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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

辨谷 貞造の暗躍

2006年03月03日 08時34分36秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

桜井トキのブログで、辨谷貞造は辨谷ハシの相続権はないと話した。しかし今回金沢家裁に中山博之弁護士等を二人もつけ、辨谷ハシの遺産分割の審判の申し立てをしたことは記述した。この弁護士は日本観光えの5億円貸付の担保として、今話題の宮本三郎画伯の日本の四季(日本タイプの崩壊「8~9」参照)を辨谷智子が取得した際の証人である。日本観光が倒産し、日本の四季を担保として辨谷智子の所有となった訳であるが、日本観光破産管財人がその壁画を差し押さえしようとしたら、辨谷貞造の妻智子が金沢地裁に対して、日本の四季は自分のものであると主張して、地裁がそれを認めたのである。その時の弁護士も康楽寺が5億円を借り日本観光に貸したの担保の証人として、立ち会った中山博之一弁護士が辨谷智子の日本の四季の所有権の裁判の弁護士もしている。これは之まで私が話してきたように、私の父桜井兵五郎が昭和26年2月11日死亡した時、辨谷貞造の父栄が康楽寺の本殿建築計画な無かったとした偽造文書をその妻辨谷ハシと作成し、当時白雲楼ホテルの所在地の官庁である松任市役所に届けでたのである。昭和29年には白雲楼の湯湧村は金沢市に合併され、その書類も引き継がれたはずである。康楽寺は私の父の個人の寺として認可され、将来は康楽寺本殿を建築するための財団であったのである。処が私を預けてあった辨谷家では、私の頭脳を破壊すべく偽医師等と組んで、私を金沢国立病院で、鼻の手術の際頭蓋骨を強打して、人間を廃人にしてしまった事は既に記述した。後は康楽寺を法人とし、父桜井兵五郎が財団康楽寺に寄付していた麻布の現ドイツ大使館の土地を売却、日本観光の株式、日本タイプライターの株式は私の父が私の名義にして康楽寺に寄付していたが、辨谷貞造と辨谷ハシが共謀して私より白紙委任状と実印を騙し取り、今回の日本観光の倒産に至ったのである。日本観光の社長となった桜井能唯は、辨谷貞造や弁谷ハシと共謀、日本観光の無償増資を行い(日本タイプの崩壊「3」日本観光の違法な2.5倍の違法な増資参照)、資本金を一千万から二千5百万とし、子会社日本タイプライターに 14万株の第三者割り当てを行ったのである。子会社が親会社の株式を28パーセント取得したことは、商法で禁じられtれいるところであり、この株式発行は当然無効である。また日本観光は日本タイプライターに対して、又日本タイプライターは日本観光にたいして議決権をお互いに喪失しており、日本タイプがキャノンとの資本、販売提携の議決権は無効である。何故なら両会社の取締役は兼任であり、お互いに取締役の議決権を喪失しているからである。(2005/5/21、5/22日本タイプと日本観光の取締役議決権の喪失、及び日本タイプの崩壊21及び16の取締役の議決権参照)桜井能唯は日本タイプの日本観光株式14万株を、日本タイプをキャノンに売り渡す際、百万石文化園が取得して桜井能唯の所有にしたのである。更に康楽寺の株式10万株を私の白紙委任状をハシが盗ったものを利用し、自分のものとし、合計24万株を不法に入手したのである。桜井能唯の25万5千株を取得したとあるが、実際は以上の通りである。しかも差し引き1万四千株も元は父から与えられた名義株である。これで日本観光の株式の過半数を取得してと言えるであろうか?これにより桜井能唯は日本観光の過半数を自分の物にしたとしている。しかし現実は日本観光を倒産に陥れたに過ぎない。このことは之までに随分と記述をしてきたところである。又今問題とする処は宮本三郎画伯の日本の四季を、辨谷貞造が妻の名義であれ、自分の物としたことである。それも小松市に6千万で売却、その金を地元の観光協会に渡し、白雲楼を金沢市に寄付したことである元々白雲楼は北国銀行の5億円の抵当にはいっており、その抵当権の無効についてはこれまでに(2005/5/26北国銀行の白雲楼抵当権設定の無効について参照)、述べた通りであるが、5億円が8千万になり、最後は地元の観光協会の5千万になり、金沢市えの寄付となている。北国銀行が5億もの抵当をつけたかと言えば、之までも記述した様に、父の資産が北國銀行に十分あったからである。北国銀行は能和銀行と加州銀行が合併して出来たものであり、父は前に述べたように金沢財界の雄横山章の昭和初年に金融崩壊の際、横山家の肩代わりをしており、加州銀行も父が大株主となっていたからであり、日本タイプの崩壊22~23七尾造機で述べたように、私の名義としての預金が北国銀行に残っていたからである。これまでの説明の様にその裏では、辨谷貞造が地元政治家等に金を使い、白雲楼の倒産に深く関与していることは明白である。(2005/5/29UFG銀行旧三和銀行と組んだ熱海起雲閣倒産の筋書き参照)全て私の父桜井兵五郎が私の名義としていたものを、辨谷貞造、ハシが私より白紙委任状と実印を騙し取り、日本観光や日本タイプを私から奪い去ったのである。これら資産は父が財団康楽寺の本殿建築資産として自分の寺である康楽寺に父が寄付していたものである。この父の資産を桜井能唯が流用した事経緯等については、2005/5/20康楽寺本殿建築資金の流用の項参照。しかも不正な手段を堂々と使って、金をばら撒き緘口怜をしいたのである。一番の元は康楽寺を宗教法人をとし、私の頭脳の破壊して父が私に残した康楽寺の財団の資産を全て盗ったのである。


