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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

Aveiroの美しいゴンドラ、「モリセイロ=Moliceiro」

2019-04-22 15:40:24 | ポルトガル旅行
2019年4月22日

ポルトから車で走ること小一時間、運河が街の真ん中を流れるアベイロは水の都と呼ばれる。



運河を行くアベイロのカラフルなBarco Moliceiro(=バルコ・モリセイロ)は、単にモリセイロとも呼び、ポルトガル中央を流れるヴォーガ川(Rio Vouga)が注ぎ込むアヴェイロ市の入り江を周遊する小船のことで、アヴェイロのシンボルのひとつに数えられる。



モリセイロは元々田畑を肥沃にする肥料として使用された入り江の海草molico=モリーソ (molicoの「c」の下にはcedilhaと呼ばれるニョロ記号がつく)をすくい集め、その運送に使われていた。「モリセイロ舟」はこのモリーソ=海草を語源とする。

しかし、川の汚染により肥料としての海草は徐々に消滅し、現在モリセイロはアヴェイロ市内を流れる運河に浮かび、ツーリストを乗せる観光用になっている。
               
モリセイロについてちょっとご案内をば。

下のアズレージュ(=azulejo=青タイル絵)に見られるように、海草を船にすくい上げ易くするため船べりが低くなっている。


船体の全長はおよそ15メートルで木材は杉。耐久年数は12年と言われる。

下は現在は見られない、Moriceiroと呼ばれた海草取りを職業とした人。肩には海草をすくう大型の「くまで」を担いでいる。


モリセイロのもうひとつの特徴

美しく彩られた船首と船尾を注意して見ると、実はなかなかに面白い絵が描かれている。モリセイロのもう一つの特徴といえるのが日常生活のちょっとした出来事を風刺してみたり、隠語を使ったりした下記の絵です。



上のモリセイロの一つを拡大してみました↓

「Deferente na Cor, Iguais no Amor」(肌の色の違い、愛の平等)


Abre-me a porta de teu Jardim(お前の庭の戸を開けておくれよ)


A voz de Portugal
(ポルトガルの歌声。ご存知ファドの女王アマリア・ロドリゲス)


A alma Lusitana(ルジターナ精神。Lusitanaはポルトガルの古称。「os Lusíadas」は16世紀のポルトガルの片目の国民詩人「ルイス・ド・カモインス」によって書かれた膨大な叙事詩集。


O sutomovel do meu Avo(オレのじっちゃんの車)

ゴンドラに乗らずとも、描かれてある絵を楽しむのもいい。





復活祭に思うつれづれ

2019-04-20 10:11:52 | 日記
2019年4月20日 

国民の大半がカトリック信者だったポルトガルですが、それも時代の流れで変わりました。そのひとつに、わたしがポルトガルに来た当時は離婚が認められていなかったのが、してもよろしいということに法律が変わったことです。神の前で誓った結婚は最後まで添い遂げる、実生活がそうでなくとも紙面上はそうなっていた人が多くいたようです。

わたしの実体験から宗教面での変化がはっきり見えたのは、補習校の講師をしていた頃です。

補習校はポルトの地元小学校の一部を毎土曜日に借りるのですが、ある日、あれ?と気づいたことがありました。それは、教室の大きな黒板の真上に見られていた小さなキリスト像が撤去されていたことでした。国の大きな変化はこうして教育面から変えられて行くのだと言うのを実感した出来事でした。

そして、近頃感じるその手の変化はと言うと、これまでの宗教祝日が国政のトップによって突然その年は休日にならなかったりすることです。

さて、このように変化しつつあるポルトガルですが、クリスマス、復活祭を祝うのは欧米諸国と同じく今のところ健在です。

この時期はテレビでは聖書がらみの映画、「ベン・ハー」「十戒」「聖衣」「ー偉大な生涯の物語」など、たくさん放映されてきましたが、ここ数年その本数がかなり減りました。これも時代を反映しているのでしょう。

わたしはクリスチャンではありませんが、聖書に基づく物語はスケールが大きくて、現代に通ずるものが随所に織り込まれているように思われ、興味があります。これらの物語は古代史を考察する上でも興味深い点がたくさんあると思います。

好きな本や映画は何度繰り返しても飽きない性質です。素晴らしい場面は感動を呼び覚まし、随所随所で語られる言葉は、乾いた大地に染み込む清水のようです。クリスチャニティを持たないわたしにすらこのような思いを抱かせる聖書の物語は、やはり偉大であると言わざるをえません。

