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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

遊 支 漫 録  衆議院議員 桜井兵五郎

2008年05月04日 12時58分18秒 | 白雲楼
遊支漫録   衆議院議員 桜井兵五郎
余は支那漫遊のため昨秋十月十一日大隈信常氏横山章氏頼母木関両代議士及び原文次郎氏と共に東京を発し同十一月二十二日東京に帰った。この間四十三日間通過するところは、朝鮮及び支那にて水陸合わせ六拾里を踏破した。短日間に於ける比較的長距離間の旅行故その速力はあたかも飛行機の滑走の如く従って観察するところも亦皮相の見たるを免れぬ。尤も彼の地に在る日本人で「支那は長く折れば折るほど解らなくなる。支那の真相は却って一寸覗いてすぐ帰る人が得られる」などと云う人もあるがこの言直ちに採って肯定すべきでないが、一面支那は研究すればするほど深く広く殆ど限りがない。寧ろ大観してして直感するが径捷であると云うことを意味することになるかも知れぬ。
若しこの意味からすれば吾吾の滑走中の観察もまた多少、正かうを得たものがあるかも知れぬ、兎に角短日間ではあうが通過するところの地域は支那の大陸部分でかつ万事が目新しいことだけに記述しようと思う事はいくもある、帰途京都加茂に行政学会主大谷氏を訪れたところ漫遊記を述を「地方行政」掲載するようにとの希望であった。余も政治経済社会の各般に亘り多少組織を立ててご紹介したいと思うが数字的の事程もあり之にはどうしても相当の時間を要する依って機宜の便法として単に脳に浮かび上び来たったものをとらえ、別に種別も立てず雑然と紹介致すつもりである組織的の議論は結論においてなし又改めて稿を記す事かも知れぬ。
 日本は小さいーー支那の大なる事は何人も之を知っておる。その面積は四百二十万八千三百五十二平方哩即ち日本の約三十倍にして全欧州に匹敵せすると称せら人口は本部拾八省だけで四億一千満人それに満蒙新疆及び西蔵を加ふるときは約四億三千萬である。
即ちこの点よりするも約日本の九倍ある。斯様なわけで支那の大きい事は何人も承知しておるが、さて一巡して上海まで来ると支那は大きいと云う観念は無く却って日本が小さくいかにも哀れな程小さく恰も豆の如く感ぜられる。よく外国など回った人がその珍しさをエンハサイズする為に突飛なことを言う人もあるが我輩はそうゆう意味ではない全く感じたことをありのまま紹介したいと心得るものである。
祖国のことを豆の如く小さいなどととは云いたくないが感覚を率直に云えば全くそうであるから仕方がないのである。尤も支那のことを大きいという観念がないと言ってもそれは上海に来た時の感想である。
始め朝鮮をへて満州に入った時如何にも大きく大陸的光景とは真に之だと思った。所謂日は滄海より出でて虞淵に没すで見渡すところ一目際崖がない、山又山の島国生活を唯一経験とする我輩としては如何にも壮快を覚えた。それより山海関を経て直隷に入り天津の洪水をみたときは成程支那の洪水とはこんなのもかと思った。同行者の一人は汽車は海の中を通って居ると言った、窓より覗いてみれば左右共に際限を知らざる水である、鉄道線路はその中を通って居る線路のそばには小さな船も浮いている。成る程海であると思った、しかしふと心に浮かんだのは海だと思った水のなかより所々大きな柳の木が現れておることである不思議と思って車掌やボーイに聞くとこれなんと
白河の洪水である天気は晴天續きであるが今後恐らくは一年くらいは引くまいとのこと、地域の直属の半分即ち日本本州くらいが浸水しているわけである日本の洪水のように大雨とともに駆けるが如く来たり逃げるが如く去るものと全く撰を異にしておる、これも大きく感じた一例である、北京の宮殿
