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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私の父の命日

2006年02月11日 14時56分41秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 父が亡くなってから今日で55年の歳月がながれた。私は父の葬儀にも出れず、父が具合悪く、日本タイプのビルで今日か明日かを言われていた時、父が私を訪ねてきたのである。午後一人でコタツにいた時、隣の部屋から私をジット見つめている気配を感じたのである。私は吃驚して動きがとれなくなっていたが、私の目をジット見つめながら、その姿が家の要り口の方に去って行くのが判った。その姿は全く迫力が溢れている感じで、私に肉薄するように迫ってきた。私は恐怖に怯えたがその瞬間私からスート私を見ながら離れていくのが分かった。父のその時の迫力はすごく、その後気持ちがスーッとしたのである。その翌日父の訃報が届いた。私はやっぱり父が私に会いに来たのだと思った。私は15歳になったばかりで、中学3年生のときである。私はその頃は未だ頭がボットした状態で、弁谷栄に色々な物で頭を叩かれて思考力が元に戻っていなっかった。特に屋根瓦で頭を強打されてから、記憶を喪失して学校の先生から精神薄弱児とおもわれていた。しかしその後頭もスッキリするようになってきたのである。高校に入学してからは成績が良くなってきた。その頃占い師を家に弁谷栄、ハシが呼んで私を占ったのである。その占い師はソロバンをはじいて占いする人で、私のことをこう占ったのである。この人は30歳過ぎてから朝日が昇るように出世するしかし年魔の女に人生を邪魔され失敗すると。この年魔の女が弁谷ハシとは思いもよらなかった。この頃は私の頭の良さがどの程度かを試すために、冬などは皆でカルタや遊びをしたのである。何故か私が一番になった。その後私は薬を飲まされ、神経を侵され、性的虐待を受けたことは之までも述べた。父はいくら自分の子でも駄目な奴なら、跡取りにしなくても良いといっていたそうだ。それで弁谷家は一同相談の上、私に鼻の手術を受けさせ、頭を破壊させる事にしたのである。それがこの写真の頭蓋骨を叩かれた痕跡であり、一部赤くなっているのは、まだ頭蓋骨が完全に癒着せず、出血があるからであろう。頭頂骨が強打せられた痕跡のレントゲン写真である。私が17歳の時鼻の手術で、頭頂骨を強打されてから、この状況が続いているのである。少しずつではあるが、血液が流れ出て血が薄くなっていると、会社の健康診断の時、いつも言われていた。

この写真は私の頭蓋骨の破断された痕跡を示すCT写真でである。

 


安田隆明氏からの回想

2006年02月10日 09時58分43秒 | 康楽寺

  財団康楽寺  西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。

安田隆明氏は昭和42,3年頃林屋亀次郎氏に代わり、参議院に石川県総務部長を経て副知事から参議院議員に当選された方である。
氏には西武不動産を辞めてから仕事を頼みにお伺いしたことがある。その時氏も色々当たって見られたようだが。結局事務機関係(日本タイプ)にはどうしても入れなくなっている。と言われた。それ以来ご無沙汰していたが、中曽根内閣で科学技術長官ななられたことをその後暫くして知った。氏はその後引退され故郷の金澤でお暮らしになっていられた頃、本回想文を頂いた。

 私が当時総務部長在任中、先生より次のような構想を賜りました。五穀豊穣のため康楽寺を建立したきこと。
場所は戸室山一帯を予定、当時栃尾は単村移転の計画あり。
大東亜圏の一族融和のため各国要人の参詣と、親善交流を目的とする。
右は口答のみであり、その構想の遠大な発想に驚きました。時折白雲楼での保養時に参加者にたいし本消息を申しながら懐旧の年を深く致しております。桜井様の構想がすでに放棄されたとのこと、建立予定地は今は林業業者により植林され、往時の面影なく、昨年自ら見てまいりました。

