ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

抵抗の歌人Zeca Afonso

2019-04-26 12:28:52 | ポルトガルよもやま話
2019年4月26日

昨日に引き続き、1974年4月25日のポルトガル無血革命について。

別名を「カーネーション革命(Revolução dos Cravos=Cravosはカーネーションのこと)」とするこの無血革命は、1974年にヨーロッパでも最も長かった独裁政治を終わらせた軍事クーデターです。わたしがポルトに来たのは1979年の春でしたから、ポルトガルが独裁政権から自由を奪回してまだたった5年しか経っていなかったことになります。

当時のポルトを振り返れば、町全体が薄汚れた感が否めず、好きな人の国とは言え、「大変なところに来ちゃったなぁ」との索莫とした思いを抱いたのが正直なところです。

近所の年端もいかぬ子供の口から、野良犬を相手に棒っきれを振り回しながら「ファシスタ!ファシスタ!」と言う言葉が聞かれたのには、ギョッとしたものです。その野良犬は後にわたしの愛犬になるというオチがあるのですが(笑)

数年前に日本からやってきた甥をコインブラ大学に案内した際、昔のままの姿を残す大学周辺の細い路地に並ぶ下宿屋通りを散策しました。その折に一軒の下宿屋の外壁に、人の顔の青タイル絵がはめ込まれているのを見つけました。 「Zeca Afonso、大学生時代にここに下宿」と書かれてありました。カーネーション革命に彼の名は欠かせないのです。



本名はJose Manuel Cerqueira Afonso dos Santosですが、Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られます。

幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モサンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育ちました。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわる音楽を自作し、後にAlcobaça(アルコバッサ)の高校でフランス語と歴史の教師を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多く自作して歌い、この頃からサラザール独裁政権に対する反ファシスト地下運動のシンボルとなって行きます。

やがて、Zecaの歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセルされ、投獄されます。その名前も検閲にひっかかるようになり、そのため「Esoj Osnofa」というアナグラムを使ったり、レコーディングをフランスやロンドンでしたりしますが、この間、共産党入党に招待されているが、断っています。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催されたZeca を始めその他多くのミュージシャン共演コンサートの最終幕で、彼の歌、 「Grandla ,Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われましたが、この時会場には密かに準備されていた4月革命のMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」として、この「Grandla 」の歌を選んだと言われます。
  
註:Grândla =グランドラは南部アレンテージュ地方にある小さな町の名前。Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っている。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジオで流され、それを合図に革命は静かに始まりました。約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândla 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのです。

4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンのアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り=息子のアパートがかつてあったこところ)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていました。以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルとなったと言う訳です。

Zecaは1983年、かつて追われた教師の職を再認定され復帰しています。この年にはその功労をねぎらう行賞が与えられたが辞退し、1987年2月23日Setubal(セトゥーバル)にて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通り真っ赤な旗で覆われました。



享年58才、どんな党への所属なく勲章なく、ポルトガルの自由を夢見、歌を武器に闘った抵抗の歌人です。

思想の右、左関係なく、貧しくとも自由のある生活をわたしは望みます。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。書物を選び読みすることができる自由。枠にとらわれず自己表現ができる自由。国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今、空気のごとく全身で吸っているのですが、ポルトガルがわずか40年ほど前は言論の自由がない国だったとは思えないほど、今日ではそれは歴史の一部になりました。秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代をわたしは知りませんが、おぞましい社会であったろうことを想像してみることはできます。

ポルトガルのカーネーション革命は、サラザール独裁政権からの民主主義無血革命であり、現在ポルトガルは中道左派政権の国ですが、ポルトガルの王位請求者は、ポルトガル王家の末裔ドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサ公です。

歴史を紐解けば、フランス革命、ロシア革命、チャイナの文化大革命は急進左派による代表的な革命ですが、それらの共通点は、革命後、王族、反対派を処刑し(チャイナの場合はラストエンペラーに対する余りにも非人間的な扱いを処刑に同ずるとわたしは思うので、敢えてこのままにする)恐怖独裁政治を敷き、結局は民衆を自由にしなかった点だと思います。

昨今の日本を見ていると、自由を誤解釈している人達が多いように思われます。しかも、それが高学歴の人に多いのは、とても残念なことです。言論の自由にあたっては、発した言葉に責任が伴うはずです。無責任に、勝手な憶測で発言を垂れ流すのは危険を呼びます。

ヘイトスピーチ、人権侵害を盾にする人達が、逆にそれに陥っていることの矛盾に気付かないのはおかしな事です。「目的達成のためにはどんな手段も選ばない」と公言する人たちは、それが彼らの反対する「戦争」をも含むということを忘れています。

真に自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い起こすために、その自由を失わないために、わたしたちの真の敵はどこに潜んでいるのか、どうしたらその侵略を防ぐことができるのかを過去から学ぶために、わたしたちは歴史を振り返る必要があるのです。

下記、Grandla, Vila Morena をYoutubeから。


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