もずの独り言・goo版

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【みんな生きている】文京区民センター・西岡 力編(1)

2010-08-06 19:34:20 | 日記
今回の金賢姫氏来日に関する救う会・西岡会長の解説です。2回に分けて送ります。



■大きな意義があった金賢姫さん来日
-連続集会2-

◆めぐみさんに会ったのは84年6月頃に1回だけ

西岡 力(救う会会長)

まず配布資料について。これは家族会との面会及びNHKとNTVの金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏インタビューからまとめたものです。
まず、横田めぐみさんとは1回だけ会ったということです。軽井沢の会見で早紀江さんが日付を覚えておられなかったのですが、NHKとNTVが聞いたところ、1984年6月頃だということです。これは、金賢姫さんと金淑姫(キム・スクヒ)が中国人拉致被害者の孔さんに中国語を習っていた時期です。金淑姫と一緒に秘密で会いに行ったということです。場所は平壌の龍城(ヨンソン)区域にある招待所ですので、めぐみさんもその近くにいたと考えられます。何度も会ったという報道は間違いで、1回だけと言っています。
次に、1981年から1983年まで東北里招待所で、金賢姫さんが田口八重子さんから日本人化教育を受けていた時、近くの招待所で金淑姫が横田めぐみさんから同じ教育を受けていたことも確認されました。その頃、何回もめぐみさんと金賢姫さんが会っていたということではないということです。
「一度会った時に料理をごちそうになった」という報道も間違いで、一度会った時には一緒に歌を歌ったということです。
料理を食べたのは1987年1月で、中国での実習を終えて金賢姫さんが金淑姫とともに北朝鮮に戻ったとき、淑姫だけがめぐみさんに会いに行った。めぐみさんは1984年の時は独身だったわけです。独身時代は招待所のおばさんが家事をやってくれるのですが、この1987年の時は、1986年に結婚していますから自分で家事をするようになって、料理も作れるようになって、その料理をごちそうになった淑姫が「ずいぶん大人になった」ということを言ったということです。この時は金淑姫だけが会っています。
金賢姫さんは、1987年に招待所のおばさんから何枚かのめぐみさんの写真を見せられた。その内1枚が増元さんが話した「めぐみさんと誰か日本人女性が一緒に写っていた写真」で、別の1枚が「めぐみさんが妊娠していてお腹が大きい写真」だったということです。だから「妊娠している時に会った」というのは間違いで、写真で見たということです。
このような、いつ、どうだったか、というようなことは家族の方が記者会見しなくても、政府の人がいたわけですから、分かる人がブリーフィングしてくれた方が家族に「どうでしたか」と集中するようなことよりよかったのではないかと思います。小さなことではありますが、政府の方にそう言ったところ「混乱する中でできませんでした」ということでした。
しかし、早紀江さんに聞くと「私たちは大学ノートを開いて金賢姫さんに会うわけではないので、記者の人たちが聞くようにはできない」ということです。
そうだなあと思います。
もう一つ、耕一郎さんが21日の記者会見で「何人かの人を見たことがあるようなことを言っていた。しかしこれは警察に話した」と話しましたが、22日の家族会との面談に私も同席しました。家族会の方たちがそれぞれ自分の家族の写真を見せて「記憶はありませんか」と聞いたら、「記憶はありません」という答えがあったので、その後、特定失踪者問題調査会(調査会)のポスターを開いて「このポスターは釜山で飯塚さんが渡しましたよね」、「いただきました」。「見てくださいましたよね」、「見ました」というやりとりがありました。
「この中には、拉致の可能性がある人と認定された人が全部入っていますが、見た記憶がある人がいますか。あるいは確実にこの人と分かるような話を聞いたことがありますか」と聞きました。
そうしたら「見たことはありません。確実にこの人と分かるような話を聞いたこともありません。私が何人かの人を見たという報道があるのはちょっとおかしいです。私が本当に見ていれば、ちゃんと言います」という話でした。あとで耕一郎さんと確認しなければなりませんが。
ただ、去年の12月の段階では金賢姫さんは、『月刊朝鮮』の趙甲済(チョ・ガプチェ)さんに「田口さんのこと、めぐみさんのことは知っている。それ以外の被害者についても何らかのことは知っている。しかし、知っている度合いは小さい」と言っていました。それが祐木子さんのことを指しているのか等もう少し確認したかったのですが、そこまで話ができる時間がなかったのでそこはもう少し詰めなければならないと思います。
しかし、警察はかなり色々な写真を見せているということは分かります。それとの関連で、増元さんに「他の人には絶対に言わないでください」としながら、途中経過の報告があったことも事実です。
さらに、「ではこの写真を見て下さい」と言って、見てもらったのが中国人の拉致被害者の孔さんの写真です。「この人は見たことがありますよ。私の中国語の先生です。間違いありません。この人に習っている時に、金淑姫と二人でめぐみさんの所に会いに行ったのです」と。何枚か写真をみせたのですが「間違いありません。私の先生ですから」と。横田家はもう面会していますので、家族会との面会ではめぐみさんのことを聞くつもりはなかったのですが、向こうから「めぐみさんに会いに行ったのです」と言ったので、「いつですか」と聞くと「1984年です」とおっしゃったので間違いないと思います。
次に、招待所のおばさんなどから「日本人の夫婦がいるという話を聞いている」と。多分、1組は蓮池さん夫婦だったようですが、「それ以外にもいるようだった」ということです。そして、「男の工作員が日本人の夫婦から日本語を学んでいるという話を聞いた」と言っていました。それで増元さんが「蓮池さんの夫婦ですか」と聞いたら「誰かは分かりません」ということです。

