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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

When children were small

2017-12-25 22:33:05 | ポルトガルよもやま話
2017年12月25日


 
4匹ネコのうちの一匹ゴローとクリスマス・ツリー

♪When I was small and Christmas trees were tall,
 we used to love while others used to play,
 Don't ask me why, but time has passed us by,
 someone else moved in from far away.
 Now we are tall, and Christmas trees are small....

ビージーズ、「First of May」の出だしです。邦題は「若葉のころ」だそうで、子供の頃の切ない思い出をクリスマスと5月の若葉の頃に寄せて、とても美しいメロディーで歌いあげています。

時節柄、クリスマスにまつわる思い出話をひとつ、そうです、クリスマスツリーが我が息子より大きかった頃の話です。

息子が生まれて6歳までの6年間を、わたしたちは夫の母親、そして彼の母親の姉(夫の叔母)と共に小さな家に住んでいた。

その頃は、クリスマスともなると毎年生木の杉を買って来て、傾かないようにと色々苦心し大きな鉢に立てては飾りつけ、リビングに置いたものだ。12月も半ばころになると、クリスマスツリーの下は溢れるような大小様々の贈りものでいっぱいになる。実は贈り物は大きいものがいいとは限らないのである(笑)

きれいにラッピングされた贈り物はそれぞれ誰から誰に、と名前が書かれてある。       

この頃は後に10数年寝たきりになる義母もまだまだ元気だった。我が夫の母親は9人兄弟で、田舎に住む者もいれば、ポルトに住む者もいる。普段から人が良く、何か頼まれるとイヤとは言えない性分
の人柄だということと、夫の病院勤めを頼ってやってくるのとで、私達が同居していた小さな家は、常に客がいると言うような状態であった。

こういう人たちが、この時期になると、多くは、彼らからすれば、東洋系の顔を持ったちょっと不思議な魅力の我が息子に、とプレゼントを携えてくるのである。
クリスマスツリーの下に置かれたプレゼントには、日本のわたしの母や妹からや、アメリカに定住してしまった我が弟分のMoriからの物も毎年欠かさずあった。家族もお互い思い思いのプレゼントを買い集め、少しずつそれをツリーの下に置いていくのである。

それらの贈りものを開くことができるのは、24日クリスマスイブの晩御飯が済んだ後でなければならない。待ち切れそうになく、今にも包装紙を破って開けてしまいそうな息子を諭すのは、容易なことではなかったが、毎日ツリーの下に増えていく贈り物の数を数えてはじっと我慢して24日の夜まで待つのだ。
     
さて、クリスマスツリーの枝には、ヘタクソな字で 「To Father Christmas」と宛名書きのある、白い封筒に入った一通の手紙が乗せられてある。
それは息子が覚えたての言葉と文字で、Father Christmas(つまりサンタ・クロース。英国式ではこうなる)にあてて、自分が欲しいものを願う手紙なのであった。

Dear Father Christmas,
ボクは、今からママやパパの言うことをよく聞いて
良い子になります。
だから、ぼくに次のプレゼントを置いて行ってください。
(以下欲しい物のリストがずら~っと続く)
                      ジュアンより            
         
ザッと内容は毎年こんな具合でした。(笑) 本当に自分が欲しい贈りものは、こうしてFather Christmasに頼むのである。Fathehr Christmasはこのリストの全部を置いて行くわけではない。このリストの中から、ふさわしいと思われるものが選ばれて、24日の真夜中、子供が寝静まっている間に、ツリーの下に置いていく。

そんな訳で24日の夕食後には、たくさんのプレゼントを開けるわけですが、一番欲しい贈りものは夜中にFathehr Christmas が置いて行くので25日の朝にしか開けることはできない。

