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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

母の8周忌(5)

2008年03月18日 06時57分01秒 | 白雲楼

今にも崩壊しそうな三条西家の家は取り壊されることが判った。三条西家の土地の所有者は、大田区の桜井某氏となっていた。母はこのボロボロの家に住んでいる事になってことになっていたのである。住民票がそうなっていた。私の小さい時の記憶によると皇族は、2ツの家があり、世間の窓口としての家と、実際の家が違うと聞いていたが、現実に会って見ると驚きであtった。その頃は私は東京電気を止めたあとであった。恥ずかしい話であるが、私はそ時の江本支店長に、こっぴどく苛められたのである。課長会議の席で私は標的になり、毎回お前は課長の資格が無いとか、お前の部下が余ほどお前より上であるとか、何とか理屈をつけて、会議の席上皆の前で苛め抜いたものである。私が三条西家の香道会の教室に出席するように成ってからである。皆の話を聞くと、暮れ、お中元に奥さんが贈り物を持っていっているようでった。私は之まで誰にも盆暮れの贈り物はしていなかった。これがどうも災いしたようである。しかし原因はもっと別の処にあった。これは下記のブログを参照して頂ければ理解できるのである。又当時は東京電気には売れる商品が開発されていなかった。営業マンは四苦八苦しても、時代遅れのものしかなかったのである。こんなとき支店長として元NCRにいた悪名高いこの男が支店長してきたのでる。私は香道教室でも気持ちの治まることはなく、三条西氏に紹介される事もなく又母に会えたが遥か彼方の部屋の中の20~30人の女性の中にいるのを見たのである。しかし私は母に会ったのである。それも皇后陛下の車の中から、ハンカチで涙を拭きながら、身を窓から乗り出して私を見つめたのであった。しかしこのことは既にブログで記述したことである。このことからも母は皇居にいる事がわかるであろう。しかし三条西氏と結婚しているから、家に帰ることもあると考えていた。新しい三条西家の家は横浜の方で、一階が車庫で三階建てのようであった。私はもしかして母が居るのではないかと、車で何回もその家の前まで行ったものであった。しかしある日のこと、その二階の部屋の窓から老婦人が手振るのである。これには驚いた。皇后様の車からハンカチを眼に当てながら私を見た母とは全然違う人であった。私は何故か空恐ろしいものを感じたのである。私に何度も会いに来た母、私が記憶を取り戻した母の記憶、また自分の人生の不遇を嘆いたものである。母を訪ねて三千里の話の一こまである。当時私は西武不動産の住宅営業の契約社員であった。私の人生の不幸の元締めである男を尋ねたときの下記のブログがある。

http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/d/20050705


母の8周忌(4)

2008年03月17日 20時11分59秒 | 白雲楼
私が微かな記憶より母の家を見つけたのは、私が東芝の子会社東京電気株式会社にいた昭和50年だいである。 私の記憶が金沢国立病院で破壊されたことは、以前GOOのブログで書いたが、実際に三条西家を訪問してみると、実際に人が住んでいる様な建物ではなかった。実際に住んでいるのは近くのマンションであったのである。電話帳で調べてみると、電話番号があったのでそこに電話すると男性で鋭い声が聞こえてきた。三条西公正氏は剣道の達人であったようで、声もその気合のようであった。今は日本香道会の鈴木氏にまかせてあるとゆうことであったので、入会の手続きをとった。勿論母と合えるかもしれないというう希望があったからである。その香道会で雑誌を購入したのが、このブログのトップページの写真である。私の母の写真は全て辨谷家の写真帳からはずされていた。私が大学時代によく母が私を訪ねてきたが、私の記が喪失していて思い出すに至らなかったことは本ブログでも度々述べたところであるところが其の頃、辨谷貞造の妻智子が私に小さい頃の写真や、母と一緒にいる写真を私に見せたものである。其の時は辨谷ハシもそばにいて、私の反応をみていたようである。私と一緒にいる女性は誰かと聞くと,ハシは白雲楼の女中さんだと言う。(この写真が先のブログで述べた私と母の別れる前のツーショットだたのである。)しかし私は昭和50年頃になってやっと思い出してきたのである。それほどまでに私は頭脳が破壊されていたのたのであう。先に記述した東京電気時代は、激しいノルマを掛けられ、少しの間を見つけては、昔の記憶をたどっていたである。其の頃江本と言う名の支店長で、悪名をあちこちに流していたのが就任、私を苛め抜いたのである。其の頃であるが朝の朝礼で、この江本支店長が、天皇なら売らなくても良いのかとゆう発言があった。私の事を言っているとは気が付かなかったが、部下を一緒に飲みに言った時、其の部下が彼は「白雲楼のことも良く知っているし、貴方は伯爵の出であることも知っている」といううのだ。ほかの二人は黙って一言も発しなかったのである。三条西家は旧伯爵家である。東芝の子会社である東京電気での出来事であった。これは桜井繁雄、桜井清次、桜井能唯弁谷貞造の罠である。

