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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(7)北振化学工業株式会社の消滅

2005年07月16日 11時47分47秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

当社の設立は昭和6年である。日本タイプの子会社として、タイプライターの海外輸出を担当していた。主として中国や韓国、東南アジア(インド、泰国、等)等に製品を輸出する仕事である。他に製本機械等を製造販売していた。大戦前から中国に日本タイプの製造工場が出来、満州の大連に大きな工場があり、戦後は中国が接収しタイプを製造していた。この満州日本タイプは中国に接収されたので、在外資産の接収として日銀にその資産の財務報告書が届けられている。戦時中は英文タイプも製造して輸出していた。昭和12年頃よりフランスより欧文活字鋳造機を輸入しており、欧文タイプの製造を行なっていた。この技術が戦後アメリカのレミントン社との合弁会社になって日本レミントン・ランド社が出来るのである。
北振化学工業はこれ等タイプライターの付属品等を各国に輸出していた。昭和6年5月株式会社東亜大晋公司として設立、タイプライター及び付属品の製造販売、リノタイプ、モノタイプ鋳造機及びのそ付属品の製造販売を目的とした。昭和8年5月には紙器印刷、製本機械器具等の製造販売を追加した。 、昭和11年大喜商事株式会社、昭和17年4月北振産業株式会社、昭和24年4月北振化学工業株式会と社名を変更した。戦後は石川県金澤市の駅の近く数千坪の工場を建設、タイプの原紙、カーボン紙,謄写版等の総合設備をもっていた。しかし父の死去以後は桜井清次が社長となったが、会社を無くしことばかり考え、いい加減な経営をしており、会社は昭和50年頃には解散したが、金澤の駅近くの数千坪の土地のみが残り、桜井清次と絶えず争いをしていた戸籍上の子供が弁谷貞造がマッチポンプでその争いを一層激しくし、弁谷貞造はこの土地を餌に父の戸籍上の子供を篭絡した。弁谷貞造は北振化学工業と、北陽土地産業株式会社の中身を空にして、その子供に渡し、子供は高利貸しよりこの土地を抵当に金を借りまくり、日本観光の倒産とともに土地は金澤市の差し押さえとして物納された
北振化学工業株式会社は事務用品の特許を持っており、また北辰電気製作所の子会社北辰化学工業株式会社とも勧銀や第一生命をとうしての資本的関係があり、大変有望な会社であったが、以上のような経緯で会社は消滅した。なほ北振学工業は日本タイプの大株主であり、父の寺である康楽寺が北振化学工業株式会社の実質上の株主であるが、弁谷貞造がその株式を自己のものとし、日本タイプがキャノンに身売りする際、北振化学工業、及び北陽土地産業株式会社の日本タイプの名義株を他の名義人と一緒にキャノンに売却し、妻が実家の相続をしたように見せかけて5億円の税金を支払い、父の資産を横領したのである。このプログの写真は金澤駅のちかくにある北振化学工業株式会社の敷地である。
キャノンは北辰電気製作所の跡地を買いそこに本社機能を移転させた。
北辰電気製作所は父桜井兵五郎と深い繋がりがあり、私がキャノンの前社長に出状
したこともあり、時の政権と結びつき、日本タイプをキャノンに買収させたのも、弁谷貞造
及び桜井能唯である。
勿論延命順作の子供が山一證券の担当者であったので、すべてが旨く運んだのである。


弁谷栄の作成した康楽寺の敷地図面

2005年06月16日 10時28分17秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

この図面は昭和27年8月28日付けで弁谷栄が自ら線を引き、ハシがそれお清書したものである。社長、支配人宛となっており、社長とはハシの弟である日本観光社長である桜井清次で、支配人とはハシの妹の入り婿である桜井能唯である。この文面によると父は当初計画していた康楽寺本殿の敷地である白雲楼ホテルに面した康楽寺の山の斜面の谷間になっている部分を埋め立て,整地して本殿を建築する事にしていたが、その計画は経費がかかるので中止とし、従って山の斜面部分をはずして計画を変更するように指示されたとしてこの図面を作成したのである。丁度この時期は私が金澤の国立第一病院で鼻の手術を受けその際脳天を強打せられて人格破壊された時である。私はこの二人がこの図面を書くことを話し合っていたことを記憶している。何故私の前でこのことをを話したのかは、私の頭の反応をみるためだったと思われる。私は父の相続人として寺の敷地の変更について何か反応を起すか確認した。頭を破壊された私は何のことか分からなかった。後年私が父の存在を思いだし、戸籍上の子供達とも話しあった時、昭和51年にこの子供等を相手に康楽寺の敷地の変更があったとして、父名義の康楽寺仮殿の土地の名義変更の訴状を東京地裁を提起したことを知り、その訴状を見た時、昭和27年当時のことを思い出したのである。このプラグの写真は、青く三角状に囲ったのが康楽寺の仮殿の建物であり、その左横は山の斜面となっており、父がそれを埋め立て康楽寺の本殿を建てる計画にしていたが、昭和28年に父個人の寺を宗教法人として手続きをする際にもこの計画の変更書面が必要だった。何故なら麻布の父の屋敷5千坪を堤康次郎の仲介で国に売却した資金があったので、谷を埋める工事に着手しなければならなかったからである。父と親しく資本的にも連携関係にあった堤康次郎氏は、父の康楽寺計画に深く携わっていた。現在騒がれているコクド、西武鉄道等の名義偽装問題は、父の康楽寺の本殿計画と深く繋がっているのである。