なんとかがんばって、Father Christmasがやって来るのを待とうとするのだが、幼い子にはせいぜい12時までが限度で、やがてコックリコックリ船を漕ぐ^^

さて、息子が6歳の時のクリスマス。毎年25日の朝一番に目覚めるのは彼です。
起きてまっすぐクリスマスツリーの下へ行き、目を見張って口をOの字型に開け、驚きと喜びにあふれた表情で、そこに置かれてあるデカいプレゼントに最初に飛びつき、包装紙を引きちぎる。 
ひとつひとつ開けるごとに興奮また興奮である。
       
その年は、ことの外嬉しかったのであろう。この贈りものがたまらなかったようだ。

翌日26日の朝のことである。
ガバと起きて部屋を出、まっすぐ再び、クリスマスツリーのある部屋へ突進したのには驚いた(笑)
もはや何物も置かれていないツリーの下を見ては、ひどくガッカリした面持ちでスゴスゴと再び自室に引っ込んだのだ。息子のその姿を見てわたしたち家族は大笑い。

息子よ。毎日がクリスマスだったら、いったいどうなるだろう。Father Christmas、いくら働いても間に合わないぞ。それに、1年に一度だけ、じっと我慢して待つことこそが、大きな喜びを育むことになるのだ。

その息子も今では30歳を超えた。母親のわたしより新しい大きなクリスマス・ツリーも、彼から見れば多少低いだろうか。あの頃の親戚や知り合いの顔ぶれも、随分いなくなってしまった。「オ・ジュアンズィーニュ!」(ジュアンちゃんの意)と息子を絶え間なく呼んでは可愛がっていた義母も寝たきりで94歳でみまかった。

エヴァーグリーンのクリスマスツリーの下で、月日は移り変わり、人も変わった。

♪When I was small, and Christmas trees were tall,
 do do do do do do do do do...

クリスマスツリーがぼくより大きかった頃~♪

下記、Youtubeからです。



ネコの歯医者

2017-12-24 12:23:50 | ペット
2017年12月24日 

我が家に5匹猫がいた頃の、あるクリスマス時期の話です。

一番若いゴロー君が右上の牙が抜けそうでなかなか抜けませんでした。
牙はかなり下にさがっていて、下の牙と噛み合わず口を閉じることができないらしく、えさを食べようとすると触れるのが痛いのだろう、食べなくなっていました。


クリニックに行く前日。痛みをこらえて寝るっきゃないのだ。というので、川の字で寝るゴロー君。左は年長のゴン太(昨年寿命を全うしました。まん丸なのはクルル。太りすぎだよ、君。

それで気が付いたのだが、口を閉じることができないと飲み込みもできないらしいのだ。結局ミルクも水も飲めなくなったので、先週の日曜日には、動物総合病院の救急へ夫が連れていってみた。人間並みである。

診断の結果が病院へ行った夫から電話で入った。

「抜歯して穴を開けたままはよくない。手術して義歯を構築しそれを入れる」

@@ さ、差し歯じゃん!人間並みジャン!加えて手術費用は500ユーロ(=56000円)だという。ガビ~~ン!
ということは、薬代だのその後の通院だので7、8万はかかりそうだと。

「どうする?」と電話で夫。

どうするったって、今、昼食作り中のわたしに即断せよと言われてもなぁ。飯が焦げるよ~

ということで日曜日はいったんうちへ引き返してもらった。7、8万はちょっとかけすぎじゃない? だってペトやクルルもしばらく前に抜けたけど、そのままです。

結局、猫たちの主治医である近くのクリニックで予約を取り、昨日麻酔をかけて抜歯のみしたのだが、これとて、食事抜きで朝、連れて行き丸一日クリニック・ステイである。

そのことを猫好きのモイケル娘とスカイプで話した。

spacesis: 家猫だし獲物をとるわけじゃないからいいんだけど、外へ出たら、
       外猫たちに笑われるのだ、きっとw
       なんだ、おまえ、牙がないのかってw

モイケル:  失格なネコになってしまうねw
    (註:これは兄貴の間違い日本語をそのまま使ってみたようだ。
     「妹失格だ、お前は」と言うべきところを、兄貴、「お前は失格な妹だぁ」
     とやったようだ。爆。まぁ、文法的には、日本語の形容詞としての使い
     方が間違ってないのだがw 
     我が息子は時々こういう日本語の間違いをしでかしていた)

spacesis:   あははは、失格な猫って(笑)

