余は支那漫遊のため昨秋十月十一日大隈信常氏横山章氏頼母木関両代議士及び原文次郎氏と共に東京を発し同十一月二十二日東京に帰った。この間四十三日間通過するところは、朝鮮及び支那にて水陸合わせ六拾里を踏破した。短日間に於ける比較的長距離間の旅行故その速力はあたかも飛行機の滑走の如く従って観察するところも亦皮相の見たるを免れぬ。尤も彼の地に在る日本人で「支那は長く折れば折るほど解らなくなる。支那の真相は却って一寸覗いてすぐ帰る人が得られる」などと云う人もあるがこの言直ちに採って肯定すべきでないが、一面支那は研究すればするほど深く広く殆ど限りがない。寧ろ大観してして直感するが径捷であると云うことを意味することになるかも知れぬ。
若しこの意味からすれば吾吾の滑走中の観察もまた多少、正かうを得たものがあるかも知れぬ、兎に角短日間ではあうが通過するところの地域は支那の大陸部分でかつ万事が目新しいことだけに記述しようと思う事はいくもある、帰途京都加茂に行政学会主大谷氏を訪れたところ漫遊記を述を「地方行政」掲載するようにとの希望であった。余も政治経済社会の各般に亘り多少組織を立ててご紹介したいと思うが数字的の事程もあり之にはどうしても相当の時間を要する依って機宜の便法として単に脳に浮かび上び来たったものをとらえ、別に種別も立てず雑然と紹介致すつもりである組織的の議論は結論においてなし又改めて稿を記す事かも知れぬ。
日本は小さいーー支那の大なる事は何人も之を知っておる。その面積は四百二十万八千三百五十二平方哩即ち日本の約三十倍にして全欧州に匹敵せすると称せら人口は本部拾八省だけで四億一千満人それに満蒙新疆及び西蔵を加ふるときは約四億三千萬である。
即ちこの点よりするも約日本の九倍ある。斯様なわけで支那の大きい事は何人も承知しておるが、さて一巡して上海まで来ると支那は大きいと云う観念は無く却って日本が小さくいかにも哀れな程小さく恰も豆の如く感ぜられる。よく外国など回った人がその珍しさをエンハサイズする為に突飛なことを言う人もあるが我輩はそうゆう意味ではない全く感じたことをありのまま紹介したいと心得るものである。
祖国のことを豆の如く小さいなどととは云いたくないが感覚を率直に云えば全くそうであるから仕方がないのである。尤も支那のことを大きいという観念がないと言ってもそれは上海に来た時の感想である。
始め朝鮮をへて満州に入った時如何にも大きく大陸的光景とは真に之だと思った。所謂日は滄海より出でて虞淵に没すで見渡すところ一目際崖がない、山又山の島国生活を唯一経験とする我輩としては如何にも壮快を覚えた。それより山海関を経て直隷に入り天津の洪水をみたときは成程支那の洪水とはこんなのもかと思った。同行者の一人は汽車は海の中を通って居ると言った、窓より覗いてみれば左右共に際限を知らざる水である、鉄道線路はその中を通って居る線路のそばには小さな船も浮いている。成る程海であると思った、しかしふと心に浮かんだのは海だと思った水のなかより所々大きな柳の木が現れておることである不思議と思って車掌やボーイに聞くとこれなんと
白河の洪水である天気は晴天續きであるが今後恐らくは一年くらいは引くまいとのこと、地域の直属の半分即ち日本本州くらいが浸水しているわけである日本の洪水のように大雨とともに駆けるが如く来たり逃げるが如く去るものと全く撰を異にしておる、これも大きく感じた一例である、北京の宮殿
