当初の予定では元町中華街駅から三渓園まで歩くコースだったのですが、6月18日まで都県をまたいでの旅行は自粛要請が出ていたため、南東部公園コースへ変更しての実施です。参加者は微増の14名でした。三渓園は6月1日より開園しているとのことです。
アメリカデイゴ
ノウゼンカズラ
いつものように中目黒GTに集合してから舟入場へ移動しストレッチをしてからスタートです。アメリカデイゴがようやく咲き始めました。
八百屋
5月31日のアジサイ
6月6日のアジサイ
清掃工場脇にポツンとあった米屋がい抜きで八百屋になりました。結構お客さんが来ている様子。一週間前には真っ白だったアジサイが少し彩をまとってきています。
重機でどぶさらい
アジサイ
大鳥神社交差点の母子像
金毘羅坂
目黒の坂 金毘羅坂(こんぴらざか)
更新日:2014年2月3日
「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の坂 金毘羅坂
目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高等学校あたりまで上る坂道を金毘羅坂(こんぴらざか)という。明治の中ごろまで、この坂の付近に金毘羅社(目黒三丁目)があったところから、この名がついたという。
明治40年、坂上に目黒競馬場ができてから、昭和8年に府中へ移転する間、坂には競馬場へ向かう人びとが、あふれていた。
坂の途中に昭和2年から住んでいる安本鹿平さんは「昔は、今よりずっと狭い道で、小型乗用車を少し大きめにした程度の乗り合いバスが走ってました。そうそう、坂の南方には、当時、競馬場がありましてね。馬券が当たって、大盤振る舞いをしている人が、あなた知っているかな、2人引きの人力車、そいつに乗って帰るって話をよく耳にしたものですよ」
当時、道幅は約8メートル。現在は、約25メートルなので3倍もの広さになったのである。
安本さんの隣人で、大正12年から住んでいる白石兼吉さんは「目黒競馬場へは、よく行ったよ。馬券は20円で1人1枚きりしか買えなかった。そりゃものすごい人出でな、毎週土曜日、日曜日は、大変なものだったよ。乗り合いバスや馬車をつかって競馬場へ向かう人で、坂はいっぱいだったよ。当時、交通事故も3度ばかりあったかな。まだ自動車なんてものは、ほんとに少なかったから、交通事故なんてものも珍しいことでしたよ。今とちがって死ぬってことはなかったな」
現在の金毘羅坂、人の波から自動車の波へと移り変わり、区内でも上位の交通量を示している。
5月9日の若竹
6月6日の若竹
ひと月が経ち葉も出てきたので、今年は出た若竹とは分からなくなりました。
アジサイ
目黒不動尊
甘藷畑
役行者
丸旦
鷹居の松の鷹
独鈷の滝は清掃中
にわとり
一寸法師?
サツマイモ畑の畝は大きいですね。役行者様にはまだ触れることがかないません。富士講丸旦の石碑がここにもありました。独鈷の滝は清掃中、この滝は慈覚大師円仁が投げた独鈷が当たって滝が湧きだしたということです。弘法大師空海は留学中の中国から独鈷を投げて、それが落ちた場所高野山に金剛峰寺を建立しました。独鈷は大師の飛び道具?
慈覚大師円仁が旅の途中、目黒の地で寝ていると夢に怒りの形相の人が出てきます。その姿を仏像に彫り目黒不動のご本尊になっていますが、怒りの形相の人が不動明王であることは中国に留学中に知ることになります。浅草寺のお前立を彫ったのも円仁。下野出身の円仁ゆかりの寺院は東京にたくさんあります。
葡萄
林試の森公園
ひと月前の林試の森公園にはたくさんの家族ずれが遊びに来ていましたが、緊急事態宣言が解除されたこの日は前回より少ないように思います。学校が始まって子供のストレスが少し発散されたのかな?
畳屋
碑文谷鬼子母神
円融寺
六地蔵
釈迦堂
コースは碑さくら通りを七中まで歩いて左折するのですが、この日は円融寺通りを歩きました。円融寺通りはバスが通る割には歩道が狭いのでウォーキングには向かないのですが、COVID-19の影響により同じコースを歩くことが多くなったのでちょっとは変えてみようと思いまして。円融寺の釈迦堂は室町時代の建物で、23区内最古の木造建築として国の重要文化財になっています。空襲で焼けなかったのですね。
碑文谷八幡宮
碑小学校発祥の地
碑小学校発祥の地は碑文谷八幡宮の参道にありました。いまの社務所あたりが小学校だったのかな。碑小学校は碑文谷村最初の小学校として明治12年に設立されました。それまではお隣衾村の八雲小学校(明治7年創立)まで通っていたのでしょう。
すずめのお宿緑地公園の若竹
古民家からのお知らせ
公園の由来
古民家は開放されていましたが、室内には入れないとのことです。古民家を管理しているのは歴史資料館なのですね。「角田さん」というのはこのあたりの大地主で、角田の表札を出す大きなお宅がいくつかあります。
ランボルギーニ
碑文谷公園のバラ
クチナシ
目黒通りを横断するとかつて東京日産だったところはランボルギーニの販売店と、フェラーリの修理工場になっています。愛車ブルーバードを購入した時には東山一丁目に東京日産があり、そこが閉じて碑文谷へ行くようになり、現在は駒沢の日産プリンスで車検などのサービスを受けており、碑文谷のこの場所はちょっと懐かしい。
碑文谷体育館でストレッチをして解散。短時間で済ませようと、日高屋で久しぶりの反省会をしました。皆さん生ビールを飲むのは久しぶりと喜んでいました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
