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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

遊 支 漫 遊 (四)

2008年05月07日 07時03分26秒 | 白雲楼
遊 支 漫 録 (四)
支那の社会階級ー前三回に亘って支那の経済方面の観察を述べたが、今回は社会方面の一端を述べて見たいと思う、それは支那の社会階級のことであるが、此点を少し極めて置かなければ支那に対する観察が往々にして誤りを生ずるからである、殊に政治方面に於いては此社会状態の日本なぞと異なる点を除外して観察したならばそは大なる誤りを生ずるのである、支那には社会階級が四つある上中下とそれに会匪という一階級があるのである、上は貴族中は資産家及び読書人、下は農工商人であって此の点まではわが国と同様である。然るに最後の会匪と云う一階級、之が即ち我が国なぞと異なる階級を有する点であって支那は之あるが為に、社会的疾患国家的衰弱状況に陥って居ると見えるのである、而して会匪なる者の本体は何であるかと云えば北に於いては馬賊、南に於いては可老会とか曰く何々会とか云う無職にして略奪を事とする土匪の階級である、支那に於いては此階級は却々数も多く
而も彼等の間一種の連絡があって相当の治世を見ることもあるも彼等の階級を根絶することは出来ないのである、一例を挙ぐれば南京とか安慶とか言う都会に彼等が公然甲板を出して運搬の取り扱いをなすのである、それは運搬の労務に服するの意味でなく彼等の此店に渡りを付ければ途中略奪に逢うことなく安全に物品が目的地に達すると云う意味である、彼等の立場よりすれえば途中手先を出して全部を略奪する代わりに申込者に対しては幾分の略奪を止めて後は保障し残すと云う結果になるのである、云わば国家として公然賊徒の組合を許している訳である。好んで之を許した訳ではないが如何なる時代もこれを根絶するが難しく自然に黙許せられている訳である。地方庁が中央に税金を送るにすらこの匪賊に亘りをつけて途中の安全を図るというに至って我我は唖然として謂うところを知らずと云う外はない。此匪賊のなかである者が勢力を得一地方を支配するに至れば従来中央政府は止む無く之に官職を授け之を抜擢の例が甚だ少なくない、現在の各督軍省長の中にも八九名は此会匪出身の者がある、現に奉天省兼督軍の張作霖、吉林猛恩遠、安徴の倪司仲等はそれである。馬賊会匪から督軍省長に憂国の至誠経世的抱負があろうか、尤もその土地は無学の者と雖もその人に自覚を与えることがある奉天の張作霖が始めて省長になったときに演説会に臨み、余は馬賊の出であって従来能く人の物を掠ったが省長になっ以上決して人の物はとらぬから安心して呉と誠を込めて演説をしたそうである之はその地位を得た場合に於ける一種の自覚である、会匪で必ずしも盗賊根性脱せずとは云わぬが、要するにその前身においた之等の経歴を有するものは督軍省長となるも概して自己本位である、節とか国家全般のこととか云う概念は頗る薄いようである、支那の政争を看て居ると南方か北方か分からない督軍或いは亦我我日本人の了解できない事柄が時々起こるが之は凡て国家観念の無い自己一点張りの勢力家が地方にあり中央は亦之を圧倒するの威力なく政略によって之を支配して行こうとする、即ち両者相俟って所謂戦国策で行こうとする是が我我日本人に時々了解出来ない事態の現わるる所以である、畢竟社会状態の相違より政治も亦斯くの如く奇現象を呈するのである、即ち社会を離れた政治はなく国民を離れた政治は現われ得ない、若し政治が悪ければそは一面国民の反映なりとして国民の反省すべき原理も此の間に看守し得られるのである、尤もこは社会と政治の関係を云ったものであって、経世家の任務抱負は之を独立して存在意義を有する、即ち国家乱れ社会衰えんとせば之を指導啓発すべき経世家の任務は愈々重きを加える訳であって之を社会の反映なりとして黙過するが如きは本来経世家の忍びざるところである国乱れ英雄出とは一面このことを立証するものであろう。
支那の善政ー支那人は能く善政を云う国民である善政だに得れば統治者の如き満人たり将た日本人たりとも選ばないとまで極言するものすらある、善政は彼等の唯一の目的であある併し彼等の所謂善政は比較的単純である、之を約言すれば、「第一階級が第四階級を圧迫して第二第三の階級を保護し之に幸福を与えることが善政である、第一階級の者が第四階級に対し誅求する之が即ち善政である、と云うので、現在南方孫派の如きは之を旗印としている所謂悪政である、第一階級が多く会匪出身者と結託し第二第三を圧迫する、即ち多数の領民を救済するのが我我の任務であるおと盛んに主張しておる、之は支那の現状に於いては誠に道理ある見解にして是非そうなけらばならぬが、第四階級者を全々政権外に駆逐するのは容易の業ではない、支那国内に此大業を成し遂げるもの無しとすれば,天は支那人以外の者に此大任を授けて、四億の創生を救済するの時期があるかも知れぬ。
支那人の合邦論ー支那人中日支の合邦論を唱えるものがある、其の要旨は日本と支那を合邦し亜細亜国を造り、日本の陛下を大天子と仰ぎ、支那は清朝を腹壁して清帝を小天使と仰ぎ、統治の大号令は凡て大天子より発し、小天子は支那に対して与えられたる権限内に於いて自治的に内部行政を支配すると云う議論である。この論者は宗社党に其の人ありと知られたる姚文操君である、晀君は宗社党中の時勢通で粛親王の参謀長格相当官歴もある人今は上海にありて隠然宗社党を牛耳っている、我輩は一日一行と離れ宗社党の名士を歴訪したが此姚君の議論は一寸驚いた、我輩は晀君に向ひ其の議論の当否は暫く別として支那人中貴下を除いて其の議論に賛成する人はあるまいと云うと、晀君不思議な面持にて之は驚いた言葉である、支那人中の識者でこの議論を唱える者は甚だ多い、故宣盛懐氏も持論として之を唱えた亦現支那の官吏にして公然文章を以ってこの議論を公にするものが甚だ少なくない、崋竟は之が実現せらるべき運命をもっていると答え、我輩の種々の質問に対し支那人は保守的であって能く内に盛業を楽しむが外に当たる事は不得手である、特に近世に於いて外交や戦争に勝ったことが無い、日本人は進取が特徴である故に軍事外交の事は日本人に担当してもらう方が幸福である、又漢人は自ら統治者を出した例は極めて少ない、歴史上の統治者は皆外より来たものであ現に清朝の如き長白山の麓より起こった外来のものである我我は統治者のの如何を問うよりも寧ろ善政が最後の目的である、殊に世界の大勢より察すれば亜細亜国を造って白人に蹂躙せれれざるの準備が最も必要である能く両国の運命と世界の大勢を察するところがなければならぬと、歴史を論じ世界の大勢を論じ熱心に主張して居ったのである、我輩はわが国人に之を伝える、人道の為に相提携してやろうじゃないかと云って熱き握手を交わして別れを告げたが實に支那人は面白い国民である。(未完)