ポルトガルは聖木曜日から明日の日曜日まで復活祭の週ですが、復活祭に因んで今日はわたしが調べたことをここで取り上げてみたいと思います。

「過ぎ越しの祭り」を知っているでしょうか。これは、旧約聖書を読んだことのある人なら、旧約聖書の出エジプト記に記されている出来事だと分かるでしょう。現代に至ってユダヤ民族が受け継いでいる祭りです。

エジプトのファラオの元で奴隷として扱われていたイスラエル人を、モーゼが奴隷状態から開放するよう、ファラオに願いでるのですが、王はこれを聞き入れません。モーゼは、神の導きによりエジプトに10の災いを施します。最後の災いが「人や家畜などの長子を死に導く災い」です。

この時、神の指示により、イスラエル人の家は子羊の血を「家の柱と鴨居」塗ります。(←日本の神道の赤い鳥居と重なるとの説を読んだことがある) この疫病(ビールスや病原菌)はこうして闇の中、赤い印のあるイスラエル人の家は過ぎこされるのです。

ファラオの長子もこれで死にます。哀しみに打ちひしがれたファラオはついに、イスラエル人がエジプトを出ることを認め、この後、映画「十戒」でもあるように、出エジプト記の山場「紅海」が真っ二つに割れて海を渡るのです。

ユダヤ民族の「過ぎ越しの祭り」はこの故事に由来し、モーゼと共に果たした出エジプト・「Exodus=奴隷から開放され約束の地までの40年間の長い旅」を記念して、3000年もの昔から祝ってきたのだそうです。この時期はイースト菌を入れないで焼いたパンを食べるのが慣わしです。

この由来からして、イースター、復活祭と言うのはキリストの復活を祝うだけではない、ということがわかります。キリストが生まれるそれ以前にユダヤの人々の間では「過ぎ越しの祭り=pessah=ぺサハ」として、この時期は祝されて来たことになります。

イエスは、木曜日の最後の晩餐後、彼の12使徒の一人、ユダの裏切りにあい十字架の刑を受け、復活します。こうしてキリスト教でもこの時期はイースター=キリストの復活として、受け継がれて来ました。

余談になりますが、2006年に米国ナショナル・ジオグラフィック協会が、エジプトの砂漠の洞窟で1978年に発見された、約1700年前のパピルス文書が修復されたと発表。この写本は、イエスやユダの死後100年ほどしてから書かれたものだそうです。

12使徒の一人でありながら、銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切ったと言われる、イスカリオテのユダは現在でも裏切り者の代名詞です。それが、この写本では、ユダがしたことは全てイエスの指示に従ったことであり、この役割を任命されたユダは弟子達の中でも特別な地位にあった証拠だと書かれてあるそうです。

それが真実だとすれば、では、いったい誰がユダヤ人のユダを裏切り者と仕立て上げ、2000年もの昔から現在に至るまで、陰謀を計ったのか。これには政治が関係してくるのでしょうか。古今東西、宗教と政治が切り離せないとはよく言ったものです。

こうしてみると、歴史は人間の手によっていろいろに捏造されている部分があります。「イースター」一つを取って調べても分かるのですが、思うに、人間の歴史は昨日今日にできたものではなく、遡れば遥かな古代文明にさえ行き着くのです。

故に、長い歴史があるものは、有形無形に拘わらず宗教思想の違いを超えて、人類の歴史遺産として残していくべきではないかと思うのですが。

中近東の紛争で破壊される歴史的遺跡をテレビニュースで見るにつけ、思わず「ばっかだねぇ、何もかも破壊しちゃって・・・」と残念至極に思っているのは、わたしばかりではありますまい。

というところで、ただ今から、2013年に製作された「The Bible」をみます。英語版ですが、ポルトガル人俳優Diogo Morgadoが主役でイエス・キリストを演じています。夫は向かいのカフェへサッカーを観に。どっちがポルトガル人なんだか(笑)

2018.3月記

復活祭:カステラのルーツ

2019-04-18 11:35:08 | レストランと食べ物
2019年4月18日

ポルトガルは聖木曜日の今日から日曜日(ところによっては月曜日)まで復活祭休暇になります。

復活祭に乗じて、今日はポルトガルでこの時期によく見かけられる「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキについてです。

日本語の外来語には多くのポルトガル語が見られます。カルタ、メリヤス、ボタン、コップ、パン、カッパ、キャラメル、テンプラ、ビロード、タバコ、金平糖と身近にある言葉でもこんなにたくさん挙げることができます。