モイケル:  あ、でも意外と貫禄がついていいかもよw

spacesis: 牙がない貫禄なんてあるかいな。

モイケル:  そ、そか。 片目に斜め傷が入ってるようなカッコよさにはならんかw

spacesis: おお!旗本退屈男のことだね。
       いやぁ、そんな突っ込みができるなんて、モイちゃんもすっかり
       日本人じゃん^^ うんうん^^

とは言うものの娘のギャグがこの母の年代ものであるのをご理解くだされ。何しろ、この母の昔話が日本の情報でありましたし、それを聞いて日本に憧れて行った彼女ではありますもので。

とまぁ、こんなくだらない親子話をばらしているのですが、かかった費用はいくらか? はい、麻酔をかけて抜歯し、薬をいただいて当時で60ユーロ(8000円弱)ほどでした。これでよかったかどうかは知りませんが、仮に差し歯をしたとして、それとても人間と同じで合う合わないがあると思われ・・・すると、差し歯で一件落着とはいきません。抜いてしまったら後くされがなくなり、とりあえず落着ですものね^^;

そんなわけで、抜歯後のゴロー君の顔、みてやってくださいな(笑)

ボクは嬉しくないのだ・・・と、申しております

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では、みなさま、メリークリスマス!

クリスマス・キャロル

2017-12-23 22:04:27 | ポルトガルよもやま話
2017年12月22日

「クリスマス」をポルトガル語では「Natal」と言うのだが、昔はこの時期になると、各テレビ局はクリスマスに因んだ、じぃ~んと胸に響くような物語の放映でにぎわったものです。

旧約新約聖書に基づくものはもちろんのこと、「ニューヨーク東8番街の奇跡」(原題:Battery is not included)「34丁目の奇跡(原題:Miracle on the 34th street)」「Sleepless in Seatle」 などなど、クリスマスの時期をとりあげたドラマは、枚挙にいとまがないのだが、何度見てもその都度感動を新たにするものもいくつかあります。同じクリスマス物語でも、子供たちと一緒に楽しめるヒューマンラブストーリーの方にわたしはより惹かれます。

映画だけではなく、クリスマスに関した本もたくさんある中で、この時期のわたしの愛読書と言えば、O.ヘンリーの「賢者の贈りもの」とチャールズ・ディケンズの「クリスマスキャロル」です。

「賢者の贈りもの」
ニューヨークに住む貧しい若い夫婦がお互いのクリスマスの贈り物を買うだけの余裕もなく、毎日の生活に追われて暮らしているのだが、いよいよクリスマスが近づいてきたところで、夫は自分の父親から譲り受けて、今では鎖がなくなってしまった金の懐中時計を質屋に売り、妻の美しい髪をひきたてるであろう髪飾りを買う。

妻は、夫が人前で恥ずかしげに、鎖のついていない懐中金時計を覗き込んで時間を見ているのを知っていて、自分の素晴らしい金髪を、かつら屋へ行ってバッサリ切って売ってしまうのである。(昔は女性は髪を長くしておくものであった)そして、そのお金で、夫のために金時計用の金の鎖を買う。

そうして貧しいクリスマスイブの食卓を囲み、二人は贈りものを交換するのだが、妻が贈った鎖につなぐべき夫の懐中時計はなく、夫が妻の美しい髪にと贈った髪飾りのつけるべき長い髪がなかったのである。

O.ヘンリーは最後にこう結んでいる。「この二人こそ、世界中の誰よりも、クリスマスの贈りものの真の意味を知っている」と。「賢者の贈りもの」の「賢者」とは、イエス・キリスト生誕の時、それを祝って空に輝く大きな星を道しるべに、東方からはるばる旅して贈りものを届けに馬小屋にたどり着いた三人の東方からの王のことである。