萬壽山の偉観は後に述べるとして、北京より漢口にいたるの沿線即ち直隷湖北河南であるが、右方遥かに連峰は泰領山にして小西狭四川に境し左方即ち河南安徹山東江蘇の大平原に添う揚子江を漢口より下る三千トン級の汽船で四日を費やすを云うわけである以ってその大を想像することが出来る漢口の江岸に立って北の方北京を想えば広軌の最急でニ十余時間南の方広東を思えば殆ど北京に近き距離がある、東に上海道は汽船で四日日本の東京までは八日乃至九日の行程であるが、西の方四川の都、成都までは陸路二週間をようするとのことであった。即ち漢口より成都に行くか東京に行くかといえば東京の方が五日乃至六日早いという訳である。而して四川の西にはまだ西蔵とういう大なる土地がある。嗚呼支那なるかな支那なるかな。揚子江を下る時も一体これは河であるかいなか、海であるか嗚呼、と言って湖でもない、全く怪物だなーとおもった。夏の増水期と冬の減水期との水深の差が約五十尺上海より四川の入り口まで九百里の間三千トン級の船の汽船が通じその下流たる呉スンのあたりより対岸の望めば大洋の真平にあると同じく全く陸地が見えない、その水は濁水滔滔所謂百年河清を俟つの喩えの在る如く永久の濁水であってこの濁水の注ぐところ沿岸より約五十里の支那の形容詞として大の字の準備が尤も多くを要する次第であるが、これが不思議にも上海に来たって通過したる支那をふりかえればさほど大きいとは思わぬ。支那慣れるといううには少し早いが如何なる精神作用か支那か支那はさほどない之に反し日本は如何に小さく東の太洋の中に一小島を認めるに過ぎぬ、あんな小さいところへ能くも下千万人の人口が入ったものだと思われ更にこの土地が五十年前まで鎖国攘夷と称え外人は入れない、自分らも大きな船は国禁で外えは出ない小さく固まっていたかを思えば、誠に無量の感慨無きあたわずである。
支那の国民性は茫漠たるところにあるに反し日本の国民性は小さく固く迫ったところあるは蓋し土地の自然感化で止む無きことなからんかとも思われた。、口には立憲政治を高唱し、人民自覚の政治を云為すすれど、実は未だ官尊民卑で奴隷的根性は取れない。兎に角我々日本人たるもの小さく固くなった島国根性を離脱し世界を家とするの概がなければ真の東洋の盟主となり東西文化の調和を果たす使命を遂げることは出来ない。
青島の快晴ーー青島は山東の突角に近き膠州湾内にある天然の良港であるが1897年独逸は之を支那より租借して東洋に於ける彼の根拠地のなしたことは何人でも知っている、爾来十七年一昨年日本がこれを占有するまで独逸の桔据経営至らざるなく東洋無比の清潔なる小タウンとなし我我の乗れる榊丸埠頭に付いた時一行の関が嗚呼これは支那ではなく全く欧羅巴の都会じゃ三度目の洋行する気分がするなどと言った。いかにも街に設計せられたる整った西洋建築の都会で道路のごとき悉くアスハルトを敷き秋の晴天續きに自動車で飛ばしても塵ひとつたたないという有様である。一行は本郷司令官の招待でもとワルデック総督の居たという官舎即ち今の本郷司令官の官舎に行ったが青島の市街を眼下に見る丘上に於ける実に心理よき西洋館で建築費が二百万とか聞いた。僅僅一総督の官舎に二百万を投ずる独逸であるから青島植民地の経営振りは推して知れれる訳で、所謂支那式の木の無い焼山を植林して青島一帯の地を満目緑となし市街を中心として付近の連山は悉く自動車道路を有する公園につくられてある、極東の果てに来たってこの植民地の経営振りをなし欧州人はえらいものだ日本は植民地に金もかけずに只東洋の盟主だと威張りたがる傾きが在る。それは兎に角、一行は総督の官舎を出て程近き測候所の高台の昇り膠州湾一帯の地を眺めそれより再び自動車と飛ばして所謂公園に作られたる付近連山に登り砲台を訪れ、次に海岸に出たが大きな人の住んでいない大ホテルがある、聞けば之は夏のホテルで夏はこの地の東洋一の避暑地として上海香港あたりより遠く南洋に於ける西洋人の集まり来るとのことであった。夏の青島は以上の如くだが、この地秋の快晴は又格別で山高く気清く実になんともいえぬ、自分は内地で経験した事の無い快晴の中に云うべからざる快感を覚えここならば永久に住んでも良いとの感じを起こした故郷忘し難き日本人たる我輩にのこの感があったのである.(未完)