金澤家庭裁判所(3)

2006年02月09日 10時31分09秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

平成8年7月この調停は審判により終結した。私の桜井兵五郎の子である主張、また母が違うという主張は退けられ、私は桜井兵五郎の遺産相続について特に康楽寺の財団の存在について、国税庁や金澤税務署を相手に裁判を起し、その存在の確認、即ち桜井兵五郎の遺産の確認の申し立てを行なった。本来なら父の戸籍上の子供が提訴すべきであるが。その頃は既に辨谷貞造、桜井能唯、康楽寺住職の鶴見総持寺官首岩本等により、父の戸籍上の妻子を相手に父の名義の康楽寺の土地は宗教法人のものだとして、その判決のあとであり、父の戸籍上の妻子等は、少しの日本観光の株式の変わりに、金で処理をしたようだ。裁判所も双方の言うことに確信がなく、裁判上の和議を勧告しその通りとなった。この裁判は父の実の妻子を相手にしていないから、裁判が確定しても無効であることは言をまたない。 従って私の申し立ては却下され、控訴しても無駄であった。この私の裁判の最中に金澤家裁の審判が私の欠席を無視しておりたのである。私は弁谷栄の子だとして、少しの土地を貰ったのであるが、日本観光の株式を渡さないので、東京地裁に株式の引渡しの訴えを提起したのである。勿論その前に貞造に早く引き渡せとさいそくしたが、一向に株券を送ってこなかった。それよりも日本観光の株式は発行されていないと、貞造が金澤家裁で発言していたものだから、審判書にも日本観光の株式は無発行となっていた。そこで当時の日本観光社長の坂上勝に名義書換を要求したが、何の返事もない。そこで上記の名義書き換えの要求の訴を提起したのである。この訴訟により日本観光より名義書換の株券が送られてきたが、株主総会の案内がこない間に、会社は破産申し立てを平成9年に行なったのである。私はその事実を知らず偶々そのニュースを見て、私の父が白雲楼の創立者で私が父からその権利を相続する事になっていたとして債権者しして、破産債権会議に出席した。債権者会議は最初の一回だけ沢山の人が集まってが、それ以降は父の戸籍上の一人とその男の後見人の二人で、結局3人のみであった。三和銀行から弁護士等2人首席したので、私が倒産の原因を三和銀行に説明を求めたところ、この二人は逃げるように法廷を去っていった。日本観光の破産債権者会議には会社側から誰も出席せず、説明もなかった。日本観光の社長坂上勝は脳溢血で倒れ、日本観光の財務状況を知るものが誰もいないと書類に書かれており、破産申し立ての費用700万円は三和銀行が払ったとなっていた。 第一回の破産債権者会議のとき、日本観光の監査役が債権者側として出席していたので、裁判官にこの監査役に説明をしてもらいたいと私が申し述べたところ、この監査役はギョットしてわたしを睨めつけ、慌てて債権者会議室より退廷していった。この監査役は父の柳田村の生家の隣の真言宗の分家で、父は家は元々真言宗であったが、康楽寺の建立を決議してから、禅宗に宗旨換えをした。 私の鼻の手術をしたのが上戸村の真言宗の養子の偽医者であった事は以前ブログでかいた。辨谷栄がこの男と父の名義株について、話をしていたことも書いた。このように寺同士であるから私の鼻の手術をした男と、日本観光の監査役の真言宗の男とは繋がっていたのであろう。つまり父の諸会社の名義株を持っていたものであろう。一方日本タイプの株式については、1株の無いと貞造は主張している。しかし昭和22年までは2500株ほど所持していたのであるが、この時株式保有令により、日本タイプの取締役を退任したのである。先のブログで父が辨谷栄に北陽土地産業株式会社を贈与したと書いたが、この会社は日本タイプの株式を一割以上所有していたのである。親会社の日本観光の取締役が子会社の日本タイプの大株主で取締役である事は禁じられていたのである。従って辨谷栄は日本観光の取締役も辞任している。代わりに辨谷ハシが日本観光の取締役に就任している。


