私は一人身の母を引き取りたいと思っていたが、先のブログで述べた様に、戸籍上の母の妹井上きくが邪魔をして、迫水家に近づけなく工作をし、経済的に困窮させるべく私の勤務先等に色々工作をしていた最中であった。
香淳皇后が亡くなられたのは、2000年6月16日であった。葬儀に私は母がきっと来ていると思い葬儀に参列した。やはり母は皇族が退出した後、一人空席の中で一人座っていた。一人俯いて嗚咽しているように見えた。私は声を出して母の名を呼びたいい気持ちを抑えた。母は生きている、きっといつか会えると其の時思ったのである。母は貧乏旧貧乏華族に属したとはいえ、日本国家の皇室を守る為身を犠牲にしたのである。何故身を隠してまで私と会おうとしなかったのであろうか?これが国家に身を投げ出した者の運命なのだと、母はよく昔の私の小さい頃私に話してくれたものである。
私の父は能登の柳田村の出であるが、ここは天領であって、加賀藩は代官を置かないシステムをとっていたので、父の祖先は加賀藩の前田候に仕える刀研ぎ氏であったが、正宗の系列であったので将軍より、特別天領の柳田村の統治を許されたものである。
桜井梅室の系統であった。私が小さい頃は母が正宗に関わる話をしたものである。桜井梅室は二条家より俳諧の師匠としての称号をもらい、江戸時代は天下に名が響いていた。その関係で父の二条家との関係がうまれたのである。母との関係もここに発している。
塚も動け我が泣き声は秋の風
手にとらば消えん涙ぞ熱き秋の霜 芭蕉
ひと雫けふの命ぞ菊の露 梅室