ディケンズの「クリスマス・キャロル」は、初めてその本を手にした時から40年近くを経た今でも変わらずわたしの愛読書のトップ。 「人は変われる、遅すぎることはない」という教訓を思い起こさせます。 


           
エベネゼール・スクルージは、金持ちでありながら大変なケチで有名である。事業の共同経営者兼、世界で唯一の友であったマーレーが亡くなってからと言うもの、益々吝嗇(りんしょく)に、偏屈に、そして人間嫌いになる。「クリスマス?ヘッ!」なのである。

クリスマスの時期に慈善院や教会から寄付のお願いがあってもビタ一文たりとも出さない。長年雇用している事務職員ことボブには、最低賃金しか払わず、冬の事務所を暖める燃料の使用量さえケチって、使わせる量は微々たるもの。ボブは厳寒の中、凍えそうな両手を擦り合わせて事務を執るのである。

ボブには、足の病気を持つ幼い子供ティムがいるのだが、スクルージがくれる安月給では、ティムの手術もしてやれない。

そんなスクルージの前にある夜、過去、現在、未来の3人のクリスマスの精霊が姿を現し、スクルージに過去、現在、未来の三つのクリスマスを見せてくれるのである。

貧しかったが幸せだった子供のころのクリスマス、薄給であるにも拘わらず、文句を言わず心優しいボブ一家の貧しい食卓とティム坊やの現在のクリスマス、自分の葬式だと言うのに町の誰一人として出席者のいない未来のクリスマス。

年老いたスクルージは、生まれて初めて自分の生き方を激しく後悔するのである。
そして目覚めた彼は・・・・
              
という話なのですが、写真はわたしが1973年11月9日に大阪で買った英語版の「クリスマス・キャロル」の表紙。もう色も黄ばんでボロボロになっています。クリスマスの精霊と寝巻き姿のスクルージです。わたしは、この絵のスクルージに何故かとても惹かれるのです^^

幼い頃、若い頃の貧困から抜け出すために、守銭奴になったのでしょうが、根っからの守銭奴ではなく、本来は人恋しいという人間性がこの絵の表情に表れているような気がしてなりません。
 
近年クリスマス番組もすっかり変わってしまいました。このような物語は心が洗われる気がするわたしですが、お涙ちょうだいものは、今の世では受けないでしょうか。 賑やかなコメディものもいいのだけれど、古くからの真のクリスマス精神をこういう時期にこそ紹介してくれ、引き継いで行けたらたらいいのにな、と、クリスチャンでもないわたしですが、思います。

メリー・クリスマス!
神を信じる者も信じない者も、今日のこの日祝福がありますように。

縫いぐるみのクラウディウ

2017-12-19 21:56:55 | ペット
2017年12月18日

ボランティア活動の一環、影絵上映の作品の切り絵作業を、娘の部屋でする昨今。部屋そのものは大きくないのだが、ベランダがあるので部屋が明るく開放感があり、娘がいない今、ここで勉強や作業をしている。

丸いテーブルに座って作業していると、ふとした拍子に向かいのソファの背もたれにはべる縫いぐるみの「クラウディウ」が目に入る。



作業の手をしばし止めてクラウディウに近づきつくづく眺めてみた。このクラウディウは、息子のものだ。

現在は日本に住む息子が、まだリスボンにいた頃のこと、クリスマス休暇でポルトに帰省した。翌春の日本行きの準備でリスボンのアパートにある持ち物の整理をし始め、その日は、わたしのお下がりの赤いオンボロFIATに荷物を詰め込んでの帰省だった。

途中で車が故障しないかと気をもんだが、夜無事に到着、荷物を家に運び込んだあと、ぎっしり入っている大きな袋からはみ出ている茶色いものが目に入った。

はて?と思い引っ張り出して、それがなんだか分かった一瞬、わたしは大笑いしてしまった。それは上の写真にある犬の縫いぐるみの耳だったのだ。息子よ。お前は、まだこのクラウディウ持ってたんか~。

