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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

わが国民の発展には南洋は好適地

2008年04月12日 15時28分56秒 | 白雲楼

これは父が昭和11年日本の委任統治の蘭領ニューギニア等を視察後の新聞での発言である。日本は当時中国にはまり込んでいて、日支事変ににより第二次大戦に嵌まり込んでいくのであるが、それを止める為盛んに南洋の開発を毎国会説いたのであるが、結局南方に日本軍が侵攻して、アメリカの強固方針により対日石油輸出禁止となり、日本は孤立する羽目となる。南方の資源開発より、中国の資源を重視したのである。

当時泰国と仏印とは国境の問題で、戦っていたが、その調停が日本政府の折衝で実現し、昭和16年7月の米国対日資産凍結により、泰国、仏印が貿易相手として重要となり、外為の決済を泰国立銀行やサイゴンのインドシナ銀行を通して物資輸入、輸出決済を行うようになったのである。其れより以前昭和16年3月7日上記泰国・仏印間の休戦調停が実現し、翌日の7日桜井邸において日泰親善のパーデーが開かれた。タイ国主席全権ワンワイ殿下をはじめ一向18名を主賓として外交関係者50名、泰国留学生百五十余名が参加して祝賀式が行われた。日本が対米戦争に突入するまで、日本の対外為替決済がこの両国を通して行われた。日本の対外借款の決済も中立国スイスを通して決済されたと思われる。当時は日本発送電が多額の外債を発行していたからである。戦後の日本発送電の民営化がスムーズに行えたのも、この日泰間の友好関係によるものであう。

今次大戦の南方で戦死した人々や南方の先駆者を祭り、皇室の安泰を祈願して、康楽寺を設立

 

タイ国大使矢田部夫人等がワンワイ殿下妃と桜井邸に来訪した記事


桜井兵五郎先生と私 小川半次

2008年03月28日 14時55分07秒 | 白雲楼

小川半次氏は石川県出身であるが田中伊三次氏と同じく、京都市議,府議を経て国会に当選せられた。以下同氏による父の回想文である。

私の生まれたのは石川県の高松町で、ここは衆議院の選挙では、石川県二区に当たる。この選挙区から、戦前長い間、桜井兵五郎先生が選出され、郷土のため、それなりの働きをしておられた。

私は大学は京都で、郷里の高松には、春休み、夏休み、正月休みのほか、よく帰省したものである。

帰省した私は、父や祖父と囲炉裏をかこんで、談笑するのが習慣になっていた。

父も祖父も政治談議が好きで、支持していた桜井兵五郎先生のは話をよくしたものでった。

父や祖父も政治には一見識をもっていおり、民政党の方が信頼できると言って、政友会には非協力な態度をとっていたようであった。

わが町は政争の激しい町で、選挙時になると、政友会の民政党の支持者が、真二つにわかれ凄まじい選挙運動が展開されたものである。

ある年の選挙に、私の家に夜中,石を投げ込んだ者があった。翌朝、親類の親爺がとんできて「石を投げたのは政友会の奴らだ」「お前の家は桜井兵五郎に肩入れすぎているからだ」

と大声を立てていたことを憶えている。

私は学生時代、応援団長をやっていて、時々演説をやらされたものである。ある年の選挙の時であった、私が郷里に帰省していたら、町長が私をたずねてきて「あんたは演説がうまいそうだが、桜井先生の応援員舌をいてほしい」と、かり出されて、河北郡内や羽咋郡内で演説をやったものである。

私はそれまで桜井先生を知ってはいたが、直接話し合ったことはなく、津幡町の会場で、あんたは高松町の小川さんか、と先生から話っけられ、それが縁となった、知り合うことになったのである。。実はその演説会場の弁士控え室で、私の演説を聴いていた桜井先生は「今の弁士は誰ですか、なかなか味のある演説をする人だね」と褒められておられたことを、後で関係者から聴き、其の時嬉しかったことを今でも憶えている。

その後私は、東京に出たときなど、国会の傍聴券をお願いしたりする程度で、余り深い交際はなかったが。

桜井先生が民政党の政調会長のとき、京都における政策研究会に出席され、私もそこに同席した。

私はそのころ京都市議で二十六才の若者であったが、許されて政策の一部を説明した、それがまた、桜井先生のお気に入りとなり、会議が終わった語、今日の政策を、東京の党本部にきて説明して下さらんか、と推めれれたり、かって先生の応援演説をした、あの津幡町のことなど懐かしげに話し合ったものである。