この中には、語源から離れてほとんど日本語として一人歩きし定着したものもあります。例えばメリヤスがそうです。メリヤスはmeiasが語源でmeia=靴下の複数です。当時の靴下のポルトガル語がそのままメリヤスという生地名になったのでしょうか。

テンプラは日本では揚げ物を意味しますが、ポルトガル語のtemperarは、肉をやいたり、魚を料理したりするときに、塩、胡椒、レモンなどで「下ごしらえをする」という意味です。

少し面白いところですと、京都の花街「先斗町=ぽんとちょう」はどうでしょう。この名の由来の説は、オランダ語、ポルトガル語、英語が語源だと別れていますが、ポルトガル語のponto(=地点、終わり)が有力説だそうです。

厚かましくわたしの説を述べますと、もしかしてポルトガル語の「ponte」(=橋)」は関係ないか?です。

先斗町の側あたりは高瀬川が流れており、三條小橋 、 大黒橋 、材木橋を始め小さな橋がたくさんかかっています。橋がたくさんある花街で「ポント町」、という意味も考えられるのではないでしょうか。

さて、本題です。
南蛮菓子の「カステラ」がポルトガルから伝わったということは、あまねく知られるところです。フランシスコ・ザビエルを代表とするスペイン、ポルトガルの宣教師たちが日本にもたらしたと言われます。ところが、「カステラ」というお菓子、ケーキはポルトガルにないのです。こはいかに?

ポルトガル語にあるcastelaは強いて言えば、ポルトガルが独立する以前のイベリア半島北部、今のスペインにあったカスティーリャ王国castelaを指します。カスティーリャ王国は、キリスト教徒によるレコンキスタ運動、つまり、イベリア半島をアラブ人からキリスト教徒の手に奪回する戦いを推し進める主導国であり、後のスペイン国の中心になりました。

子どもたちが小さい頃、家族旅行で、アルタミラ洞窟画を見るために、スペイン北部にあるカンタブリア海に面したサンタンデールへ行く途中で、カスティーリャ地方を通ったことがあります。

その時に一泊した小さな町の店先で見かけたケーキが、色は濃い黄色だったものの、形も長崎のカステラそっくりでした。その地方の名前からして、もしかしたら、これが日本でいうカステラの出所ではないか?と思ったものです。

歴史を紐解けば、かつてはイベリア半島の南半分はイスラム教徒に支配されていました。ポルトガルも北部のギマラインスやポルトを中心とする「portucalense=ポルトカレンス」と呼ばれる伯爵領土にすぎない時代でした。

ポルトカレンスの貴族たちが、隣接する大国のレオン王国やカスティーリャ王国の姫君たちと政略結婚しないはずはありません。
カスティーリャ王国のお姫様がポルトカレンスに嫁いで来たときに、きっと料理やお菓子も一緒に持ち込んだことでしょう。カスティーリャのパン、pão de Castelaがやがて庶民の間の浸透し、形を変えて「パン・デ・ロ」のポルトガルのお菓子になり、定着した、という説。


日本のカステラによく似た、ポルトガル、アロウカ地方のパォン・デ・ロ

もうひとつの説は、日本に浸透しているものと形は違いますが、16世紀にポルトガル北部の修道院を発祥の地とする「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキです。


パォン・デ・ロ。真ん中に穴が開いている。直径26cm、高さ6cm。直径40cmのも中にはある。

「パォン」はパン、「ロ」は柔らかい絹織物のことで、焼き上がりのふわふわした感じを薄い絹の布地に例えて名づけられたと言います。パォン・デ・ロは小麦粉と砂糖、卵のみで作られますが、日本人にこのケーキの作り方を教えるときに、「卵白をお城のように高く十分に泡立てる」という意味で使った「encastelar(エンカステラール)」が語源に因む説が有力です。

もうひとつ、発祥がドイツ人の”Ló”という菓子屋が作ったという説です。
Lóという名前は、旧約聖書にも見られる名前「ロト」のドイツ語、ポルトガル語です。 ソドムとゴモラの町を神が滅ぼすときに、信心深いロトの家族に町をでるように、そして、決して後ろをふりむいてはならぬと伝えますが、ロトの妻は見たい欲望に逆らいきれず、とうとう後ろを振り向いたところが、一瞬にして塩の柱になったという有名な話がロトの物語です。