金澤家庭裁判所(2)

2006年02月08日 09時03分05秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 私が金澤家庭裁判所に親子問題を提起したのは、昭和57,8年頃西武不動産に入ってからである。私が桜井兵五郎の子であると、親子の問題を提起したのである。このときの裁判官はお互いに親子の証明となる資料を提出するようにと、次回に桜井能唯の妻貞子が出席して証言することとなっていた。辨谷ハシは桜井貞子の姉であり、私の父の母桜井トキの養女となっていた。桜井トキは私の父から分家して、昭和15年頃より辨谷ハシの弟清次、を養子としており、そのご二条家分家より二条知子、日本タイプの社長でとなった太田秀雄が入夫結婚した和子等が養女となっていた。この時は父の戸籍には妻スズのみであった。妻スズは昭和18年死去するのである。この頃父は第二次大戦の開戦後、ビルマ方面最高軍政顧問として、新任官の位を得てビルマ方面に出かけ、ビルマから仏舎利を受け、康楽寺の本殿建築を志す事となる。この頃父は私を父の後継人とするため、親子の確認の裁判を提起し、自分の子として入籍し、自分の妻スズと住まわせる手はずであった。しかし妻は昭和18年11月死亡する。父と私の親子の裁判は確定してが、私を引き取るものがなく、戦後私が高校に入る頃に当時金澤にいた辨谷ハシの弟清次の家から金澤の高校に入る事になっていた。当時私の母は結婚していたことは既に私の母の項で述べた通りである。従って私の母には親権はなく、私の父しか居なかったのである。父の腹違いの妹橋本久即ち弁谷ハシ等姉妹の母が、必ず責任を持って育てるからと父を説得していた。父の遺産の問題はこの時点で解決していた。全て私が継ぐ事となっていたのである。従って昭和22年頃から25年に掛けて他人の子供を3人認知しても、特別問題は無かったのである。しかし父の会社の経営者達は私が元気で頭が良かったら大変困るのである。父が死して以来、戸籍上の辨谷栄、ハシ、貞造、昌造等は同じく困るのである。何故なら彼等も私の相続財産を狙っていたからである。辨谷ハシの姉妹はほかに幸子なるひとがいたが、父の妻の実家井上家を継いだ。辨谷ハシのみが何ら父の戸籍に関わりない形であった。しかし弁谷栄は父の力で飯田郵便局として地方最大の事業ができるようになり、父の各会社の取締役として名を連ねていた。父は昭和26年2月に死亡し、辨谷栄は昭和29年1月に、父の麻布の本邸を日本政府に売却、辨谷昌造をそこに住まわせ、(私の身代わりとして)、堤康次郎氏によりドイツ大使館に売却された。当時の法律では外国に土地を売買する場合は、売る側と買う側が共同で日本政府に申し出るようになっていたのである。父の麻布の本邸は康楽寺の名義となっており、従って私が売り側の代表でなければならないとろろ、、堤康次郎氏が仲介人として、辨谷昌造が私の代わりとなり、ドイツ大使館側の要人が父の本邸の売り手、買い手側となり、日本国政府に父の本邸の売却を申し出たものである。辨谷昌造は未だ未成年であったから、辨谷栄が同伴したであろう。辨谷昌造が私の身代わりとなり、その時私は金澤の国立第一病院で鼻の手術を受けており、その際頭を強打され記憶喪失に陥っていたのである。この時辨谷栄,ハシが康楽寺の建立に関する偽造文書を作成、一方吉田宏明を父の子であるとの裁判を桜井清次らがおこしたのである。話は元に戻すと、私の申請した証人である私の父との関係を証明する桜井貞子の出廷が急に取りやめられ、裁判官は審理する必要を認めないとして、私の父との親子関係の審理は中止されたのである。それから延々10年掛かっても審判に到らなかったのである。その前の昭和59年1月私は西武不動産を首になるのである。その理由は会社に黙って金澤家裁に出廷していたからだとしている。だが実際は私の成績が上がらないように、して首にしたのである。辨谷貞造等が堤側に情報を提供し、私の父が桜井兵五郎となると西武も困ったことに陥るからである。西武鉄道の株式門題も表面化するからである。彼等の一番困るのは父の遺言書が表面化することである。