 この安田元参議院議員の御回想は平成9年の事であり、氏が引退された後である。此処に出てくる戸室山とは医王山一帯のことであり、父が当初昭和18年に新聞で公表したものである。現在は金澤市民の憩いの公園やスポーツ施設が沢山あり、キゴ山スキー場などもある。平成9年頃には既にこれ等の施設が出来ていたときである。また安田氏が石川県庁の総務部長をしていたのは昭和42,3年ごろであり、桜井能唯が江戸村を建設するため、父の名義になっている土地が邪魔になったときである。康楽寺建立の場所は金澤市湯涌町へ19番地であり、此処は全部父名義の土地となっていたので、昭和51年に父の戸籍上の妻子を相手に訴訟を起し、宗教法人名義としその後、自分の会社である百万石文化園名義としたのである。
日本観光が子会社の日本タイプに14万株を割り当る違法な増資をした事は以前に記述したが、、日本観光の総株式の28%を取得した両会社のお互いに相手の会社の議決権そ喪失した。この14万株を桜井能唯が取得し、つまり百万石文化園が取得、日本観光の過半数の株式を取得したそして日本観光を売りに出したのとは之まで本ブログで述べてきた通りである。しかしこれ等の行為は無効であることは言う迄もない。ただ桜井能唯は昭和41年頃より江戸村の建設に取り掛かっており、康楽寺本殿の建築資金を得るためとして、鶴見総持寺の貫首と契約を交わしている。その契約の内容は一時的に康楽寺の土地として、江戸村を開園して、康楽寺の建設資金が出来たら、その後康楽寺に返す内容となっていた。しかしその後康楽寺の本殿敷地は全て百万石文化園のものとなり、金澤市に売却したのである。それと同時に日本観光をシューガーランドに、日本観光の土地に抵当権を付け 60億円をかり、桜井能唯をはじめ辨谷貞造等と皆山分けした。
康楽寺の最後に残った資金5億円は白雲楼の壁画宮本三郎画伯の絵の担保として日本観光に渡されている。
その立会人が今回金澤家庭裁判所に辨谷ハシの遺産分割の審判の辨谷貞造の
中山博之弁護士である。
この宮本三郎画伯の絵は中山博之弁護士により弁谷智子つまり貞造の妻のものとして裁判上確定している。つまり辨谷貞造が妻を自分の身代わりとして裁判したものである。

これ等の行為は、日本タイプがキャノンと提携する際、父の名義株を各取締役が自分の物とし、横領したのと期を一にしている。
唯安田氏の言われる戸室山の康楽寺建立の件は、不思議と父の死後も言われており、四高山岳部の会誌にも記載されており、父の康楽寺建立計画が変更せられた偽文書を書いた辨谷栄、ハシの文書が、安田氏の言われる様に康楽寺の建設の放棄となり、その前の父の計画が喧伝せられたものであろうか?いずれにせよ康楽寺の本殿計画がなかったとした辨谷栄、ハシから父の資産の横領がはじまるのである。
また私から辨谷ハシが白紙委任状と実印を騙し持って行った時期と重なるのである


金澤家庭裁判所(3)