遊 支 漫 録 (三)

2008年05月06日 18時26分55秒 | 白雲楼
遊 支 漫 録 (三)
支那の鉄-前にも一寸述べたたるが如く、支那の鉄鉱は殆ど無尽蔵と謂っても差し支えない、近世文明の要素は鐵と石炭そ称せられるが石炭は之に代ゆるに電力を以ってすりことも出来る、然しどうしても近世文化の因として無ければならぬものは鐵である。然るに我が国には不幸にして此鉄鉱が殆ど無い、陸中釜石に幾分産するだけで其の他挙げるべき程のものが無い政府は越後に於いて相当金をかけた筈であるが今日まで十分の成績を見ることが出来ない、故に従来は支那及び米国等より鉱石鉄板を輸入したのであるが昨年八月米国が鉄の輸出を禁じたため、忽ちわが国は鐵の不足を如何にするかと云う重大な問題を惹起したほどである、今日の器具機械の大部分は鐵から出来ている汽船汽車も鐵は無ければ出来ぬ、殊に軍艦を始め兵器の大部分も鐵である、故に一国として単に国防の一点のみより見るも鐵の自給独立がなければ軍器の独立は得がたく鐵が無ければ国の独立も難しいと云ふも過言ではないのである、然るに此大切な鉄がわが国に産せざるは前述の通りであるが、支那には澤山ある恐らくは世界無比であらふ、近頃我我のよく効く名前でも安山站、金鐵鎮、鳳凰山、大治と云ったようなわけであるが何れも何億屯と云う大鐵山である、其の中大治は最も古く開鑿以来約三十年を経過し従来我が枝光製鐵所に運ばれておる鉱石はこの大治の鉱石である、大治は湖北省大治県と言うところに在り漢口より揚子江を汽船で下る事役八十九時間ばかりにして河岸より十七八丁の処にある、我輩は此大治の鉱山を見るに及んで全く自分の鉱山観念を一変してしまったのである其の訳は自分等の観念として従来鉱山とは鉱脈が地中にあるもの従って発見採掘は容易ならぬもの小資本ではやれぬもの危険なものと謂ったような幾多の観念があったのであるが、大治の鐵山を見るに及んでこの観念が全く一変した、即ち鉱山も其の如くであれば素人でもすぐ分かる容易なもの小資本ですぐやれるものと云ったように変わった、と云うのは大治の鐵山は山其の物が悉く鐵である鐵の山へ少し土が残り雪のように掛かり鉱石の間に所々に大理石が幾分雑ざって居る丈けで他は悉く鐵である而も平均65%の鉱石である多いのは一塊の鉱石と採れば其のうち85%迄鐵と云われて居るが先ず平均65%と云うことになっている。我輩の見たのは雄獅子雌獅子、鉄山の三山であるが何れも七八百尺の富士山形の山である而して山の七八割が鉱石で残りニ三割が土と大理石である様に思った、故に採掘といっても単に壊し取り山の麓より汽車に積み十七八丁出れば揚子江で直ぐ船に積むと云う手順である恂に平凡簡単なものである、而して日本の売買契約による値段は一屯三円四十銭で枝光までの運賃が屯三円八十銭で計七円二十銭あれば既に枝光まで運ばれるのである、而して此鉱石ニ屯十四円四十銭あれば銑鉄裕に一屯は出来る精錬費は無論要する事であるが此銑鉄一屯が三百円内外を往来すると云うにいたって如何に利益は莫大であるか分かる、因みに云うがこの大治の付近にはまだ鉄山が澤山ある五百万屯千万屯位の山は処処珍しからぬとのことである、ある時も一邦人が例の名高き石壁の賦のある勝地を訪れ高地に登らんとし中腹に人家の石垣を見れば悉く鐵鉱石なるを発見し何れより取れるかを聞けば此上は悉く此石であると答えた依って更に高所にいたれば鉱石が各所に露出しておる約千萬屯位はあろうかと思ったとの話も聞いた、近来支那政府が鐵を国有にしようとの考えをおこしておるそこで