金澤家庭裁判所から弁谷ハシの遺産相続の審判申立を受る。

2006年02月06日 20時50分54秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

今私は今標記のように弁谷ハシの遺産の審判の申し立てが,弁谷貞造より申し立てられている。弁谷ハシは平成8年に亡くなっており、預貯金等あわせた470万ほどあるが、その遺産を相続するのに実印を押すようきていたが、私は無視をしていた。一つにはハシの子でないこと、ハシにより鼻の手術を受ける羽目になったこと。何故なら私の母が名乗りを上げさせてくれと懇願しているのに、それを無視した事。三に私の父の遺言書をかくして、父の遺産を私に渡さなかったことである。 ハシに昭和42年ごろ白紙委任状と実印を渡したことがあり、全ての父の遺産がなくなった事は之までのブログで書いた通りである。私は何よりも鼻の手術を利用した、私の脳の破壊が一番大きな問題として未だ残っているのである。2005/5/15私の幼少時代(私の頭頂部の陥没)6/4(私のMRI)6/6、6/7 (私の頭脳の大脳縦裂から鼻の手術の際頭蓋骨を強打) 6/20( 康楽寺の建築変更書面の偽造による戸籍上の妻子相手の東京地裁の貞造主導の裁判)しかも宮本三郎画伯の日本の四季の絵を、弁谷貞造の妻智子のものだと裁判をした中山博之弁護士等を二人つけて、貞造は弁谷ハシ相続審判申し立てを行なっている。日本タイプの崩壊(8)乃至(10)参照 
ハシの遺産の内建物を解体する費用として、400万、建物の借地の代金等で300万あり、差し引き相続額はマイナス150万円となっている。
なにも高い費用を払って、弁護士二人も立てて争うことでもあるまい。
しかもその建物の土地は貞造と昌造の二人の名義となっている。
自分等が承知でハシの建物のたっている土地を取得したのだから、本来なら取得した二人で処理すべき問題である。
しかしハシの相続には色々な問題があるのである。
それは宮本三郎画伯の日本の四季の6枚の絵の問題、及び康楽寺の資産の問題が
絡まっている。勿論日本タイプ、日本観光の株式の問題等である。
それで弁護士を2人もつけて、審判に及んだのだろう。
しかも調停前置主義の家裁の手続きを無視していきなり審判である。
弁護士が作った文書のみで何の資料も添付していない。
これは家庭裁判所のルール違反である
貞造の中山博之弁護士は金澤市の弁護士会の会長をしており、日本観光の倒産の元になった旧三和銀行の代理人である。
旧三和銀行は日本観光の倒産に深くかかっていることはこれまでもブログで述べたとうりである。
金のためならなんでもする弁谷家のことはある。貞造の実印は龍の死骸を表したものである。これは死しても金を渡さないという意味らしい。もう一つの意味は私の父が龍年である事から来ている。つまり私の父が私に残した資産はすべて自分のものとする。また父の株式で他人名義にしたものは、各自自分のものとする。しかし康楽寺の本殿の建築は縮小して実行する構えをみせて、康楽寺の建築資金 5億円を宮本三郎画伯の日本の四季を担保として、日本観光の新社長吉田宏明に渡した形となっているが、実際は日本観光倒産後日本の四季は弁谷貞造の妻智子のものだと、今回の審判申し立ての弁護士が金澤裁判所に訴えでて、見事智子の物として認定された。つまり日本観光の破産財団から逃れたわけである。この絵は石川県小松市、つまあらい宮本三郎画伯の故郷に、5千万円で売られたもようである。またこの弁護士は日本観光が日本住宅ローン等から借りた20億の残金保証の裁判にも弁谷貞造の代理人弁護士として、住宅債権理機構等を相手に処理をし、日本観光の債権者としての届出をしている(13億4千万円)。弁谷貞造にはこのような大金はない。皆父の康楽寺資産を担保にしたものである。これには私から白紙委任状をハシが騙し取ったのが生きているわけである弁谷智子つまり貞造の妻は、桜井能唯、その子康子、吉田宏明日本観光社長に次いで石川県の高額納税者となって5億円の税金を支払っている。勿論彼女にはこのような大金は無い。これは弁谷ハシが桜井能唯等と分け前の配分の際、父の資産を横領したもので、弁谷智子名義としたものである。つまり私から白紙委任状と実印を騙し取り、父の資産を取得したものである