2006年02月09日 10時31分09秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

平成8年7月この調停は審判により終結した。私の桜井兵五郎の子である主張、また母が違うという主張は退けられ、私は桜井兵五郎の遺産相続について特に康楽寺の財団の存在について、国税庁や金澤税務署を相手に裁判を起し、その存在の確認、即ち桜井兵五郎の遺産の確認の申し立てを行なった。本来なら父の戸籍上の子供が提訴すべきであるが。その頃は既に辨谷貞造、桜井能唯、康楽寺住職の鶴見総持寺官首岩本等により、父の戸籍上の妻子を相手に父の名義の康楽寺の土地は宗教法人のものだとして、その判決のあとであり、父の戸籍上の妻子等は、少しの日本観光の株式の変わりに、金で処理をしたようだ。裁判所も双方の言うことに確信がなく、裁判上の和議を勧告しその通りとなった。この裁判は父の実の妻子を相手にしていないから、裁判が確定しても無効であることは言をまたない。 従って私の申し立ては却下され、控訴しても無駄であった。この私の裁判の最中に金澤家裁の審判が私の欠席を無視しておりたのである。私は弁谷栄の子だとして、少しの土地を貰ったのであるが、日本観光の株式を渡さないので、東京地裁に株式の引渡しの訴えを提起したのである。勿論その前に貞造に早く引き渡せとさいそくしたが、一向に株券を送ってこなかった。それよりも日本観光の株式は発行されていないと、貞造が金澤家裁で発言していたものだから、審判書にも日本観光の株式は無発行となっていた。そこで当時の日本観光社長の坂上勝に名義書換を要求したが、何の返事もない。そこで上記の名義書き換えの要求の訴を提起したのである。この訴訟により日本観光より名義書換の株券が送られてきたが、株主総会の案内がこない間に、会社は破産申し立てを平成9年に行なったのである。私はその事実を知らず偶々そのニュースを見て、私の父が白雲楼の創立者で私が父からその権利を相続する事になっていたとして債権者しして、破産債権会議に出席した。債権者会議は最初の一回だけ沢山の人が集まってが、それ以降は父の戸籍上の一人とその男の後見人の二人で、結局3人のみであった。三和銀行から弁護士等2人首席したので、私が倒産の原因を三和銀行に説明を求めたところ、この二人は逃げるように法廷を去っていった。日本観光の破産債権者会議には会社側から誰も出席せず、説明もなかった。日本観光の社長坂上勝は脳溢血で倒れ、日本観光の財務状況を知るものが誰もいないと書類に書かれており、破産申し立ての費用700万円は三和銀行が払ったとなっていた。 第一回の破産債権者会議のとき、日本観光の監査役が債権者側として出席していたので、裁判官にこの監査役に説明をしてもらいたいと私が申し述べたところ、この監査役はギョットしてわたしを睨めつけ、慌てて債権者会議室より退廷していった。この監査役は父の柳田村の生家の隣の真言宗の分家で、父は家は元々真言宗であったが、康楽寺の建立を決議してから、禅宗に宗旨換えをした。 私の鼻の手術をしたのが上戸村の真言宗の養子の偽医者であった事は以前ブログでかいた。辨谷栄がこの男と父の名義株について、話をしていたことも書いた。このように寺同士であるから私の鼻の手術をした男と、日本観光の監査役の真言宗の男とは繋がっていたのであろう。つまり父の諸会社の名義株を持っていたものであろう。一方日本タイプの株式については、1株の無いと貞造は主張している。しかし昭和22年までは2500株ほど所持していたのであるが、この時株式保有令により、日本タイプの取締役を退任したのである。先のブログで父が辨谷栄に北陽土地産業株式会社を贈与したと書いたが、この会社は日本タイプの株式を一割以上所有していたのである。親会社の日本観光の取締役が子会社の日本タイプの大株主で取締役である事は禁じられていたのである。従って辨谷栄は日本観光の取締役も辞任している。代わりに辨谷ハシが日本観光の取締役に就任している。


金澤家庭裁判所(2)