ドイツ系の貴族家系、ハプススブルグ家は16世紀には、強大な勢力を誇り、スペインを含むヨーロッパを手中に収め、皇帝の家系になりました。16世紀、ハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝、カール5世は、スペイン国王カルロス1世です。「ドイツのロト」が作ったケーキは、ハプスブルグ家とともにスペインへ、ポルトガルへと渡ったといいうのはどうでしょう。


17世紀の女流画家、ジョゼファ・デ・オビドスによって描かれた絵の中にカステラが見られる。

パォン・デ・ロ(pão de ló)は、かつては貴族や裕福な宗教関係者が口にし、庶民はイースターやクリスマスにのみ食べた贅沢なお菓子でしたが、現在では多種多様、大衆的なケーキになり、年中ケーキ屋の店先でみられます。
また、ポルトのダウンタウンにはパォン・デ・ロ専門の老舗「Casa de Ló(カーザ・デ・ロ)」がありますが、そこでは年お茶、赤ワインとともにで店内でそれを食べることもできます。


黄金の国ジパングを目指し、2年半の大航海を経て日本に渡来、秀吉も献上されたものを大いに喜んだとされるカステラ。ポルトガルからアフリカ、アジアへと通じた航路は、シルクロードを倣えば、さしずめ「カステラロード」と呼ぶことができますね。カステラロード航路に入る東南アジアでも、パォン・デ・ロ(pão de ló)の変化したものが見られるような気がします。



アルヴァリーニュ・ワインの里: ブレジョエイラ宮殿

2019-04-17 08:54:42 | ポルトガル旅行
2019年4月17日

2000年前にフェニキアやカルタゴからワイン文化が伝えられたポルトガルは、ヨーロッパでも最も古いワイン生産の歴史をもつ国のひとつである。食前食後酒として親しまれるポートワインはつとに有名だが、スペインとの国境にある北部、ミーニュ地方で生産されるテーブルワイン、ヴィーニュ・ヴェルデ(=Vinho Verde 緑のワインの意味)も人気がある。

熟す直前に収穫される葡萄から造られ、瓶詰めされてから1年が賞味期間である。中でも多くのファンを持つ銘柄「アルヴァリーニュ」はモンサォン(Monção)一帯で栽培される独特の葡萄を用いる。

アルコール度数は11.5から14%、透明感がありフルーツの香りがするフレッシュなワインだ。通常のヴィーニュ・ヴェルデと違い、賞味期間が長い。特にモンサォンのブレジョエイラ宮殿のものがよく知られている。



美しい前庭、農園の30ヘクタールからなるネオクラシック様式の宮殿は19世紀初期に建てられた。館主は2016年まで館の敷地に住み96歳で亡くなった ドナ・マリア・パエス(dona Maria Paes)という女性だ。13歳の時に父親から「お前の家の鍵だよ」と手渡されたのが宮殿の鍵だったと言う。



当時、この農園で生産されていたのは赤ワインだったのを、1964年にアルバリーニュ葡萄を仕込み、国内で最初にその葡萄を栽培したのがこの女主人だった。「アルヴァリーニュワインなら、ブレジョエイラ」と今日の銘酒に挙げられるまでになったのは彼女の功績だ。



ガイド付きで40分ほどの散策後、農園内のティーハウスで口にするアルヴァリーニュ・ワインは最高だ。

毎日が日本語英語ポルトガル語第4話:日本語英語仕入れプロローグ

2019-04-15 14:37:10 | 毎日が日本語英語ポルトガル語
毎日が日本語英語ポルトガル語第4話:日本語英語仕入れプロローグ


人口約22万(2016年)のポルトには、わたしが来た40年前の1980年代と比べてど大きな違いが幾つかある。40年も経てば、人も変わるし都市も変わります。

現在ではポルトも周辺の11市を併せてGrand Porto、つまりポルト都市圏と呼ばれるようになりました。11市というのは、ポルトを始め、Vila Nova de Gaia, Matosinhos, Maia, Espinho, Gondomar, Póvoa de Verzim, Trofa, Santo Tirso, Valongo, Vila de Condeで、この都市圏での人口は約160万人と言われます。


ポルトの街を縫う路面電車

かつての商店街は土曜日の午後と日曜日祝日はどこもかしこも閉まっていました。本当に一軒も開いてるところはありませんでした。7、8月ともなるとあちこちの店も2週間から一ヶ月の夏季休暇に入り閉店であります。

スーパーマーケットもほとんどなかったので、食品の買い出しは、各曜日ごとにどこかで開かれる「火曜市」とか「水曜市」で買い物をするのである。ポルトガル語ではこの手の市をFeira(フェイラ)と言います。