人民が鐵が国有になれば人民の所得にならぬ鉄山を売るのは今のときであるよく日本人が欲しがるから日本人に売ろうと云うので現に日本人の処に鉄山を売りにくる、千萬屯もある鉄山ならば先ず一万円の事を云ってくるが結局千円位にまけてしまうと云うことであった現に漢治祥がニ三年前に買った獅子山のすぐ前の露出しただけで四千万屯ある象鼻山とう云う山を七百円で買ったのは事実である
四千万屯あるば屯三円四十銭と見て一億三千六百万円であるがそれを七百円で買ったとは實に驚くの他はない、只山は斯く安く買えるが採掘権と得る事がはなはだ困難である省政府も中央政府も日本人及び日支合弁の者には容易に採掘を許さない、例を挙げれば彼の鳳凰山にして前も大倉組が百万円の金を貸して後採掘権をえようとしている日本政府も確かに手伝った形跡はあるが然し今日猶解決しないようである恐らくは行き掛かりとして難しいかもしれぬ、然らば日本人が鐵山を得る事が絶望かといえば決してそうではない大いに名案があるのである政府を担ぎ出したり表玄関から日本人を名乗ってたのもうでやって行くから難しくなり出来る相談も出来なくなってしまうと云うのは従来の経過である我輩は此の点に関して其実際方法及び法律関係も相当調査を遂げて来たつもりである、我が国のため又支那経済開発のため今後幾分の努力をしたいと思っている兎に角支那の鐵は湖南、湖北、江西
、安鐵、江蘇、山東に亘りこの間の距離は三千屯級の汽船で湖南の洞庭湖以下を下るとして五昼夜を費すと云う距離であるがこの間に亘り鐵の一大脈が起伏しているかと思われる位である即ち前記の各所各各所に於いて鉱山が発見せられるのである、然るに支那今日の経済力を以ってしてはとてもこの鉄山を開発する事は出来ぬ、支那にはよく利権回収熱と言うのがある時々朝野に此熱が昂進してくることがある、資本も無く国の統一すら難しい今日において鉄の国有にしようなどの考えは此熱が大分伝わって居る、日露戦争後も此熱が発作し来たって彼の白耳義のシンジケートが持っておった山西の石炭採掘権をニ百万円で買い戻した実例があるが併しその後石炭を支那自ら採掘して居るかといえば決してそうではなく地中に死滅したままで居る之を白耳義の資本にしろ開発しておったなら支那を益すろことも亦何幾であったかもしれない、現に揚子江沿岸地方に於いても石炭は沢山あるが之を採掘し亦之を運搬する交通機関を設備する費用即ち資本がない、故に自分の近くに石炭を埋蔵しながら日本の九州炭を持って行という現状である、従って船腹の関係上石炭は非常に高いものになっている漢口あたりでは石炭が高い為動力の高価なること驚くべきものがある、即ち電力にして一キロット十八銭(撫順では五厘、日本内地では七八銭位か)と聞いた、製造工業の上に及ぼす影響思いやられるものがある、故に支那人としてはどしどし日本の資本を入れて鉄なり石炭なりを掘削することが得策である排外熱の旺なるは経済的に文化的に盲目なる証拠であるが日本は先進国として之を指導啓発するの責務も亦ある訳である。(未完)

