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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

母の8周忌(7)

2008年03月20日 07時05分08秒 | 白雲楼

私は一人身の母を引き取りたいと思っていたが、先のブログで述べた様に、戸籍上の母の妹井上きくが邪魔をして、迫水家に近づけなく工作をし、経済的に困窮させるべく私の勤務先等に色々工作をしていた最中であった。 

 香淳皇后が亡くなられたのは、2000年6月16日であった。葬儀に私は母がきっと来ていると思い葬儀に参列した。やはり母は皇族が退出した後、一人空席の中で一人座っていた。一人俯いて嗚咽しているように見えた。私は声を出して母の名を呼びたいい気持ちを抑えた。母は生きている、きっといつか会えると其の時思ったのである。母は貧乏旧貧乏華族に属したとはいえ、日本国家の皇室を守る為身を犠牲にしたのである。何故身を隠してまで私と会おうとしなかったのであろうか?これが国家に身を投げ出した者の運命なのだと、母はよく昔の私の小さい頃私に話してくれたものである。

私の父は能登の柳田村の出であるが、ここは天領であって、加賀藩は代官を置かないシステムをとっていたので、父の祖先は加賀藩の前田候に仕える刀研ぎ氏であったが、正宗の系列であったので将軍より、特別天領の柳田村の統治を許されたものである。

桜井梅室の系統であった。私が小さい頃は母が正宗に関わる話をしたものである。桜井梅室は二条家より俳諧の師匠としての称号をもらい、江戸時代は天下に名が響いていた。その関係で父の二条家との関係がうまれたのである。母との関係もここに発している。

 塚も動け我が泣き声は秋の風 

手にとらば消えん涙ぞ熱き秋の霜   芭蕉

ひと雫けふの命ぞ菊の露     梅室


母の8周忌(6)

2008年03月19日 07時45分00秒 | 白雲楼
戦前の政界で惑星と言われた小泉策太郎の屋敷を父は昭和14年に買い取った。同氏は鎌倉にも広大な屋敷を所有していたが、屋敷の中に川が流れ山が同じ敷地にあった。 この鎌倉の屋敷も父は同時に買い取ったのである。麻布広尾の土地は金沢の康楽寺に寄付をしたが、この鎌倉の広大な土地は、父の妻井上すずの母親の姉の養女となった、私の戸籍上の母の妹の井上きく名義になっていた。父は丁度戦犯容疑で鎌倉のこの屋敷内に米軍に軟禁された昭和20年12月10日に井上きく名義としてのである。 この土地も康楽寺名義としたかったのであるが、六本木ヒルズの敷地の決済が済まず、ここにあった寺の移動等の費用等の問題があったので、一応父の妻の母親の姉の養女の名義にしてあったのである。 父の妻すずは昭和18年に亡くなったが、その母親は戦後も健在で、この鎌倉の屋敷にその姉と一緒に住んでいたのである。本来なら父の戸籍には当時子供は誰もいなかったし、私が相続する事になるのであるが父の華生の祈願である康楽寺の費用にしたかったのである。 父の妻の親姉妹の住まいの必要から、井上きく名義にしたのであろう。その不動産は広島の古川と言いう人(麻布の父の屋敷の隣にあった明治屋の土地もこの古川という人が買い取りドイツ大使館に売却している)が売買して、処理することなっていたが、この井上きくという女はしたたか者で、その姉妹兄弟と図り父の財産の乗っ取りを図ったのである。 父が死去すると鎌倉のこの屋敷の近くに、400坪くらいの土地を井上きくの養母の名義で買ったのである。 六本木のお寺が移動する昭和37年に併せて、父の鎌倉の土地を細切れに売却し、本人は世田谷区若林に引っ越したのである。迫水家の近くに引越し、私の母と懇意な迫水万亀子氏に接近、用心深く色々ご機嫌をとったのである。 私の母は全て知っていたであろうから、将を射るならば馬をでは無いが迫水家の関心を買うように振舞ったのである。 六本木の土地は地元の業者に信託した形で、大変な財産であるが、これは全て父の生涯の祈願であった康楽寺の東京の別院を建てるためのものであった。 従って私が鈴木一氏の会った後迫水家を訪ねたときは、万亀子氏の妹がシャシャーとして私が万亀子本人だとのたまい、私の父のことは知らないと惚けたのである。その裏にはこの井上きくがいたのである。当時は迫水家の縁戚である瀬島龍三氏は、父と関係深かった安宅産業が崩壊し、安宅産業と伊藤忠との合併に奔走していた最中であったから、父と安宅産業との関係から、井上キクが迫水家を通して瀬島氏と関係が生じ働き掛けがあったものと推測される。つまり父の財産をねこばばするのに一連托生であった私の戸籍上の母姉妹兄弟は迫水家に働きかけたと考えられる。安宅産業と伊藤忠が合併したのは、昭和52年10月であり、丁度そのころ東京穀物取引所理事長の鈴木一氏に会ったのである。尚伊藤忠の創立者伊藤忠兵衛氏はカナ文字会の創立者の一人であり、父の主宰していた日本タイプと関係深く、また丸紅は日本タイプライターの大株主であった。その後、中曽根内閣の臨調で瀬島龍三氏が、土光敏夫氏の下で活躍し、土光氏に替わり会長代行として活躍したことは周知の通りである。