この「市」がわたしは苦手でした。なぜかと言うと、スーパーマーケットと違い、ほとんどの売り物に値段が示されていないのです。よって、交渉して買うことになるのですが、値切った経験などないわたしは、なぜかは知らねど、恥ずかしくて、とてもできることではなかったのです。それは今に至っても同様。どんな所どんな時でも書かれてある、あるいは言われた値段を値切ることはしません。

そんなわけで、市での食品買い出しはもっぱら同居していた夫の母や叔母たちに任せたきりでした。とは言うものの、本当を言えば義母の台所であるからして、わたしは極力手を出さないように心がけたのではあります。。昔から言うではないですか、一つ屋根の下に主婦は二人は要らない、とね。二人いるととかく問題が起こるのであるからして(笑)

それが、1986年、ポルトガルがEC(European Community。現在のEUの前身)に加入した頃から、あれよあれよと言う間に、市内にはファッショナブルなショッピングセンターが数箇所お目見えし、そのうち、地階にハイパーマーケットを構えて上階はファッションショップとファーストフードショップがズラリと立ち並ぶ外資系の大手のショッピングセンターが、郊外に現れ始めました。

映画も、それまではダウンタウンの映画館に行っていたのが、このショッピングセンターへ行くと、映画館ならず、「映画室」が10室近くあり、自分の観たい映画を上映する部屋に入るという具合になりました。

これらの大手のショッピングセンターは、土日祝日でも開いていて、この小さな街の市内郊外に、知っているのだけでも9軒はあります。そのうち更にスペインのデパート「El Corte Englês」がオープンされました。

ヨーロッパ共同体はご存知のように国境がなくなり、物質流通は自由。世界中のブランド品が、お金さえあれば、ポルトでいながらにして手に入れることができる時代になったのす。

中身の程は知りませんが、ポルトガルも都市を見る限りは、生活は80年代に比べると随分便利に、そして豊かになったように見える。

しかし、人間とは不思議な生き物です。これまで手間暇かかってきた事物が改善され、便利になった途端に、自由な時間を楽しむどころか、更に輪をかけて、己を忙しい生活に追い込むようです。

ですから、わたしがこれから述べて行く、我が子たちの「日本語教育」法は、もしかしたら、多忙な現代の方たちには、さっぱり役立たないかも知れませんが、何かのヒントになれば嬉しいと思います。

ポルトガルに来た当時のわたしは、少し英語が理解できるくらい。ポルトガル語の理解力は皆無でした。
今のようにポルト大学での外国人向け・ポルトガル語コースもなく、市内にある語学学校でのポルトガル語コースは個人レッスンのみで、とても個人で払えるような授業料ではありませんでした。

これがわたしの状況でしたから、仕事など探すにも探しようもなく、舞い込んでくるはずもなし。息子が生まれた時、仕事もお金もなかったけれど、「時間」だけはイヤというほどたっぷりあったのでした。

日本にいたときは手にしたことがなかったレース編み、毛糸編みの針を持ち、ひたすら本とにらめっこして、編み物に挑戦したのはそれゆえです。当時のポルトガル女性は家で時間をみては編み物をせっせとしていましたし、どこへ出かけるにも編み物はバッグの中に忍び込ませ、バスの中、病院での順番が来るまでの待ち時間に、編み物をする女性の姿が見られるのは普通でした。

ですから、同居していた義母も夫の叔母もその通りで、教えを請えばよいものを、わたしはそれをせず、独学の方法を採ったのです。可愛くない嫁ではありましたね。けれど、最初は不ぞろいだった網目も、何枚も作っていくうちに目が揃い、テーブル用、ベッドカバーなどの大きなものができるようになり、果ては、子どもたちが幼児期に来たセーターのほとんどは、わたしの手編みになるというところまで、腕をあげました。

このような環境にいたことをお含みいただき、さて、今日の本題に。

息子の学校の選択については、「やりくりして、なんとか頑張ってみよう」と、最終的には夫が折れ、Oporto British School のPrep(プレップ。小学1年への準備幼稚園クラス)に送ろうということになりました。わたしはこの時、夫をいかに説得するかの方法を発見したのであります。うふふ。

以後、かなり難しいことでも、夫はいつの間にか、こちらの陣地に引きずりこまれてウンと言わざるを得なくなるというこの方法は、娘の日本行きにも効をなしたと思います。

ということで、いよいよ次回は、どのようにして、息子と二人三脚、日本語英語を仕入れていったかを綴ります。