遊 支 漫 録 (ニ)

2008年05月05日 11時12分48秒 | 白雲楼
漫 支 漫 録 (ニ)
殖民の目的より看たる支那ー明治四三年頃であったか、時の外務大臣小村候が満韓移民集中の方針を

声明したことがある。時の政府は米国移民に全々いき詰まったから満韓殖民を唱えたか、或は満韓移

民集中をもって真に得策なりと信じたかは不明であるが当時の事情を察すれば恐らくは其の前者であ

ったと疑いなき事と思わるる、如何となれば爾来十有余年政府として該移民に力を用いる事極めて薄

く且つ幾何の成績を上げていない、こらは過去の事実であるが、しかし満韓移民は可能であるか支那

に移民を送る出来るか如何と云う問題は苟も過剰人口の処分帝国膨張の方向を考えるものの頭脳には

常に往来する問題である。余輩この度の旅行に於いても特に此の点に意を払ってみたが、結局結論に

おいて朝鮮の移民は或る程度は成功するがしかし之は高がしれたもの三十年が五十年の後に於いて精

々八百萬か千万以内が極度であるように思われる。満州支那は今日の却々移民が困難である。其の理

由の第一として彼の地が非常に労銀が安いことである、撫順の炭鉱へ行ってみると鉱夫及び下級事務

員が約二万人いるが其のうち一万七千人が支那人であって残り三千人が日本人である、日本人の賃金

が五十銭以上壱円ニ三十銭くらいであるが支那人の方は十五銭以上五十銭位までである。又支那内地

の労働者の賃金を見るに各省によって高低はあるが先ず平均して二十五戦乃至三十銭とすれば大差は

あるまいと思わるる之は工業に従事する不熟練労働者のことであるが農業労働者だけについて云えば

平均率がそれ以下である事は勿論のことである、賃金が安いだけ生活程度が低いのは誠とにに止むを

得ない次第である、北京あたりに於いてすら其の郊外に接する地方を見れば豚小屋同様の家に住み衣

は寒厚を凌ぐに足らず食は殆どニ三軒毎にるかを思わるる肉パンを売店に求める事で済ましているつ

まり自分で炊事場をもたないのである。余は一日漢口に於いて農民の生活状態視察を思い立ち同地に

在留する同窓の一人の案内を受け馬車を駆って漢口より三里余りの田舎見物に出かけた、道路の傍田

畑の間に存在する支那農民の家は朝鮮の如く一様にはあらずやはり上中下区別はあるようであるが、

中流にしてもわが国の下流には及ばず其の下流の者に至っては稍々大なる鳥小屋同様所々へ運搬出来

る竹やこもで組んだようなものであった現に途中を運搬している者をを見てあれは何かしらんと云え

ばあれは下級民の家だと云うことであった、此等の小屋の中を覗いてみればやはり夫婦もいれば子供

も住んでいる。此の辺即ち漢口から三里や四里の田舎ですら斯くの如くであった生活費は先ず一人三

銭くらいで足りると云う話であり更に四川のあるところでは生活費が一日一人七厘で足りると云う話

も聞いた。兎に角下級民の生活程度は驚くべき低度のものであって我が下級民が仮に向こうに行くと

するも入るべき土地は十分あるが今日の交通状態よりして現在日本にある生活状態を低位にするに非

らざれば生存競争が出来ない有様である加えるに満蒙古の場合に於いては気候上天然の圧迫がある、

故に我我日本の移民としては現在は前述の状態にて移民は六ケ敷将来交通及び社会状況が改良せられ

生活の向上する場合あいろするもその場合支那人自身の増殖が高まる故現在将来共に日本の下級移民