母のの8周忌(3)

2008年03月16日 08時04分04秒 | 白雲楼

私が母に会ったのは昭和40年の中頃である。私は東京電気に勤めていた時で、その日は朝から東芝の土光社長が会社の朝礼を見に来るということであった。何故東芝の社長が子会社の東京電気の朝礼を見に来たかといえば、東芝の社長の石坂泰三が東芝の業績がわるいので、土光氏を後任に指定して、東芝の業績を上げようとしていたのである。東京電気は事務機とレジスターの製造販売をしており、東芝グループの中では業績が良かったのでその研究に来たのだという。当時の東芝社長の石坂泰三氏は東芝の社員は働かないと嘆いていたらしいい。それで東芝社長になった土光氏が東京電気の朝礼を見に来たらしい。当時はレジスター販売部(日本NCRが第二次世界大戦中敵性財産として、東芝が管理しており、東京電気が東芝から分離されこれが元で戦後レジスターの製作を始めたのである。)と事務機販売部は一室に半々に使っており、朝礼は物すごい怒号が飛び交ったものである。灰皿がとんできたこともあった。特にレジスター部は当時ナショナル金銭登録機との競合がはげしくて、朝から部下を怒鳴る声で大変のものであった。土光社長がきて朝礼の様子を見ていたが、特別挨拶もなく拍子ぬけした感じであった。私が母に会ったのはその朝礼が終わってから仕事に往来に出た時、皇后陛下のお召し車が行列をなして道路に立ち往生の状態であった。私が神田駅に向う途中であったが、皇后陛下の車が止まっており、皇后陛下の車の窓が開いていて、私が皇后陛下を見ていると、その横から母が私を見るようにして身を乗り出したのである。私はビックリ仰天して心臓が破裂する気がしたが、母は私の顔を見ながら涙を流しているのが分かった。私の目の前での出来事であった。


母の8周忌(2)

2008年03月15日 18時33分23秒 | 私の母

私が何故東芝の子会社の東京電気において、こうも虐待を受ける原因は私の父の会社日本タイプライターの特許にあったのである。東京電気と日本タイプライターが共同して郵政省向けATMを開発したことは以前のブログでも書いた。これは通信と日本語処理の問題で、日本タイプは特許を持っていたのである。日本タイプライターは戦時中、日本軍の宣戦拡大につれてその情報通信のノウハウがあり、国と一丸になって情報収集をおこなっていたのである。それに伴う機器の開発を東芝等大企業と行っていたからである。私から父のすべてを奪うため、私の預けられた家の一族が裏で工作をしていたからである。 私が神戸に飛ばされてから2年後の昭和55年には東京電気を辞めざるを得なくされたのであるが、其の前の昭和52年に、そのころ終戦内閣の鈴木貫太郎首相の子息である鈴木一氏に、当時東京穀物取引所の理事長であった同氏を訪ねたのである。私は母の写真を示し、迫水万亀女史に紹介してもらいたいと話に行ったのである。私は写真を示しこれが私の母であるから、迫水女史ならよくご存じだと思うと話をしたのである。同氏は私の話を聞いて、こんな証拠があるなら行って会ったら良いと話されたのだある。私は父が岡田啓介氏らと軍服を着て五~六人で写真に写っているのを見たことがある。この写真の年老いた軍服を着た人々の中に、若き日の藤山愛一郎氏(日本NCRの創立者)の姿が映されていた。この写真は東条内閣打倒の会合の時の写真である。父も軍服をきて、皆真黒な顔をしていた。岡田啓介氏の長女が迫水万亀氏であり、鈴木貫太郎一家とは親戚関係であったのである。父は終戦内閣の閣僚であり、岡田啓介内閣の時は拓務次官であった。岡田啓介総理の秘書官福田耕氏が日本タイプの社長をしていたというう関係もあったのである。