白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(9)宮本三郎画伯の「日本の四季」

2005年07月20日 10時17分39秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

宮本画伯の日本の四季は平成4年7月2日宗教法人康楽寺が日本観光にたいして5億円を貸した担保にしていた。宗教法人康楽寺は見せかけの実態のない法人であることはこれもでも述べたとうりであるが、肝心の真の相続人である私が金澤国立第一病院で頭を破壊ざれ、記憶を喪失していてため、真の相続人である事を主張できないで居た。その為宗教法人は日本観光の何ら株主ではないものによって、会社を乗っ取る手段として利用されてきた。宮本三郎画伯の日本の四季の壁画6枚のキャンパスをまんまと弁谷智子の手に渡ってしまい宗教法人康楽寺の5億円は行方不明となった。勿論これは宗教法人康楽寺の父の資産を横領するための芝居である。弁谷智子はさきに5億円の所得税を支払い、石川県の額所得者となっている事は前に述べた。。これには裏があって宗教法人康楽寺の財産をすべて処分するための弁谷貞造の工作である。このことに付いては前のブログで述べたとうりである。父の戸籍上の子供は他人の子供であった、真の相手ではなく日本観光の株主総会では総会屋を連れ込んで暴れまくり、会社を倒産に導く手段として利用価値があった。父の死後吉田を裁判認知し、戸籍の子供等と対峙させ、日本観光を倒産させるため弁谷貞造は退任に、裁判認知された吉田を日本観光の社長として、こどもが会社を潰すのだからといいう筋書きを作り実行したのである。 弁谷貞造の妻は延命順作の差金で嫁に来た者である。延命は之までも述べたように、三和銀行の頭取渡辺忠雄や日鉄の社長稲山嘉寛や名鉄の社長等を自分の陣営に引き入れ、父の財産を狙ったことははなした。延命順作が何故このようなことが出来たかといえば、私の父の秘書として絶えず父の後に付いてきたからである。 弁谷貞造の妻の父親にもそのような関係で知り合いであった。弁谷智子の父親は川崎財閥と知られた川崎八郎右衛門 の秘書をしていたひとである。川崎財閥は金融財閥としてしられ、三菱銀行や三菱信託に川崎財閥は合併したのである。私の父と川崎財閥の関係は、能登の石膏である。戦時中は石膏の輸入は途絶え、能登の石膏鉱山が脚光をあびた。日本一の生産量でセメント接着剤としてなくてはならないものであった。この仕事を川崎八郎右衛門とくんだんだのである。この石膏の量は膨大なもので、その収益は三菱銀行や三菱信託に入ったものである写真は宮本画伯の日本の四季の「伐採」冬である。