2006年02月08日 09時03分05秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 私が金澤家庭裁判所に親子問題を提起したのは、昭和57,8年頃西武不動産に入ってからである。私が桜井兵五郎の子であると、親子の問題を提起したのである。このときの裁判官はお互いに親子の証明となる資料を提出するようにと、次回に桜井能唯の妻貞子が出席して証言することとなっていた。辨谷ハシは桜井貞子の姉であり、私の父の母桜井トキの養女となっていた。桜井トキは私の父から分家して、昭和15年頃より辨谷ハシの弟清次、を養子としており、そのご二条家分家より二条知子、日本タイプの社長でとなった太田秀雄が入夫結婚した和子等が養女となっていた。この時は父の戸籍には妻スズのみであった。妻スズは昭和18年死去するのである。この頃父は第二次大戦の開戦後、ビルマ方面最高軍政顧問として、新任官の位を得てビルマ方面に出かけ、ビルマから仏舎利を受け、康楽寺の本殿建築を志す事となる。この頃父は私を父の後継人とするため、親子の確認の裁判を提起し、自分の子として入籍し、自分の妻スズと住まわせる手はずであった。しかし妻は昭和18年11月死亡する。父と私の親子の裁判は確定してが、私を引き取るものがなく、戦後私が高校に入る頃に当時金澤にいた辨谷ハシの弟清次の家から金澤の高校に入る事になっていた。当時私の母は結婚していたことは既に私の母の項で述べた通りである。従って私の母には親権はなく、私の父しか居なかったのである。父の腹違いの妹橋本久即ち弁谷ハシ等姉妹の母が、必ず責任を持って育てるからと父を説得していた。父の遺産の問題はこの時点で解決していた。全て私が継ぐ事となっていたのである。従って昭和22年頃から25年に掛けて他人の子供を3人認知しても、特別問題は無かったのである。しかし父の会社の経営者達は私が元気で頭が良かったら大変困るのである。父が死して以来、戸籍上の辨谷栄、ハシ、貞造、昌造等は同じく困るのである。何故なら彼等も私の相続財産を狙っていたからである。辨谷ハシの姉妹はほかに幸子なるひとがいたが、父の妻の実家井上家を継いだ。辨谷ハシのみが何ら父の戸籍に関わりない形であった。しかし弁谷栄は父の力で飯田郵便局として地方最大の事業ができるようになり、父の各会社の取締役として名を連ねていた。父は昭和26年2月に死亡し、辨谷栄は昭和29年1月に、父の麻布の本邸を日本政府に売却、辨谷昌造をそこに住まわせ、(私の身代わりとして)、堤康次郎氏によりドイツ大使館に売却された。当時の法律では外国に土地を売買する場合は、売る側と買う側が共同で日本政府に申し出るようになっていたのである。父の麻布の本邸は康楽寺の名義となっており、従って私が売り側の代表でなければならないとろろ、、堤康次郎氏が仲介人として、辨谷昌造が私の代わりとなり、ドイツ大使館側の要人が父の本邸の売り手、買い手側となり、日本国政府に父の本邸の売却を申し出たものである。辨谷昌造は未だ未成年であったから、辨谷栄が同伴したであろう。辨谷昌造が私の身代わりとなり、その時私は金澤の国立第一病院で鼻の手術を受けており、その際頭を強打され記憶喪失に陥っていたのである。この時辨谷栄,ハシが康楽寺の建立に関する偽造文書を作成、一方吉田宏明を父の子であるとの裁判を桜井清次らがおこしたのである。話は元に戻すと、私の申請した証人である私の父との関係を証明する桜井貞子の出廷が急に取りやめられ、裁判官は審理する必要を認めないとして、私の父との親子関係の審理は中止されたのである。それから延々10年掛かっても審判に到らなかったのである。その前の昭和59年1月私は西武不動産を首になるのである。その理由は会社に黙って金澤家裁に出廷していたからだとしている。だが実際は私の成績が上がらないように、して首にしたのである。辨谷貞造等が堤側に情報を提供し、私の父が桜井兵五郎となると西武も困ったことに陥るからである。西武鉄道の株式門題も表面化するからである。彼等の一番困るのは父の遺言書が表面化することである。