萬壽山の偉観は後に述べるとして、北京より漢口にいたるの沿線即ち直隷湖北河南であるが、右方遥かに連峰は泰領山にして小西狭四川に境し左方即ち河南安徹山東江蘇の大平原に添う揚子江を漢口より下る三千トン級の汽船で四日を費やすを云うわけである以ってその大を想像することが出来る漢口の江岸に立って北の方北京を想えば広軌の最急でニ十余時間南の方広東を思えば殆ど北京に近き距離がある、東に上海道は汽船で四日日本の東京までは八日乃至九日の行程であるが、西の方四川の都、成都までは陸路二週間をようするとのことであった。即ち漢口より成都に行くか東京に行くかといえば東京の方が五日乃至六日早いという訳である。而して四川の西にはまだ西蔵とういう大なる土地がある。嗚呼支那なるかな支那なるかな。揚子江を下る時も一体これは河であるかいなか、海であるか嗚呼、と言って湖でもない、全く怪物だなーとおもった。夏の増水期と冬の減水期との水深の差が約五十尺上海より四川の入り口まで九百里の間三千トン級の船の汽船が通じその下流たる呉スンのあたりより対岸の望めば大洋の真平にあると同じく全く陸地が見えない、その水は濁水滔滔所謂百年河清を俟つの喩えの在る如く永久の濁水であってこの濁水の注ぐところ沿岸より約五十里の支那の形容詞として大の字の準備が尤も多くを要する次第であるが、これが不思議にも上海に来たって通過したる支那をふりかえればさほど大きいとは思わぬ。支那慣れるといううには少し早いが如何なる精神作用か支那か支那はさほどない之に反し日本は如何に小さく東の太洋の中に一小島を認めるに過ぎぬ、あんな小さいところへ能くも下千万人の人口が入ったものだと思われ更にこの土地が五十年前まで鎖国攘夷と称え外人は入れない、自分らも大きな船は国禁で外えは出ない小さく固まっていたかを思えば、誠に無量の感慨無きあたわずである。
支那の国民性は茫漠たるところにあるに反し日本の国民性は小さく固く迫ったところあるは蓋し土地の自然感化で止む無きことなからんかとも思われた。、口には立憲政治を高唱し、人民自覚の政治を云為すすれど、実は未だ官尊民卑で奴隷的根性は取れない。兎に角我々日本人たるもの小さく固くなった島国根性を離脱し世界を家とするの概がなければ真の東洋の盟主となり東西文化の調和を果たす使命を遂げることは出来ない。
 青島の快晴ーー青島は山東の突角に近き膠州湾内にある天然の良港であるが1897年独逸は之を支那より租借して東洋に於ける彼の根拠地のなしたことは何人でも知っている、爾来十七年一昨年日本がこれを占有するまで独逸の桔据経営至らざるなく東洋無比の清潔なる小タウンとなし我我の乗れる榊丸埠頭に付いた時一行の関が嗚呼これは支那ではなく全く欧羅巴の都会じゃ三度目の洋行する気分がするなどと言った。いかにも街に設計せられたる整った西洋建築の都会で道路のごとき悉くアスハルトを敷き秋の晴天續きに自動車で飛ばしても塵ひとつたたないという有様である。一行は本郷司令官の招待でもとワルデック総督の居たという官舎即ち今の本郷司令官の官舎に行ったが青島の市街を眼下に見る丘上に於ける実に心理よき西洋館で建築費が二百万とか聞いた。僅僅一総督の官舎に二百万を投ずる独逸であるから青島植民地の経営振りは推して知れれる訳で、所謂支那式の木の無い焼山を植林して青島一帯の地を満目緑となし市街を中心として付近の連山は悉く自動車道路を有する公園につくられてある、極東の果てに来たってこの植民地の経営振りをなし欧州人はえらいものだ日本は植民地に金もかけずに只東洋の盟主だと威張りたがる傾きが在る。それは兎に角、一行は総督の官舎を出て程近き測候所の高台の昇り膠州湾一帯の地を眺めそれより再び自動車と飛ばして所謂公園に作られたる付近連山に登り砲台を訪れ、次に海岸に出たが大きな人の住んでいない大ホテルがある、聞けば之は夏のホテルで夏はこの地の東洋一の避暑地として上海香港あたりより遠く南洋に於ける西洋人の集まり来るとのことであった。夏の青島は以上の如くだが、この地秋の快晴は又格別で山高く気清く実になんともいえぬ、自分は内地で経験した事の無い快晴の中に云うべからざる快感を覚えここならば永久に住んでも良いとの感じを起こした故郷忘し難き日本人たる我輩にのこの感があったのである.(未完)