◆1976年に金正日が拉致を指令。
「私たちがその1期生」東南アジア人化教育も

次に、私が是非聞きたかったことですが「田口さんが金賢姫を教え、めぐみさんが金淑姫を教えた。それは1976年に金正日(キム・ジョンイル)が『指導核心工作員を作りなさい』、『その指導核心工作員は現地化しなければいけない』と指令したことによるものですか。その話を聞いていますか」と聞きました。これは毎年12月に開催している「拉致の全貌と解決策」国際会議でずっと言ってきたことですが、彼女は「まさに私たちがその1期生です。金正日からそのことを直接は聞いていませんが、教官たちから聞いています」と答えました。
これで、「1976年に金正日が『工作員の現地化をせよ』と拉致を指令し、その結果、1977と1978年に拉致が集中して起きた」と、私がずっと言ってきたことですが、それが現地化教育を受けた工作員からも確認が取れたということになりました。これは拉致の全貌を明らかにすることにおいて大変重要な新しい情報だと言えます。
ここで私は何回も言いましたが、金賢姫さんは同期生が8人いたんです。金淑姫と金賢姫さんが女性であとは男6人。その6人も現地化教育を受けたわけですから、男性の先生がいることになると思い「あなたの同級生の男性があと6人いた。その人たちも日本人化教育を受けたのですか」と聞いたら、「その人たちは日本人化教育ではなく、東南アジア担当だった」と答えました。ということは、1期生で現地化教育を受けると言われていましたが、東南アジア人化教育が並行して行われていた可能性が出てくることになります。
タイの海老原さんが指摘されましたが、「この情報は重大だ」と。タイ人のアノーチャ・パンジョイさんしか被害が特定できていないのです。1978年にマレーシア人とシンガポール人が拉致されているという強い疑惑があるのですが、それらは女性です。男が6人、東南アジア人化教育を受けたということは、東南アジア人の男性の被害者が少なくとも6人いなければならない」ということになります。
実際、東南アジア人化した工作員が韓国で見つかっています。中国系マレーシア人に化けていました。マレーシアのパスポートを持って韓国に入り、ソウルでマレーシア料理店をやっていた。そして、北朝鮮の潜水艇が来て、任務を終えて北朝鮮に帰る時に見つかってその潜水艇が沈められ、引き揚げてみたらマレーシアのパスポートを持っているマレーシア料理店の店主が乗っていたのです。つまりマレーシア人化した工作員だったわけです。
もう一人、これは東南アジア人化と言えるかは疑問ですが、フィリピン人だと言って韓国に入り大学教授をやっていた人がいます。元々その人は北朝鮮からレバノンに行って、レバノン国籍を取ってフィリピンに来た人です。フィリピン国籍を持つアラブ人だということで韓国外国語大学アラビア語学科の教授になって韓国人にアラビア語を教えていたのです。そして北朝鮮のスパイだった。北朝鮮に何回も連絡をしているところを見つかった。これも現地化です。
そして金賢姫さんは、「自分と金淑姫が日本人化教育を受けた。女性がもう一人いたが、その人は中国人化教育を受けたのではないか」と証言しました。8人ではなく、同期生が9人いた可能性があります。「他に日本人化教育を受けた人はどれくらいいたのですか」と聞いたら「分かりません」と。お互いのことを本当にわからないようにやっているということです。

◆新しい情報がたくさん取れた

それから、家族のそれぞれに対して繰り返し、「生きていますよ」、「皆さん生きていますよ」、「希望を持って生きて下さい」という話をした。「その根拠は何ですか」と聞きますと、「外国人としてきちんと待遇をする」ということです。増元さんが「処刑というのはどうですか」と聞いたら、「外国人は処刑しません」と答えました。
ただ、男の拉致被害者は最初は「ひどい目にあわされる」ということでした。殴られたりすることだと思います。言うことを聞かせようとする、諦めさせるということです。そして、「言うことを聞くようになれば外国人としての待遇がなされるので、そんな簡単に死ぬようなことはありません」と。
「北朝鮮の体制に関わるような秘密、重要なことをさせられているので、生きている人が『死んだ』とされている。しかし、北朝鮮という国は日本のようなきちんとした国じゃないから、ある日『やっぱり生きていました』ということは十分あり得る。希望を持って下さい」と言っていました。
その時、私が「例えば大韓機事件は、未だに北朝鮮はでっち上げだと言っています。だから田口八重子さんが帰って来るためには、『大韓機事件はでっち上げだ』と言っている彼らの嘘を暴かなければならない。秘密を秘密でなくしてしまわないと、帰って来られないのではないですか?」と聞いたら、「全くその通りです。秘密を秘密でなくしてしまうことによって、死んだと言われた人たちが生き返ることになる」というようなことを言っていました。「めぐみさんと八重子さんは大韓機事件という秘密に関係することがありますが、しかし他の秘密もあるのではないかと思います」とも言っていました。

◆北朝鮮は児童拉致までやっていた

最後に、一部で言われていたことですが、「最初は拉致被害者を洗脳して工作員として使おうとした。しかし、試してみたら心変わりして使えなかった。『やはり外国人は信用出来ない』ということになって自分たちが工作員になったと聞いた」ということでした。
また、子供拉致(児童拉致)の話があり「北朝鮮国内で外国人の子供を目撃した」という証言もあります。子供たちを拉致して洗脳して工作員として使うという証言が複数あります。裏付けはまだ取れていませんが。
最初に拉致した人たちを洗脳したというのは誰かということですが、レバノン人4人の可能性があります。1978年に拉致し、安心していたら1979年に2人逃げちゃったわけです。

以上です。
マスコミでは新しい情報は無かったと言っていますが、専門に見ている者にとっては新しい情報がたくさん取れました。
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