は不可能例外ありとするも大体に於いて不可能と断定するが至当を考えられた、現に撫順の例即ち純

然たる日本人の経営に属する事業の於いてすら賃金の関係は使用人ニ萬の内一万七千人の支那人を使

用すると云う事実に徴するも此の断定は必ずしも不当でないことが分かる。
 天恵多き支那ー余は前項に於いて支那下級の生活程度のいかにも低位なることを述べたがしかし此

れは支那の土地が悪い、物産がないという結論に到達しない、土地は肥沃にして広大なる鉱物を始め

各種天産物の豊富なる蓋し支那の如きは世界に多く其の類例を見ることが出来ないであろう。現に世

界の宝庫と称せられる単に一個の市場として見ても将来又天産物も埋蔵地として見ても二十世紀の世

界競争の中心と目せられるのは真に無理がないと思った天恵の多きこと蓋し日本など遠く及ぶところ

ではない、皮相の見者は単に禿山多くして森林の見るべき無く茫漠たる荒原を見て亡国の感を起こす

かもしれないが此れは全く皮相の見である。支那の山地は成る程満州を始めとして本部に於いても湖

南雲南等を除く外は禿山亦禿山であるが之が支那人があまり天恵に慣れ政府は林政の観念がなく人民

に将来子孫のことを廬るの念が欠乏していたが為である、今後大に林政を起こすならばどの位の良林

を得られるか想像に余りあるものがある、現に青島に於ける独逸の経営が之を証明している、又土地

が猶未耕に属し且つ農業も粗放にして肥料だに録々加えざるの一事に就いては支那人には支那人の見

るところと事情がある、即ち余の一友が或る支那人に対して「君の国は亡国である此広大なる土地を

耕すこともせず且つ作物に対しては肥料を施す事無く麦の如きはヒョロヒョロした有様ではないか、

全く亡国とは之等のことではないか」と云えば彼これに答えて否々亡国とは日本のことである自分が

日本に留学した頃の見聞だが日本において耕地は山の頂まで開かれ作物として肥料の与えざる無くあ

れ以上日本の農業に対して何らの余地も余裕も無い人口が増えても食物は他に仰ぐより外に道はある

まい
恂にに気の毒次第である、之に反して我我の国では猶開くべき耕地があり施す肥料を以ってすれば収

穫を今日之幾倍にする事も出来る今日の麦がヒョロヒョロしてこそ値があれ肥料を加え十分の発育を

加えせしむれば農産物過剰となり食物の値を失って只同様のならむとも限らぬ今日は之でよい程度で

あるが若し人口が増えれば御国と違い之を増加する事多々増々便ずる之大に興国の要素を含み居るも

のである」と語った、此一事は支那の農業が大に前途あるを示すにたる次第である、又余が北京より

漢口にいたる途中河南の南より湖北の間は田といえ畑といえ将た山地における樹木といえ全く日本と

変わらぬ其れに加えうるに動物としては豚の群が居る羊の群が居る水牛が各地の農耕に試用せられて

いる鶏は戸毎に数十羽見受けざるはなくこの時余は如何に天恵おおき国なるかと驚嘆の目を見張った

のである、更に鉱物に至っては近世文明の最大要素たる鐵と石炭は支那に於いては無尽蔵である、鐵

は大治を中心として西は湖南東は江西安徽江蘇山東に連なり一大脈が起伏せるかの如き徴象を現して

おる大治の如き現に計算し得る丈でも一億屯云われておる千万二千万屯級の山は前陳に属する地方に

於いて其の数知らずと称されておる、又石炭の如きは山西一省の埋蔵量以ってするも今日世界の需要

を充たしつつ数千年を支え得と言われて居るその他雲貴の銅、金、蒙古の鐵の如き枚挙に遑あらすで

ある。(未完)