私の母の8周忌 私の祖母と康楽寺

2008年03月10日 12時15分24秒 | 私の母

私の母が亡くなってからもう8年になる。 毎年12月20日になると三条西家のお墓に参りに行くが、墓石には母の死亡の銘が彫ってない。つまり墓に入れさせてもらえないのであろう.これが華族の仕来りなのであろう。母の魂は何処かにさ迷っているのではと思う。 三条西公正氏と母が海外に日本の香道を広めるため、昭和38年4月27日外務省文化局から香道紹介のため欧米各国で実演を行うため派遣されて、米国、ヨーロッパを回ったことがあり、外務省にその記事や写真等を公開することを申請したことがあった。平成18年3月7日のことである。窓口の担当官は何故か入れ替わり立代わり数人の人が私の前に現れた色々質問をした。 最後に現れた者がシツコク胡散臭げに質問をしてきた。 その記録なら残っているでしょうという人も居れば、最後に現れた者は言うには、どこで其の事をしったのかとか、何か目つきの悪い担当官が私の手帳の覗き込んで、内容を確認者した。随分失礼な奴と思ったが手帳の記録を見せると、覗き込み確認していた。何故このように外務省の公開受付の担当者が入れ替わり立ち代り現れ、しつこく質問する権利が彼らにあるのであろうか。 なんだか気持ちの悪い感じがした。つまり私の母に関する記事を公表しないのではないかという気がした。 1月後やはり外務省からは文章が無いとの通知が来た。しかも外務大臣に異議申し立てが出来ると文末に書いてあった。無いのもはいくら異議申し立てしても無駄であろう。しかし異議申し立てが出来るとあるのは、やはり記録があり、外務大臣が不許可としたのであろうか?当時の外務大臣は麻生氏であった。麻生氏といえば、母とも遠い縁戚かんけいがあり、父の会社の日本レミントン会社の取締役が加納久朗氏であり、同氏の仲人で麻生太郎氏の父と吉田茂氏の長女が結婚して麻生太郎氏が生まれたのである。私はそれ以前外務省に父がビルマから仏舎利を寄贈を受け、康楽寺を建設する公文書を開示請求したことがあったが、梨のつぶてで何の返事も無かった。父の麻布の土地についても現在ドイツ大使館になっているが、父は康楽寺に寄付したのである。吉田茂氏が当時外務大臣兼任であり、アデナウアー首相より、駐日大使館の敷地の取得の要請をうけていた。当時は連合軍が適性財産であるドイツ大使館の敷地を没収しており、その敷地として国会図書館とすることに国会で決まったのである。私はこのことに関連して関係省庁に公文書を請求していた。 私の名前が外務省では要注意人物の為った居たのかもしれない。 戦時中私の父の提案で外務から

、大東亜省が新たに設置され、外務省から分割されようとしていたが外務省の反対で、結局名前だけの省となったのである。しかしこの大東亜省の御かげでビルマやインドなどが独立国家となった。 母はこの頃は宮中で女官として皇后さまの身の回りの世話をしていたのである。三条西氏は皇后様の妹君が妻であった。母は四条姓であり、父と母は別れたのである。母と三条西しが結婚したのは、戦後のことであり、同氏の妻がなくなったあとである。  私の祖母は私の母のことを、父の妻に遠慮して表に、出てこなといって嘆いていた。それで私を残してよく我慢しているとも言ったものである。そのころの写真で私と母のなんともいえない悲しい顔をした二人の写真があった。私はハンチング帽子を被り得意げな顔をしており、母は私の横で悲しみに打ちひしがれて様子であった。父と別れ私と別れる最後のショットであったのである。 大分以前のNHKのドラマで終戦時の皇居内で、戦争を終結しょうとする天皇の詔勅のレコードを奪回しようとする反乱軍が、皇居内に押し寄せ、当時女官であった母のもとにも押し寄せてきたのである。母の名前は四条の宮であり、夫は海軍少将であった。もう一人の女官も夫は陸軍中将であったようである。之は物語の中での設定であったが、かなり史実に照らして作成されていた。私はこのテレビを見ながら母の役割を知ったのである。 この女官等によって天皇の詔勅のレコードが反乱軍に奪われずに済み、天皇陛下の終戦の詔勅の放送が行われた。