アメリカデイゴ
ノウゼンカズラ
いつものように中目黒GTに集合してから舟入場へ移動しストレッチをしてからスタートです。アメリカデイゴがようやく咲き始めました。
八百屋
5月31日のアジサイ
6月6日のアジサイ
清掃工場脇にポツンとあった米屋がい抜きで八百屋になりました。結構お客さんが来ている様子。一週間前には真っ白だったアジサイが少し彩をまとってきています。
重機でどぶさらい
アジサイ
大鳥神社交差点の母子像
金毘羅坂
目黒の坂 金毘羅坂(こんぴらざか)
更新日:2014年2月3日
「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の坂 金毘羅坂
目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高等学校あたりまで上る坂道を金毘羅坂(こんぴらざか)という。明治の中ごろまで、この坂の付近に金毘羅社(目黒三丁目)があったところから、この名がついたという。
明治40年、坂上に目黒競馬場ができてから、昭和8年に府中へ移転する間、坂には競馬場へ向かう人びとが、あふれていた。
坂の途中に昭和2年から住んでいる安本鹿平さんは「昔は、今よりずっと狭い道で、小型乗用車を少し大きめにした程度の乗り合いバスが走ってました。そうそう、坂の南方には、当時、競馬場がありましてね。馬券が当たって、大盤振る舞いをしている人が、あなた知っているかな、2人引きの人力車、そいつに乗って帰るって話をよく耳にしたものですよ」
当時、道幅は約8メートル。現在は、約25メートルなので3倍もの広さになったのである。
安本さんの隣人で、大正12年から住んでいる白石兼吉さんは「目黒競馬場へは、よく行ったよ。馬券は20円で1人1枚きりしか買えなかった。そりゃものすごい人出でな、毎週土曜日、日曜日は、大変なものだったよ。乗り合いバスや馬車をつかって競馬場へ向かう人で、坂はいっぱいだったよ。当時、交通事故も3度ばかりあったかな。まだ自動車なんてものは、ほんとに少なかったから、交通事故なんてものも珍しいことでしたよ。今とちがって死ぬってことはなかったな」
現在の金毘羅坂、人の波から自動車の波へと移り変わり、区内でも上位の交通量を示している。
5月9日の若竹
6月6日の若竹
ひと月が経ち葉も出てきたので、今年は出た若竹とは分からなくなりました。
アジサイ
目黒不動尊
甘藷畑
役行者
丸旦
鷹居の松の鷹
独鈷の滝は清掃中
にわとり
一寸法師?
サツマイモ畑の畝は大きいですね。役行者様にはまだ触れることがかないません。富士講丸旦の石碑がここにもありました。独鈷の滝は清掃中、この滝は慈覚大師円仁が投げた独鈷が当たって滝が湧きだしたということです。弘法大師空海は留学中の中国から独鈷を投げて、それが落ちた場所高野山に金剛峰寺を建立しました。独鈷は大師の飛び道具?
慈覚大師円仁が旅の途中、目黒の地で寝ていると夢に怒りの形相の人が出てきます。その姿を仏像に彫り目黒不動のご本尊になっていますが、怒りの形相の人が不動明王であることは中国に留学中に知ることになります。浅草寺のお前立を彫ったのも円仁。下野出身の円仁ゆかりの寺院は東京にたくさんあります。
葡萄
林試の森公園
ひと月前の林試の森公園にはたくさんの家族ずれが遊びに来ていましたが、緊急事態宣言が解除されたこの日は前回より少ないように思います。学校が始まって子供のストレスが少し発散されたのかな?
畳屋
碑文谷鬼子母神
円融寺
六地蔵
釈迦堂
コースは碑さくら通りを七中まで歩いて左折するのですが、この日は円融寺通りを歩きました。円融寺通りはバスが通る割には歩道が狭いのでウォーキングには向かないのですが、COVID-19の影響により同じコースを歩くことが多くなったのでちょっとは変えてみようと思いまして。円融寺の釈迦堂は室町時代の建物で、23区内最古の木造建築として国の重要文化財になっています。空襲で焼けなかったのですね。
碑文谷八幡宮
碑小学校発祥の地
碑小学校発祥の地は碑文谷八幡宮の参道にありました。いまの社務所あたりが小学校だったのかな。碑小学校は碑文谷村最初の小学校として明治12年に設立されました。それまではお隣衾村の八雲小学校(明治7年創立)まで通っていたのでしょう。
すずめのお宿緑地公園の若竹
古民家からのお知らせ
公園の由来
古民家は開放されていましたが、室内には入れないとのことです。古民家を管理しているのは歴史資料館なのですね。「角田さん」というのはこのあたりの大地主で、角田の表札を出す大きなお宅がいくつかあります。
ランボルギーニ
碑文谷公園のバラ
クチナシ
目黒通りを横断するとかつて東京日産だったところはランボルギーニの販売店と、フェラーリの修理工場になっています。愛車ブルーバードを購入した時には東山一丁目に東京日産があり、そこが閉じて碑文谷へ行くようになり、現在は駒沢の日産プリンスで車検などのサービスを受けており、碑文谷のこの場所はちょっと懐かしい。
碑文谷体育館でストレッチをして解散。短時間で済ませようと、日高屋で久しぶりの反省会をしました。皆さん生ビールを飲むのは久しぶりと喜んでいました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
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