日本タイプ内南方経済研究所設立

2008年04月19日 15時43分06秒 | 白雲楼
北進論の中心満州 朝鮮 モンゴル 特に満州には満州日本タイプを設立、中国語タイプなども製造、朝鮮では鉱山を主として農産物、海産物の商社等を現地で設立、鉱山は金鉱であった。 日本国内においても鉱山を数箇所所有しており、金の生産をおこなっていた。
アメリカとの貿易が厳しくなっていた当時、金はスイスの国立銀行によって対欧州との決済にしようされたのである。
その中継地点がタイ国の中央銀行であり、そこから中立国スイスやせーデンの国立銀行に運ばれ、戦争中から戦後にかけて対外決済に使用された。
特に南進論者の父にとっては、泰国親善は日本を守る上で欠くべからざる国であった。
北進論では国際金融はどうしても困難であった。
南方調査研究所は昭和9年頃毎日新聞から調査室長とした加藤正男氏 深江彦市氏 阿子島俊治氏を政界からは桜内義雄氏を擁して、年間の費用は600万円であった。
南方の資源調査は主体であったと思われるが、毎日から来た加藤氏は英国通でありタイ、ビルマを通じての外交ルートの確保であったろう。
戦争が始まると父は国内では活躍の場がなくなり、政敵が東条をバックに圧力を掛け
父はビルマの軍政顧問に転出する。そのとき父は新任官となり、海軍少将の肩書きを得た。
東条内閣と対立した父は米内海軍大将ら組んで、倒閣運動を起こすが、其れはビルマから帰ってきた昭和18年の後半からである。
この暮れに大東亜会議が開かれ、アジアの盟主が東京に集まり、大東亜の結束を誓い合うのであるが、父はビルマに帰る前、国策研究会 矢次一夫氏と新橋の料亭で話し合いを行うが、その時二人ともフグに当たり入院する結果となった。
それでビルマえの出発に間に合わず、小川郷太郎氏がビルマに派遣されたのである。
そのご父や矢次一夫氏や米内正光氏等五六人が度々会合を重ね、東条内閣を倒閣に導くのである。その中に藤山愛一郎氏が若手で一人いた。
皆決死の覚悟であった事はその写真を見れば分かる。唯若い藤山氏がいたのはその場で何か不釣合いであった。
これは藤山氏が場所を提供したからである。
戦後藤山氏は政界で活躍されたが、事務機等はすべて日本タイプのご指名であった。
唯残念なのは父の代わりにビルマに派遣された小川郷太郎氏はビルマから帰国の際、アメリカ軍の協定違反の砲撃で船が撃沈され亡くなったことである。
日本タイプの社員も数名乗船したいたようである。ご冥福をお祈りする。

わが国民の発展には南洋は好適地

2008年04月12日 15時28分56秒 | 白雲楼

これは父が昭和11年日本の委任統治の蘭領ニューギニア等を視察後の新聞での発言である。日本は当時中国にはまり込んでいて、日支事変ににより第二次大戦に嵌まり込んでいくのであるが、それを止める為盛んに南洋の開発を毎国会説いたのであるが、結局南方に日本軍が侵攻して、アメリカの強固方針により対日石油輸出禁止となり、日本は孤立する羽目となる。南方の資源開発より、中国の資源を重視したのである。

当時泰国と仏印とは国境の問題で、戦っていたが、その調停が日本政府の折衝で実現し、昭和16年7月の米国対日資産凍結により、泰国、仏印が貿易相手として重要となり、外為の決済を泰国立銀行やサイゴンのインドシナ銀行を通して物資輸入、輸出決済を行うようになったのである。其れより以前昭和16年3月7日上記泰国・仏印間の休戦調停が実現し、翌日の7日桜井邸において日泰親善のパーデーが開かれた。タイ国主席全権ワンワイ殿下をはじめ一向18名を主賓として外交関係者50名、泰国留学生百五十余名が参加して祝賀式が行われた。日本が対米戦争に突入するまで、日本の対外為替決済がこの両国を通して行われた。日本の対外借款の決済も中立国スイスを通して決済されたと思われる。当時は日本発送電が多額の外債を発行していたからである。戦後の日本発送電の民営化がスムーズに行えたのも、この日泰間の友好関係によるものであう。

今次大戦の南方で戦死した人々や南方の先駆者を祭り、皇室の安泰を祈願して、康楽寺を設立

 

タイ国大使矢田部夫人等がワンワイ殿下妃と桜井邸に来訪した記事


桜井兵五郎先生と私 小川半次

2008年03月28日 14時55分07秒 | 白雲楼

小川半次氏は石川県出身であるが田中伊三次氏と同じく、京都市議,府議を経て国会に当選せられた。以下同氏による父の回想文である。

私の生まれたのは石川県の高松町で、ここは衆議院の選挙では、石川県二区に当たる。この選挙区から、戦前長い間、桜井兵五郎先生が選出され、郷土のため、それなりの働きをしておられた。

私は大学は京都で、郷里の高松には、春休み、夏休み、正月休みのほか、よく帰省したものである。

帰省した私は、父や祖父と囲炉裏をかこんで、談笑するのが習慣になっていた。

父も祖父も政治談議が好きで、支持していた桜井兵五郎先生のは話をよくしたものでった。

父や祖父も政治には一見識をもっていおり、民政党の方が信頼できると言って、政友会には非協力な態度をとっていたようであった。

わが町は政争の激しい町で、選挙時になると、政友会の民政党の支持者が、真二つにわかれ凄まじい選挙運動が展開されたものである。

ある年の選挙に、私の家に夜中,石を投げ込んだ者があった。翌朝、親類の親爺がとんできて「石を投げたのは政友会の奴らだ」「お前の家は桜井兵五郎に肩入れすぎているからだ」

