小川半次氏は石川県出身であるが田中伊三次氏と同じく、京都市議,府議を経て国会に当選せられた。以下同氏による父の回想文である。
私の生まれたのは石川県の高松町で、ここは衆議院の選挙では、石川県二区に当たる。この選挙区から、戦前長い間、桜井兵五郎先生が選出され、郷土のため、それなりの働きをしておられた。
私は大学は京都で、郷里の高松には、春休み、夏休み、正月休みのほか、よく帰省したものである。
帰省した私は、父や祖父と囲炉裏をかこんで、談笑するのが習慣になっていた。
父も祖父も政治談議が好きで、支持していた桜井兵五郎先生のは話をよくしたものでった。
父や祖父も政治には一見識をもっていおり、民政党の方が信頼できると言って、政友会には非協力な態度をとっていたようであった。
わが町は政争の激しい町で、選挙時になると、政友会の民政党の支持者が、真二つにわかれ凄まじい選挙運動が展開されたものである。
ある年の選挙に、私の家に夜中,石を投げ込んだ者があった。翌朝、親類の親爺がとんできて「石を投げたのは政友会の奴らだ」「お前の家は桜井兵五郎に肩入れすぎているからだ」
と大声を立てていたことを憶えている。
私は学生時代、応援団長をやっていて、時々演説をやらされたものである。ある年の選挙の時であった、私が郷里に帰省していたら、町長が私をたずねてきて「あんたは演説がうまいそうだが、桜井先生の応援員舌をいてほしい」と、かり出されて、河北郡内や羽咋郡内で演説をやったものである。
私はそれまで桜井先生を知ってはいたが、直接話し合ったことはなく、津幡町の会場で、あんたは高松町の小川さんか、と先生から話っけられ、それが縁となった、知り合うことになったのである。。実はその演説会場の弁士控え室で、私の演説を聴いていた桜井先生は「今の弁士は誰ですか、なかなか味のある演説をする人だね」と褒められておられたことを、後で関係者から聴き、其の時嬉しかったことを今でも憶えている。
その後私は、東京に出たときなど、国会の傍聴券をお願いしたりする程度で、余り深い交際はなかったが。
桜井先生が民政党の政調会長のとき、京都における政策研究会に出席され、私もそこに同席した。
私はそのころ京都市議で二十六才の若者であったが、許されて政策の一部を説明した、それがまた、桜井先生のお気に入りとなり、会議が終わった語、今日の政策を、東京の党本部にきて説明して下さらんか、と推めれれたり、かって先生の応援演説をした、あの津幡町のことなど懐かしげに話し合ったものである。
穏やかで、大向うを張るという永井柳太郎先生の演説とは対照的で、諄諄と巧みに話題を進めてゆく、即ち静かに聴かす演説をする人であった。
その後、何年間か交際は続いたが、やがて戦争は激しくなり、私は応召するなどで、二人の間は自然薄れてゆき、戦後私が衆議院議員となり、ご挨拶に伺うべく電話連絡したところ、ご病気とかで、そのまま失礼していた矢先き、先生のご逝去をしり、本願寺に詣でて冥福を祈ったものである。
(筆者は衆議院議員当選十回、参議院議員当選一回、衆議院、参議院の両予算委員長、自民党全国組織委員長、同国民運動本部長)