穏やかで、大向うを張るという永井柳太郎先生の演説とは対照的で、諄諄と巧みに話題を進めてゆく、即ち静かに聴かす演説をする人であった。

その後、何年間か交際は続いたが、やがて戦争は激しくなり、私は応召するなどで、二人の間は自然薄れてゆき、戦後私が衆議院議員となり、ご挨拶に伺うべく電話連絡したところ、ご病気とかで、そのまま失礼していた矢先き、先生のご逝去をしり、本願寺に詣でて冥福を祈ったものである。

 (筆者は衆議院議員当選十回、参議院議員当選一回、衆議院、参議院の両予算委員長、自民党全国組織委員長、同国民運動本部長)

 

 


田中伊三次氏よりの父の回想文

2008年03月25日 12時16分48秒 | 白雲楼

同氏は国務大臣、自治大臣法務大臣を歴任された。京都府出身で京都市議、京都付議を歴任昭和17年翼賛選挙で初当選されたがそのころの回想文を頂いた。

 

昭和17年私が最初に代議士になたとき、桜井兵五郎老先生は、政界の長老で、大所高所にたって国家百年の大計を思う大物だというう噂が、高かった。ある日、議員食堂で永井柳太郎先生とお二人で食事をしておられたかと思います。私は二人の大先生の横に席をとり「先生立派な政治家になるにはどんな修行が要りますか。」

「君は東条内閣の非すいせんでありながら、京都から最高点ででてきた田中君たったネ」「そうです。東条軍閥のやり方は、ひどいものでした。しかし、すんだことです。そんなことはどうでもよい。お二人の大先生私の質問に答えてください。」

「それは、君、ムツカシイことだよ。言ってきかせてもよいが、実行できるかな。」「必ず実行しますから、若い政治家を指導すると思って言ってください。」

「よし、それでは言ってやろう。一口で言えば何事も知っておれ。しかし、何事も言うな。ということだネ。」

「禅の問答のようでわかりにくいが、それはどういう意味ですか。」

「政界のできごとは至極複雑だが、一生懸命勉強して、財政は財政、金融は金融で、それぞれの専門館の意見にも注意を払い、筋を立てて、自分の判断をちゃんと持っていることが肝要だ。しかし、それを会議の席にでて、軽々に発言してはいけない。まづ、人のいううことをエリを正してきくことだ。そのうえで、何人もふれないことで、国家国民のため重要なことがもれているときは、そこで初めて発言する。一たび発言した上は、どんな反対があっても、自分の所見を押し通し、一歩も譲らぬという態度が無ければならない。」

「国家国民のため大切なことという点が、大事な点ですね。」

「そうだ執政の基本方針、財政、金融などいろいろな政界のできごとに価値判断をくわえる場合、決して党の立場や自分の立場で判断してはいけない。国家国民の利益という観点に立って、判断を加えることが大切なんだな。」

「よくわかりました。一生懸命に勉強して、教えていただいたことを堅く実行し、立派な政治家になりたいと思います。」

 

わたしは、代議士在職35年の及び、その間、一生懸命に勉強してまいりました。石橋内閣、岸閣で再び自治を担当、佐藤一次と二次、田中内閣で三たび法務を担当、入閣五度の及びましたが、右の教訓は、今なお私の胸中に生きております。このお二人のお話は桜井兵五郎老先生が中心でした。

昭和53年3月7日


母の8周忌(7)

2008年03月20日 07時05分08秒 | 白雲楼

私は一人身の母を引き取りたいと思っていたが、先のブログで述べた様に、戸籍上の母の妹井上きくが邪魔をして、迫水家に近づけなく工作をし、経済的に困窮させるべく私の勤務先等に色々工作をしていた最中であった。 

 香淳皇后が亡くなられたのは、2000年6月16日であった。葬儀に私は母がきっと来ていると思い葬儀に参列した。やはり母は皇族が退出した後、一人空席の中で一人座っていた。一人俯いて嗚咽しているように見えた。私は声を出して母の名を呼びたいい気持ちを抑えた。母は生きている、きっといつか会えると其の時思ったのである。母は貧乏旧貧乏華族に属したとはいえ、日本国家の皇室を守る為身を犠牲にしたのである。何故身を隠してまで私と会おうとしなかったのであろうか?これが国家に身を投げ出した者の運命なのだと、母はよく昔の私の小さい頃私に話してくれたものである。