母の8周忌(5)

2008年03月18日 06時57分01秒 | 白雲楼

今にも崩壊しそうな三条西家の家は取り壊されることが判った。三条西家の土地の所有者は、大田区の桜井某氏となっていた。母はこのボロボロの家に住んでいる事になってことになっていたのである。住民票がそうなっていた。私の小さい時の記憶によると皇族は、2ツの家があり、世間の窓口としての家と、実際の家が違うと聞いていたが、現実に会って見ると驚きであtった。その頃は私は東京電気を止めたあとであった。恥ずかしい話であるが、私はそ時の江本支店長に、こっぴどく苛められたのである。課長会議の席で私は標的になり、毎回お前は課長の資格が無いとか、お前の部下が余ほどお前より上であるとか、何とか理屈をつけて、会議の席上皆の前で苛め抜いたものである。私が三条西家の香道会の教室に出席するように成ってからである。皆の話を聞くと、暮れ、お中元に奥さんが贈り物を持っていっているようでった。私は之まで誰にも盆暮れの贈り物はしていなかった。これがどうも災いしたようである。しかし原因はもっと別の処にあった。これは下記のブログを参照して頂ければ理解できるのである。又当時は東京電気には売れる商品が開発されていなかった。営業マンは四苦八苦しても、時代遅れのものしかなかったのである。こんなとき支店長として元NCRにいた悪名高いこの男が支店長してきたのでる。私は香道教室でも気持ちの治まることはなく、三条西氏に紹介される事もなく又母に会えたが遥か彼方の部屋の中の20~30人の女性の中にいるのを見たのである。しかし私は母に会ったのである。それも皇后陛下の車の中から、ハンカチで涙を拭きながら、身を窓から乗り出して私を見つめたのであった。しかしこのことは既にブログで記述したことである。このことからも母は皇居にいる事がわかるであろう。しかし三条西氏と結婚しているから、家に帰ることもあると考えていた。新しい三条西家の家は横浜の方で、一階が車庫で三階建てのようであった。私はもしかして母が居るのではないかと、車で何回もその家の前まで行ったものであった。しかしある日のこと、その二階の部屋の窓から老婦人が手振るのである。これには驚いた。皇后様の車からハンカチを眼に当てながら私を見た母とは全然違う人であった。私は何故か空恐ろしいものを感じたのである。私に何度も会いに来た母、私が記憶を取り戻した母の記憶、また自分の人生の不遇を嘆いたものである。母を訪ねて三千里の話の一こまである。当時私は西武不動産の住宅営業の契約社員であった。私の人生の不幸の元締めである男を尋ねたときの下記のブログがある。

http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/d/20050705


母の8周忌(4)

