目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

小石川植物園コース 約3.7Km

2017-12-03 16:52:35 | ウォーキング
紅葉時期の定番コースで、中目黒GTに集合後、中目黒駅→東横線→渋谷駅→半蔵門線→九段下駅と乗り継いで、北の丸スクエアで場所をお借りしてストレッチ後スタートします。


写真:九段会館
東日本大震災の時に友人が亡くなった建物ですが、建替えとなると少し複雑な気持ちがあり、写真に残しておきます。


写真:やきとん屋
やきとんの専門店、増えましたね。


写真:北辰社牧場跡

写真:東京大神宮入り口

写真:徽章業発祥の地

写真:新徴組屯所跡
九段下から飯田橋駅へ向かう目白通りには「歴史のプロムナード」と書かれた数多くの記念碑が建っています。気になるものを見てみましょう。
北辰社牧場跡
榎本武揚 は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久2年(1862)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しましたが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟の為の育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が四,五十頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。

徽章業発祥の地
この奥、大神宮通り向かって左側に明治18年(1885)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業のはじめで、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業の方々の大多数はこの商会の流れを汲み、徽章業は飯田町の日本徽章商会から生まれたといわれています。そして、現在もこのあたりは徽章業に従事する人が沢山います。

新微組屯所跡
文久2年(1862)に出羽浪人清河八郎によってつくられた浪士組は新徴組と名を改め、ここの武家屋敷を屯所として幕末の警備に当たりました。清河は幕府に献策をして浪士組をつく警護のために上洛しますが暗殺されてしまいます。京に残った浪士組の一派が幕末史に華を添える新選組となります。その後新微組は庄内藩主酒井左衛門尉に従い、明治になってからは山形県鶴岡市で開拓生活を送り悲劇的な話を残しています。



写真:気になっているドイツレストラン
このコースを歩くたびに気になっているのですが、まだ一度も訪れたことがありません。この会社のHPから引用してみます。
ドイツでは、ファーストフードでもカフェでもない「新感覚の集いの場」を“インビス”と言い、広く親しまれています。ハンブルグ発スタイリッシュなモダンスタイルの空間 で、伝統のドイツの味をご堪能いただけます。 ドイツの街角をそのままに、本場のソーセージとビール、そして美味しいコーヒーが貴方を待っています。
今度行ってみよっと!


写真:目白通りと外堀通りの交差点
この近くにあった高校に三年間通いました。ほとんどの時期は地下鉄後楽園駅を利用していたので、こちらは通らなかったのですが、三年の夏休み以降代々木ゼミナールへ行くため通学ルートを変更し、この歩道橋を毎日通っていました。


写真:小石川後楽園
紅葉がきれいです。


写真:通っていた高校の前の通り
鹿島道路のビルになる前は五階建ての高校の建物だったので、いちょうにもよく日が当たっていたと思います。よく覚えていないけど今色づきの悪い銀杏も真っ黄色に黄葉していたのでしょう。


写真:文京区役所

写真:牛天神下交差点

写真:牛天神
牛天神については神社のページから引用してみましょう。
鎌倉時代、源頼朝公が当地にあった岩に腰掛け休息したとき、夢に牛に乗った菅原道真公が現れ「二つの喜びがある」と告げられた。翌年その喜びがあり、頼朝公がこの岩を祀り牛天神を創立。以来、境内にある牛の形をした岩(ねがい牛)を撫でると願いが叶うといいます。
いつも寄ってみたいと思うのですが、階段を見て躊躇しています。来年は行ってみましょうかね。


写真:萩の舎跡
萩の舎跡 春日1-9-27
 塾主中島歌子(1844~1903)は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村(一説によると江戸日本橋)で生まれた。夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、江戸にあった実家の旅人宿池田屋にもどった。その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
 御歌所寄人伊藤佑命(すけのぶ)、小出粲(つばら)の援助で、主に上・中流階級の夫人を教え、門弟1000余人と言われた。歌集に『萩のしずく』などがある。明治36年(1903)歌子の死去とともに萩の舎は廃絶した。
 樋口一葉(1872~96)は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。明治23年(1892)18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。佐佐木信綱は姉弟子の田辺龍子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の三人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで、歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。田辺龍子の『藪の鶯』の刊行に刺激されて近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作『闇桜』(明治25年)を発表し、小説家の道に進んだ。
 近くの牛天神北野神社(春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある。
  文京区教育委員会 平成23年3月


写真:安藤坂
安藤坂
 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
 古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。
文京区教育委員会の標識 平成8年3月



写真:伝通院(でんづういん)

写真:門前商店会

写真:春日通りの街路樹サザンカ
伝通院について文京区のページから引用します。
浄土宗 無量山 寿経寺 傳通院
慶長8年(1603)徳川家康が生母お大をこの地に葬った。
後に堂宇を建立し伝通院となった。
伝通院はお大の法名にちなむ。将軍家の帰依も厚かった。
浄土宗の関東18檀林の一つで、常時1000人の学僧が修行していた。
境内には、お大の方、千姫(豊臣秀頼妻・2代徳川秀忠の長女)をはじめとして徳川家ゆかりの女性の墓が数多くある