と大声を立てていたことを憶えている。

私は学生時代、応援団長をやっていて、時々演説をやらされたものである。ある年の選挙の時であった、私が郷里に帰省していたら、町長が私をたずねてきて「あんたは演説がうまいそうだが、桜井先生の応援員舌をいてほしい」と、かり出されて、河北郡内や羽咋郡内で演説をやったものである。

私はそれまで桜井先生を知ってはいたが、直接話し合ったことはなく、津幡町の会場で、あんたは高松町の小川さんか、と先生から話っけられ、それが縁となった、知り合うことになったのである。。実はその演説会場の弁士控え室で、私の演説を聴いていた桜井先生は「今の弁士は誰ですか、なかなか味のある演説をする人だね」と褒められておられたことを、後で関係者から聴き、其の時嬉しかったことを今でも憶えている。

その後私は、東京に出たときなど、国会の傍聴券をお願いしたりする程度で、余り深い交際はなかったが。

桜井先生が民政党の政調会長のとき、京都における政策研究会に出席され、私もそこに同席した。

私はそのころ京都市議で二十六才の若者であったが、許されて政策の一部を説明した、それがまた、桜井先生のお気に入りとなり、会議が終わった語、今日の政策を、東京の党本部にきて説明して下さらんか、と推めれれたり、かって先生の応援演説をした、あの津幡町のことなど懐かしげに話し合ったものである。

穏やかで、大向うを張るという永井柳太郎先生の演説とは対照的で、諄諄と巧みに話題を進めてゆく、即ち静かに聴かす演説をする人であった。

その後、何年間か交際は続いたが、やがて戦争は激しくなり、私は応召するなどで、二人の間は自然薄れてゆき、戦後私が衆議院議員となり、ご挨拶に伺うべく電話連絡したところ、ご病気とかで、そのまま失礼していた矢先き、先生のご逝去をしり、本願寺に詣でて冥福を祈ったものである。

 (筆者は衆議院議員当選十回、参議院議員当選一回、衆議院、参議院の両予算委員長、自民党全国組織委員長、同国民運動本部長)

 

 


田中伊三次氏よりの父の回想文

2008年03月25日 12時16分48秒 | 白雲楼

同氏は国務大臣、自治大臣法務大臣を歴任された。京都府出身で京都市議、京都付議を歴任昭和17年翼賛選挙で初当選されたがそのころの回想文を頂いた。

 

昭和17年私が最初に代議士になたとき、桜井兵五郎老先生は、政界の長老で、大所高所にたって国家百年の大計を思う大物だというう噂が、高かった。ある日、議員食堂で永井柳太郎先生とお二人で食事をしておられたかと思います。私は二人の大先生の横に席をとり「先生立派な政治家になるにはどんな修行が要りますか。」

「君は東条内閣の非すいせんでありながら、京都から最高点ででてきた田中君たったネ」「そうです。東条軍閥のやり方は、ひどいものでした。しかし、すんだことです。そんなことはどうでもよい。お二人の大先生私の質問に答えてください。」

「それは、君、ムツカシイことだよ。言ってきかせてもよいが、実行できるかな。」「必ず実行しますから、若い政治家を指導すると思って言ってください。」

「よし、それでは言ってやろう。一口で言えば何事も知っておれ。しかし、何事も言うな。ということだネ。」

「禅の問答のようでわかりにくいが、それはどういう意味ですか。」

「政界のできごとは至極複雑だが、一生懸命勉強して、財政は財政、金融は金融で、それぞれの専門館の意見にも注意を払い、筋を立てて、自分の判断をちゃんと持っていることが肝要だ。しかし、それを会議の席にでて、軽々に発言してはいけない。まづ、人のいううことをエリを正してきくことだ。そのうえで、何人もふれないことで、国家国民のため重要なことがもれているときは、そこで初めて発言する。一たび発言した上は、どんな反対があっても、自分の所見を押し通し、一歩も譲らぬという態度が無ければならない。」

「国家国民のため大切なことという点が、大事な点ですね。」

「そうだ執政の基本方針、財政、金融などいろいろな政界のできごとに価値判断をくわえる場合、決して党の立場や自分の立場で判断してはいけない。国家国民の利益という観点に立って、判断を加えることが大切なんだな。」

「よくわかりました。一生懸命に勉強して、教えていただいたことを堅く実行し、立派な政治家になりたいと思います。」

 

わたしは、代議士在職35年の及び、その間、一生懸命に勉強してまいりました。石橋内閣、岸閣で再び自治を担当、佐藤一次と二次、田中内閣で三たび法務を担当、入閣五度の及びましたが、右の教訓は、今なお私の胸中に生きております。このお二人のお話は桜井兵五郎老先生が中心でした。

昭和53年3月7日