遊 支 漫 録  衆議院議員 桜井兵五郎

2008年05月04日 12時58分18秒 | 白雲楼
遊支漫録   衆議院議員 桜井兵五郎
余は支那漫遊のため昨秋十月十一日大隈信常氏横山章氏頼母木関両代議士及び原文次郎氏と共に東京を発し同十一月二十二日東京に帰った。この間四十三日間通過するところは、朝鮮及び支那にて水陸合わせ六拾里を踏破した。短日間に於ける比較的長距離間の旅行故その速力はあたかも飛行機の滑走の如く従って観察するところも亦皮相の見たるを免れぬ。尤も彼の地に在る日本人で「支那は長く折れば折るほど解らなくなる。支那の真相は却って一寸覗いてすぐ帰る人が得られる」などと云う人もあるがこの言直ちに採って肯定すべきでないが、一面支那は研究すればするほど深く広く殆ど限りがない。寧ろ大観してして直感するが径捷であると云うことを意味することになるかも知れぬ。
若しこの意味からすれば吾吾の滑走中の観察もまた多少、正かうを得たものがあるかも知れぬ、兎に角短日間ではあうが通過するところの地域は支那の大陸部分でかつ万事が目新しいことだけに記述しようと思う事はいくもある、帰途京都加茂に行政学会主大谷氏を訪れたところ漫遊記を述を「地方行政」掲載するようにとの希望であった。余も政治経済社会の各般に亘り多少組織を立ててご紹介したいと思うが数字的の事程もあり之にはどうしても相当の時間を要する依って機宜の便法として単に脳に浮かび上び来たったものをとらえ、別に種別も立てず雑然と紹介致すつもりである組織的の議論は結論においてなし又改めて稿を記す事かも知れぬ。
 日本は小さいーー支那の大なる事は何人も之を知っておる。その面積は四百二十万八千三百五十二平方哩即ち日本の約三十倍にして全欧州に匹敵せすると称せら人口は本部拾八省だけで四億一千満人それに満蒙新疆及び西蔵を加ふるときは約四億三千萬である。
即ちこの点よりするも約日本の九倍ある。斯様なわけで支那の大きい事は何人も承知しておるが、さて一巡して上海まで来ると支那は大きいと云う観念は無く却って日本が小さくいかにも哀れな程小さく恰も豆の如く感ぜられる。よく外国など回った人がその珍しさをエンハサイズする為に突飛なことを言う人もあるが我輩はそうゆう意味ではない全く感じたことをありのまま紹介したいと心得るものである。
祖国のことを豆の如く小さいなどととは云いたくないが感覚を率直に云えば全くそうであるから仕方がないのである。尤も支那のことを大きいという観念がないと言ってもそれは上海に来た時の感想である。
始め朝鮮をへて満州に入った時如何にも大きく大陸的光景とは真に之だと思った。所謂日は滄海より出でて虞淵に没すで見渡すところ一目際崖がない、山又山の島国生活を唯一経験とする我輩としては如何にも壮快を覚えた。それより山海関を経て直隷に入り天津の洪水をみたときは成程支那の洪水とはこんなのもかと思った。同行者の一人は汽車は海の中を通って居ると言った、窓より覗いてみれば左右共に際限を知らざる水である、鉄道線路はその中を通って居る線路のそばには小さな船も浮いている。成る程海であると思った、しかしふと心に浮かんだのは海だと思った水のなかより所々大きな柳の木が現れておることである不思議と思って車掌やボーイに聞くとこれなんと
白河の洪水である天気は晴天續きであるが今後恐らくは一年くらいは引くまいとのこと、地域の直属の半分即ち日本本州くらいが浸水しているわけである日本の洪水のように大雨とともに駆けるが如く来たり逃げるが如く去るものと全く撰を異にしておる、これも大きく感じた一例である、北京の宮殿