金澤家庭裁判所から弁谷ハシの遺産相続の審判申立を受る。

2006年02月06日 20時50分54秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

今私は今標記のように弁谷ハシの遺産の審判の申し立てが,弁谷貞造より申し立てられている。弁谷ハシは平成8年に亡くなっており、預貯金等あわせた470万ほどあるが、その遺産を相続するのに実印を押すようきていたが、私は無視をしていた。一つにはハシの子でないこと、ハシにより鼻の手術を受ける羽目になったこと。何故なら私の母が名乗りを上げさせてくれと懇願しているのに、それを無視した事。三に私の父の遺言書をかくして、父の遺産を私に渡さなかったことである。 ハシに昭和42年ごろ白紙委任状と実印を渡したことがあり、全ての父の遺産がなくなった事は之までのブログで書いた通りである。私は何よりも鼻の手術を利用した、私の脳の破壊が一番大きな問題として未だ残っているのである。2005/5/15私の幼少時代(私の頭頂部の陥没)6/4(私のMRI)6/6、6/7 (私の頭脳の大脳縦裂から鼻の手術の際頭蓋骨を強打) 6/20( 康楽寺の建築変更書面の偽造による戸籍上の妻子相手の東京地裁の貞造主導の裁判)しかも宮本三郎画伯の日本の四季の絵を、弁谷貞造の妻智子のものだと裁判をした中山博之弁護士等を二人つけて、貞造は弁谷ハシ相続審判申し立てを行なっている。日本タイプの崩壊(8)乃至(10)参照 
ハシの遺産の内建物を解体する費用として、400万、建物の借地の代金等で300万あり、差し引き相続額はマイナス150万円となっている。
なにも高い費用を払って、弁護士二人も立てて争うことでもあるまい。
しかもその建物の土地は貞造と昌造の二人の名義となっている。
自分等が承知でハシの建物のたっている土地を取得したのだから、本来なら取得した二人で処理すべき問題である。
しかしハシの相続には色々な問題があるのである。
それは宮本三郎画伯の日本の四季の6枚の絵の問題、及び康楽寺の資産の問題が
絡まっている。勿論日本タイプ、日本観光の株式の問題等である。
それで弁護士を2人もつけて、審判に及んだのだろう。
しかも調停前置主義の家裁の手続きを無視していきなり審判である。
弁護士が作った文書のみで何の資料も添付していない。
これは家庭裁判所のルール違反である
貞造の中山博之弁護士は金澤市の弁護士会の会長をしており、日本観光の倒産の元になった旧三和銀行の代理人である。
旧三和銀行は日本観光の倒産に深くかかっていることはこれまでもブログで述べたとうりである。
金のためならなんでもする弁谷家のことはある。貞造の実印は龍の死骸を表したものである。これは死しても金を渡さないという意味らしい。もう一つの意味は私の父が龍年である事から来ている。つまり私の父が私に残した資産はすべて自分のものとする。また父の株式で他人名義にしたものは、各自自分のものとする。しかし康楽寺の本殿の建築は縮小して実行する構えをみせて、康楽寺の建築資金 5億円を宮本三郎画伯の日本の四季を担保として、日本観光の新社長吉田宏明に渡した形となっているが、実際は日本観光倒産後日本の四季は弁谷貞造の妻智子のものだと、今回の審判申し立ての弁護士が金澤裁判所に訴えでて、見事智子の物として認定された。つまり日本観光の破産財団から逃れたわけである。この絵は石川県小松市、つまあらい宮本三郎画伯の故郷に、5千万円で売られたもようである。またこの弁護士は日本観光が日本住宅ローン等から借りた20億の残金保証の裁判にも弁谷貞造の代理人弁護士として、住宅債権理機構等を相手に処理をし、日本観光の債権者としての届出をしている(13億4千万円)。弁谷貞造にはこのような大金はない。皆父の康楽寺資産を担保にしたものである。これには私から白紙委任状をハシが騙し取ったのが生きているわけである弁谷智子つまり貞造の妻は、桜井能唯、その子康子、吉田宏明日本観光社長に次いで石川県の高額納税者となって5億円の税金を支払っている。勿論彼女にはこのような大金は無い。これは弁谷ハシが桜井能唯等と分け前の配分の際、父の資産を横領したもので、弁谷智子名義としたものである。つまり私から白紙委任状と実印を騙し取り、父の資産を取得したものである