祐天上人が住職をしていたことがあるお寺ですね。




写真:播磨坂
この部分だけ道幅が広く、道の真ん中に遊歩道があるのは不思議です。Wikipediaから引用してみます。
文京区小石川四丁目・五丁目にまたがり、春日通りと千川通りを結ぶ全長460メートル、幅40メートルほどの区間は、通称「播磨坂桜並木」「環三通り」「環状3号線」と呼ばれている。公園のように整備された中央分離帯には、数カ所に彫刻やベンチが配置された桜並木の遊歩道が設けられており、東京都心部の貴重なグリーンゾーンとなっている。
かつてはこの区間のほぼ中間に位置する交差点の地点名として「環三通り」が存在したが、後に「播磨坂桜並木」に改称されている。「播磨坂」の名は、この付近にかつて存在した常陸国府中の藩主・松平播磨守の上屋敷にちなんだものである。
元東京都建設局長で都市計画家の石川栄耀が戦災復興都市計画として計画した、広幅道路と緑地帯を整備する構想が実現した数少ない箇所の一つであり、これはこの地区一帯の戦災復興事業が駅前整備と関係なく早期に着手され、なおかつ完成を見たためである。なお、この区間は、東京都道319号環状三号線ではなく、文京区道(893号線)に指定されている。
その後、文京区が中央分離帯園のように改造し、1960年(昭和35年)に舗装された際、当時の「全区を花でうずめる運動」の一環として、地元の人々が協力して中央部とその両側の歩道にソメイヨシノなどおよそ120本の桜が植えられた。桜並木の周囲は幅の狭い中央分離帯になっていたが、1990年頃には人々の憩いの場としても機能しており、接触事故を防ぐためのセーフティーコーンが置かれていたこともあったという。その後路上駐車やゴミの放置が目立ち始めたが、車線数に比べ交通量が少ないことから、1995年に中央寄りの2車線を塞いだ部分に遊歩道が新たに設けられ、坂の北東半分を和風のイメージとし、南西半分を洋風のイメージとして整備された。1971年度以降毎年3月下旬から4月上旬に開かれる「文京さくらまつり」の会場にもなっている。



写真:パンパスグラス

写真:ヒマラヤ杉


写真:コダチダリア

写真:メンデルのブドウ
メンデルのブドウ
 遺伝学の基礎を築いたメンデルGregor J.Mendel(1822-1884)が実験に用いた由緒あるブドウの分株です。
 第2代植物園長を務めた三好学が大正2年(1913年)、チェコのブルノーにメンデルが在職した修道院(現在のメンデル記念館)を訪れたとき、旧実験園に残っていたブドウの分譲を依頼して、その翌年に送られてきたものです。
 その後、メンデル記念館のブドウは消滅したことがわかり、本園のブドウを里帰りさせて、現地にも同じブドウの株を復活させました。



写真:ニュートンのリンゴ
ニュートンのリンゴ
物理学者ニュートン Sir Isaac Newton (1643-1727年)が、リンゴの実が木から落ちるのを見て 「万有引力の法則」を発見したという逸話は有名。 ニュートンの生家にあったその木は、接ぎ木によって各国の科学に関係ある施設に分譲され育てられている。 この木は昭和39年(1964年)に英国物理学研究所サザーランド卿から日本学士院長 柴田雄次博士に贈られた枝を接ぎ木したもので、植物園でウイルスを除く処置を受けた後に、昭和56年(1981年)に植え出された。






写真:イロハカエデ

写真:精子発見のイチョウ

写真:カリン

写真:シロマツ

写真:マルバチシャノキの実

写真:サザンカ

写真:日本庭園

写真:ラクウショウの葉

写真:メタセコイア
今年は紅葉が早かったので、このコースを歩くにはちょっと遅かったかなぁと思っていたのですが、結構きれいな紅葉を見ることが出来ました。大イチョウは以前たくさん葉をつけている姿を見ていたのですが、最近はいつも落葉後です。久しぶりに落ち葉を踏みしめて、楽しいウォーキングとなりました。
夕陽の斜光線もいいのですが、来年は一時間早めてみようと思います。イロハカエデに陽がさして、さらにきれいに見えることでしょう。


写真:御殿坂
御殿坂(大坂・富士見坂)
 「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや」(『改撰江戸志』)
 「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見えし故に、富士見坂ともいえり」(『江戸志』)
 白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。
 綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保七年(1722)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。
 明治になってからは東京大学の付属植物園となった。
    植物園の松の花さへさくものを
     離れてひとり棲むよみやこに  若山牧水(1885-1928)
   文京区教育委員会 昭和58年6月

小石川養生所の医師は榊原伊織ではなく赤ひげだったのですね。

小石川植物園内でストレッチをした後、園内を巡り解散し、有志五名で新橋へ移動して改装後初めてとなる新橋ライオンへ。ビルを立て直し店も半分くらいになってしまったようで、かなり狭かったです。それでもビールのうまさは格別で、曜日ごとに割引のビールがありエーデルピルスを300円で数杯飲んできました。その後天狗へ移動し、イカ刺し、ブリ刺し、マグロぶつ切り、炙りサーモンと日本酒を楽しんできました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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