萬壽山の偉観は後に述べるとして、北京より漢口にいたるの沿線即ち直隷湖北河南であるが、右方遥かに連峰は泰領山にして小西狭四川に境し左方即ち河南安徹山東江蘇の大平原に添う揚子江を漢口より下る三千トン級の汽船で四日を費やすを云うわけである以ってその大を想像することが出来る漢口の江岸に立って北の方北京を想えば広軌の最急でニ十余時間南の方広東を思えば殆ど北京に近き距離がある、東に上海道は汽船で四日日本の東京までは八日乃至九日の行程であるが、西の方四川の都、成都までは陸路二週間をようするとのことであった。即ち漢口より成都に行くか東京に行くかといえば東京の方が五日乃至六日早いという訳である。而して四川の西にはまだ西蔵とういう大なる土地がある。嗚呼支那なるかな支那なるかな。揚子江を下る時も一体これは河であるかいなか、海であるか嗚呼、と言って湖でもない、全く怪物だなーとおもった。夏の増水期と冬の減水期との水深の差が約五十尺上海より四川の入り口まで九百里の間三千トン級の船の汽船が通じその下流たる呉スンのあたりより対岸の望めば大洋の真平にあると同じく全く陸地が見えない、その水は濁水滔滔所謂百年河清を俟つの喩えの在る如く永久の濁水であってこの濁水の注ぐところ沿岸より約五十里の支那の形容詞として大の字の準備が尤も多くを要する次第であるが、これが不思議にも上海に来たって通過したる支那をふりかえればさほど大きいとは思わぬ。支那慣れるといううには少し早いが如何なる精神作用か支那か支那はさほどない之に反し日本は如何に小さく東の太洋の中に一小島を認めるに過ぎぬ、あんな小さいところへ能くも下千万人の人口が入ったものだと思われ更にこの土地が五十年前まで鎖国攘夷と称え外人は入れない、自分らも大きな船は国禁で外えは出ない小さく固まっていたかを思えば、誠に無量の感慨無きあたわずである。
支那の国民性は茫漠たるところにあるに反し日本の国民性は小さく固く迫ったところあるは蓋し土地の自然感化で止む無きことなからんかとも思われた。、口には立憲政治を高唱し、人民自覚の政治を云為すすれど、実は未だ官尊民卑で奴隷的根性は取れない。兎に角我々日本人たるもの小さく固くなった島国根性を離脱し世界を家とするの概がなければ真の東洋の盟主となり東西文化の調和を果たす使命を遂げることは出来ない。
 青島の快晴ーー青島は山東の突角に近き膠州湾内にある天然の良港であるが1897年独逸は之を支那より租借して東洋に於ける彼の根拠地のなしたことは何人でも知っている、爾来十七年一昨年日本がこれを占有するまで独逸の桔据経営至らざるなく東洋無比の清潔なる小タウンとなし我我の乗れる榊丸埠頭に付いた時一行の関が嗚呼これは支那ではなく全く欧羅巴の都会じゃ三度目の洋行する気分がするなどと言った。いかにも街に設計せられたる整った西洋建築の都会で道路のごとき悉くアスハルトを敷き秋の晴天續きに自動車で飛ばしても塵ひとつたたないという有様である。一行は本郷司令官の招待でもとワルデック総督の居たという官舎即ち今の本郷司令官の官舎に行ったが青島の市街を眼下に見る丘上に於ける実に心理よき西洋館で建築費が二百万とか聞いた。僅僅一総督の官舎に二百万を投ずる独逸であるから青島植民地の経営振りは推して知れれる訳で、所謂支那式の木の無い焼山を植林して青島一帯の地を満目緑となし市街を中心として付近の連山は悉く自動車道路を有する公園につくられてある、極東の果てに来たってこの植民地の経営振りをなし欧州人はえらいものだ日本は植民地に金もかけずに只東洋の盟主だと威張りたがる傾きが在る。それは兎に角、一行は総督の官舎を出て程近き測候所の高台の昇り膠州湾一帯の地を眺めそれより再び自動車と飛ばして所謂公園に作られたる付近連山に登り砲台を訪れ、次に海岸に出たが大きな人の住んでいない大ホテルがある、聞けば之は夏のホテルで夏はこの地の東洋一の避暑地として上海香港あたりより遠く南洋に於ける西洋人の集まり来るとのことであった。夏の青島は以上の如くだが、この地秋の快晴は又格別で山高く気清く実になんともいえぬ、自分は内地で経験した事の無い快晴の中に云うべからざる快感を覚えここならば永久に住んでも良いとの感じを起こした故郷忘し難き日本人たる我輩にのこの感があったのである.(未完)