私の父は能登の柳田村の出であるが、ここは天領であって、加賀藩は代官を置かないシステムをとっていたので、父の祖先は加賀藩の前田候に仕える刀研ぎ氏であったが、正宗の系列であったので将軍より、特別天領の柳田村の統治を許されたものである。

桜井梅室の系統であった。私が小さい頃は母が正宗に関わる話をしたものである。桜井梅室は二条家より俳諧の師匠としての称号をもらい、江戸時代は天下に名が響いていた。その関係で父の二条家との関係がうまれたのである。母との関係もここに発している。

 塚も動け我が泣き声は秋の風 

手にとらば消えん涙ぞ熱き秋の霜   芭蕉

ひと雫けふの命ぞ菊の露     梅室


母の8周忌(6)

2008年03月19日 07時45分00秒 | 白雲楼
戦前の政界で惑星と言われた小泉策太郎の屋敷を父は昭和14年に買い取った。同氏は鎌倉にも広大な屋敷を所有していたが、屋敷の中に川が流れ山が同じ敷地にあった。 この鎌倉の屋敷も父は同時に買い取ったのである。麻布広尾の土地は金沢の康楽寺に寄付をしたが、この鎌倉の広大な土地は、父の妻井上すずの母親の姉の養女となった、私の戸籍上の母の妹の井上きく名義になっていた。父は丁度戦犯容疑で鎌倉のこの屋敷内に米軍に軟禁された昭和20年12月10日に井上きく名義としてのである。 この土地も康楽寺名義としたかったのであるが、六本木ヒルズの敷地の決済が済まず、ここにあった寺の移動等の費用等の問題があったので、一応父の妻の母親の姉の養女の名義にしてあったのである。 父の妻すずは昭和18年に亡くなったが、その母親は戦後も健在で、この鎌倉の屋敷にその姉と一緒に住んでいたのである。本来なら父の戸籍には当時子供は誰もいなかったし、私が相続する事になるのであるが父の華生の祈願である康楽寺の費用にしたかったのである。 父の妻の親姉妹の住まいの必要から、井上きく名義にしたのであろう。その不動産は広島の古川と言いう人(麻布の父の屋敷の隣にあった明治屋の土地もこの古川という人が買い取りドイツ大使館に売却している)が売買して、処理することなっていたが、この井上きくという女はしたたか者で、その姉妹兄弟と図り父の財産の乗っ取りを図ったのである。 父が死去すると鎌倉のこの屋敷の近くに、400坪くらいの土地を井上きくの養母の名義で買ったのである。 六本木のお寺が移動する昭和37年に併せて、父の鎌倉の土地を細切れに売却し、本人は世田谷区若林に引っ越したのである。迫水家の近くに引越し、私の母と懇意な迫水万亀子氏に接近、用心深く色々ご機嫌をとったのである。 私の母は全て知っていたであろうから、将を射るならば馬をでは無いが迫水家の関心を買うように振舞ったのである。 六本木の土地は地元の業者に信託した形で、大変な財産であるが、これは全て父の生涯の祈願であった康楽寺の東京の別院を建てるためのものであった。 従って私が鈴木一氏の会った後迫水家を訪ねたときは、万亀子氏の妹がシャシャーとして私が万亀子本人だとのたまい、私の父のことは知らないと惚けたのである。その裏にはこの井上きくがいたのである。当時は迫水家の縁戚である瀬島龍三氏は、父と関係深かった安宅産業が崩壊し、安宅産業と伊藤忠との合併に奔走していた最中であったから、父と安宅産業との関係から、井上キクが迫水家を通して瀬島氏と関係が生じ働き掛けがあったものと推測される。つまり父の財産をねこばばするのに一連托生であった私の戸籍上の母姉妹兄弟は迫水家に働きかけたと考えられる。安宅産業と伊藤忠が合併したのは、昭和52年10月であり、丁度そのころ東京穀物取引所理事長の鈴木一氏に会ったのである。尚伊藤忠の創立者伊藤忠兵衛氏はカナ文字会の創立者の一人であり、父の主宰していた日本タイプと関係深く、また丸紅は日本タイプライターの大株主であった。その後、中曽根内閣の臨調で瀬島龍三氏が、土光敏夫氏の下で活躍し、土光氏に替わり会長代行として活躍したことは周知の通りである。