2008年03月17日 20時11分59秒 | 白雲楼
私が微かな記憶より母の家を見つけたのは、私が東芝の子会社東京電気株式会社にいた昭和50年だいである。 私の記憶が金沢国立病院で破壊されたことは、以前GOOのブログで書いたが、実際に三条西家を訪問してみると、実際に人が住んでいる様な建物ではなかった。実際に住んでいるのは近くのマンションであったのである。電話帳で調べてみると、電話番号があったのでそこに電話すると男性で鋭い声が聞こえてきた。三条西公正氏は剣道の達人であったようで、声もその気合のようであった。今は日本香道会の鈴木氏にまかせてあるとゆうことであったので、入会の手続きをとった。勿論母と合えるかもしれないというう希望があったからである。その香道会で雑誌を購入したのが、このブログのトップページの写真である。私の母の写真は全て辨谷家の写真帳からはずされていた。私が大学時代によく母が私を訪ねてきたが、私の記が喪失していて思い出すに至らなかったことは本ブログでも度々述べたところであるところが其の頃、辨谷貞造の妻智子が私に小さい頃の写真や、母と一緒にいる写真を私に見せたものである。其の時は辨谷ハシもそばにいて、私の反応をみていたようである。私と一緒にいる女性は誰かと聞くと,ハシは白雲楼の女中さんだと言う。(この写真が先のブログで述べた私と母の別れる前のツーショットだたのである。)しかし私は昭和50年頃になってやっと思い出してきたのである。それほどまでに私は頭脳が破壊されていたのたのであう。先に記述した東京電気時代は、激しいノルマを掛けられ、少しの間を見つけては、昔の記憶をたどっていたである。其の頃江本と言う名の支店長で、悪名をあちこちに流していたのが就任、私を苛め抜いたのである。其の頃であるが朝の朝礼で、この江本支店長が、天皇なら売らなくても良いのかとゆう発言があった。私の事を言っているとは気が付かなかったが、部下を一緒に飲みに言った時、其の部下が彼は「白雲楼のことも良く知っているし、貴方は伯爵の出であることも知っている」といううのだ。ほかの二人は黙って一言も発しなかったのである。三条西家は旧伯爵家である。東芝の子会社である東京電気での出来事であった。これは桜井繁雄、桜井清次、桜井能唯弁谷貞造の罠である。

母のの8周忌(3)

2008年03月16日 08時04分04秒 | 白雲楼

私が母に会ったのは昭和40年の中頃である。私は東京電気に勤めていた時で、その日は朝から東芝の土光社長が会社の朝礼を見に来るということであった。何故東芝の社長が子会社の東京電気の朝礼を見に来たかといえば、東芝の社長の石坂泰三が東芝の業績がわるいので、土光氏を後任に指定して、東芝の業績を上げようとしていたのである。東京電気は事務機とレジスターの製造販売をしており、東芝グループの中では業績が良かったのでその研究に来たのだという。当時の東芝社長の石坂泰三氏は東芝の社員は働かないと嘆いていたらしいい。それで東芝社長になった土光氏が東京電気の朝礼を見に来たらしい。当時はレジスター販売部(日本NCRが第二次世界大戦中敵性財産として、東芝が管理しており、東京電気が東芝から分離されこれが元で戦後レジスターの製作を始めたのである。)と事務機販売部は一室に半々に使っており、朝礼は物すごい怒号が飛び交ったものである。灰皿がとんできたこともあった。特にレジスター部は当時ナショナル金銭登録機との競合がはげしくて、朝から部下を怒鳴る声で大変のものであった。土光社長がきて朝礼の様子を見ていたが、特別挨拶もなく拍子ぬけした感じであった。私が母に会ったのはその朝礼が終わってから仕事に往来に出た時、皇后陛下のお召し車が行列をなして道路に立ち往生の状態であった。私が神田駅に向う途中であったが、皇后陛下の車が止まっており、皇后陛下の車の窓が開いていて、私が皇后陛下を見ていると、その横から母が私を見るようにして身を乗り出したのである。私はビックリ仰天して心臓が破裂する気がしたが、母は私の顔を見ながら涙を流しているのが分かった。私の目の前での出来事であった。