(1901年)、油面小学校(1924年)となっており、碑小学校までは19世紀の開校です。この時期に目黒区はなく、八雲小学校は衾村で初めて、菅刈小学校は上目黒村で初めて、下目黒小学校は下目黒村で初めて、碑小学校は碑文谷村で初めて開校した小学校でした。並べてみると区内oldest4は立て続けに5年間で開校していました。20年以上開いて旧中目黒村の中目黒小学校。1889年に三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村が合併して目黒村になっているので、中目黒小学校は目黒村に誕生した小学校となります。さらに20年以上開いて油面小学校が開校するのですが、この時点で目黒村は荏原郡目黒町となっています。小学校のある場所は旧中目黒村のようです。

東京府荏原郡目黒町全図
この地図を見ると油面の字名は中目黒村と下目黒村の両方に見ることができます。五本木の字名も同じように上目黒村と中目黒村に見ることができます。なかなか面白い。


目黒競馬場向こう正面の直線
目黒競馬場を突っ切るように南下してこの直線路に出ます。この道は元競馬場というより競馬場の周回道路だったと思われます。目黒競馬場の正面スタンドは目黒通りを背にしておかれ、厩舎は目黒通りを挟んで北側に置かれていました。


林試の森公園つばき門


七夕飾り

林試の森公園
羅漢寺川緑道を横断してつばき門から林試の森公園に入ります。めぐろウォーキング塾の合同地区ウォークで訪れた際、短冊に書き入れた七夕飾りがありました。よく見る光景ですが、短冊に書き入れるシーンから見ているのは今回が初めてです。
今年は梅雨明けが早く、7月にならないうちから夏空が広がっていたのですが、何か物足りないと感じていました。暑さに拍車をかけるような蝉の合唱がありません。この日の朝、今シーズン初めて聞いた蝉の声はミンミンゼミでした。ニイニイ蝉の方が出現が早いように思いますが、最近はニイニイ蝉はいないのかな?子供の頃はアブラゼミしかいない印象だったけど最近はミンミンゼミが増えました。クマゼミの生育域が北上しているという話も聞きます。東京でもクマゼミが席巻する日が来るのでしょうか?あれはうるさい!


石古坂のブドウ

龍泉寺三福神

山門前の不動明王と??

独鈷の滝

お不動様

大日如来坐像
石古坂を下り山手七福神の一つ恵比寿神を祀った三福神の前を通り山門から目黒不動龍泉寺にお参りしました。設定したルートではお参りせずにトイレ休憩の予定だったのですが、暑さを避けるため林試の森でトイレ休憩をして、こちらでの休憩の必要がなくなりました。夏場は汗をよくかくので、そもそもトイレ休憩を必要とする人が減ります。
休憩しないからと言ってめぐろ界隈で一番の観光地だった目黒不動にお参りしないのもなんだと思い、独鈷の滝をみて、男坂を登り、お不動様にお参りし、本堂裏の大日如来もお参りして、不動公園側から龍泉寺を出ました。


甘藷先生墓
この文字は青木昆陽先生の直筆という話をして、「自分で『先生』と書きますかねぇ」と言ったら、「先に生まれたことには違いない」との答え。さすが長老!


国旗掲揚台

目黒新橋
国旗掲揚台には「目黒区下目黒」とありますが、現在の住所は目黒一丁目とのこと。川を挟んで西側には下目黒小学校があり、下目黒村の中心地だったのでしょうか?目黒駅から下ってくる権之助坂は行人坂のバイパスとして開通したため、この橋は新橋となりました。


ドレメ?
目黒川遊歩道ふれあい橋下の壁面に描かれた絵です。


目黒清掃工場
清掃工場は建て替えのための解体中で、注目の煙突の解体も始まっていました。四本の足場をかけて、リフトが昇り降りしています。上から解体してリフトで下ろす工法のようです。クレーンで下ろすより風に強いのでしょうか?煙突を上から輪切りにして四分割し、それぞれの足場にリフトを付け替えて下ろしてゆくのかな。

川沿いを上流へ遡り、舟入場でストレッチをして解散しました。時間がちょうどよかったので「宝来へ行こう!」と古くからある中華料理屋に入りました。運よく座敷に陣取り、閉店まで飲むは飲むは!4人で生ビールの後、大瓶10本は空けたと思います。餃子、レバニラ、焼きそば、チャーハン、どれもおいしかったです。ごちそうさまでした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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