日本タイプ内南方経済研究所設立

2008年04月19日 15時43分06秒 | 白雲楼
北進論の中心満州 朝鮮 モンゴル 特に満州には満州日本タイプを設立、中国語タイプなども製造、朝鮮では鉱山を主として農産物、海産物の商社等を現地で設立、鉱山は金鉱であった。 日本国内においても鉱山を数箇所所有しており、金の生産をおこなっていた。
アメリカとの貿易が厳しくなっていた当時、金はスイスの国立銀行によって対欧州との決済にしようされたのである。
その中継地点がタイ国の中央銀行であり、そこから中立国スイスやせーデンの国立銀行に運ばれ、戦争中から戦後にかけて対外決済に使用された。
特に南進論者の父にとっては、泰国親善は日本を守る上で欠くべからざる国であった。
北進論では国際金融はどうしても困難であった。
南方調査研究所は昭和9年頃毎日新聞から調査室長とした加藤正男氏 深江彦市氏 阿子島俊治氏を政界からは桜内義雄氏を擁して、年間の費用は600万円であった。
南方の資源調査は主体であったと思われるが、毎日から来た加藤氏は英国通でありタイ、ビルマを通じての外交ルートの確保であったろう。
戦争が始まると父は国内では活躍の場がなくなり、政敵が東条をバックに圧力を掛け
父はビルマの軍政顧問に転出する。そのとき父は新任官となり、海軍少将の肩書きを得た。
東条内閣と対立した父は米内海軍大将ら組んで、倒閣運動を起こすが、其れはビルマから帰ってきた昭和18年の後半からである。
この暮れに大東亜会議が開かれ、アジアの盟主が東京に集まり、大東亜の結束を誓い合うのであるが、父はビルマに帰る前、国策研究会 矢次一夫氏と新橋の料亭で話し合いを行うが、その時二人ともフグに当たり入院する結果となった。
それでビルマえの出発に間に合わず、小川郷太郎氏がビルマに派遣されたのである。
そのご父や矢次一夫氏や米内正光氏等五六人が度々会合を重ね、東条内閣を倒閣に導くのである。その中に藤山愛一郎氏が若手で一人いた。
皆決死の覚悟であった事はその写真を見れば分かる。唯若い藤山氏がいたのはその場で何か不釣合いであった。
これは藤山氏が場所を提供したからである。
戦後藤山氏は政界で活躍されたが、事務機等はすべて日本タイプのご指名であった。
唯残念なのは父の代わりにビルマに派遣された小川郷太郎氏はビルマから帰国の際、アメリカ軍の協定違反の砲撃で船が撃沈され亡くなったことである。
日本タイプの社員も数名乗船したいたようである。ご冥福をお祈りする。