息子が5歳くらいの時だ、Tio Zeこと「ゼおじさん(独身でアーティストの夫の兄)」から贈られた縫いぐるみの人形で、わたしたちみんなはこれを「クラウディウ(Claudio)」と名づけた。

「クラウディウ」と言うのは、息子がまだ生まれる前からいた野良犬だったのだが、わたしが手なずけて義母が渋るのを無理やり頼んで、夜寝るときにだけ家の中に呼び込み、ねぐらを作ってやった半飼いしていた牡犬のことだ。
縫いぐるみを息子に贈った義兄も、この色具合がクラウディウによく似ていたがゆえに面白がって買ったのであった。

ポルトガルでは一般的に、赤ん坊に縫いぐるみの人形をたくさん贈る。子供のベッドの上には日中、これらの人形がきれいに並べられるのだが、わたしの二人の子供たちも贈られたたくさんの縫いぐるみを持っていたものである。
成長するに及んで、少しずつ人に差し上げたりして、残ったのがこのクラウディウであった。大学入学でリスボンへ移るときに息子は遊び心でに一緒に持っていったようだ。思うにきっとアパートに遊びに来た友人たちと、クラウディウを投げたり足枕にしたりして遊んでいたのだろう。それきりわたしはこのクラウディ人形を忘れてしまい、こうして再び我が家に戻ってくるとは思いもしなかったのである。

今やもう30歳くらいの縫いぐるみクラウディウ、よく見ると、人形なのになんだかやけに歳取ったように見える。それだけではない、こうしてベッドに置いてみると、人形とは思えないほど表情が寂しそうではないか・・・



全体もずず黒くなっており、ところどころ破れて中のスポンジが見えている。それを見て思わず「お前もわたしと同じように歳とったんだねぇ」と感慨深い気持ちに襲われた。

スマホで撮影していると、ネコのペトがやってきて、「なんだ、コイツ」とでも言いたげに、しきりにクラウディウの匂いを嗅いでいる。



どれ、お正月も来ることだし、年季の入ったクラウディウの、今日はほころびをなおしてあげようか。

サイギサイギ:岩木山お山参詣の唱文考

2017-12-15 12:10:06 | 思い出のエッセイ
2017年12月15日 

高校時代に好きで覚え、今でも諳んじることができる室生犀星の詩がある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや   

大阪に出た若い時分には少しひねくれた目で故郷を見ていたので、反抗心と故郷へのノスタルジアが入り混じった犀星のこの詩に、自分の心を重ねていたのである。大阪時代の10年間でわたしが帰郷したのは、恐らく2度ほどだろう。

さほどに「よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と、まこと、粋がっていたのであった。「なんでやの?」などと聞いてくれるな、おっかさん。人様に言えない事の一つや二つ、人なら誰にでもあることでありゃんしょ。

とは言っていたものの、そんな複雑な故郷への片思いは今ではかなぐり捨てて、故郷を日本を恋うる心に素直に従うようになったのは、齢がなせるわざか。わたしも随分と角が取れて丸くなったもので、帰国時に機会あらば、せっせと弘前へ帰り高校時代の同窓生や恩師と旧交を温める今のわたしである。

さて、FBの弘前シティプロモーションでこんな懐かしい写真を目にした。



弘前では「お山参詣」と呼ばれる初秋の伝統行事なのだが、久しぶりにお山参詣の行列時に唱える唱文の謎解きを思い出した。以下に綴ってみる。

年に一、二度は弘前へ足を運んでいる妹夫婦、ある年、弘前のホテルでチェックアウトしようと荷物をまとめていたら、外から
「サ~イギサ~イギ ドッコイ サ~イギ 」
と聞こえてきたのだそうな。

ホテル9階の窓から土手町を見下ろすとお山参詣の行列が通って行く。行列を見ようとて慌てて階下へおり、こけつまろびつ行列に追い抜き、いっしょに並んで歩いたのだが、行列の唱文が子供のころに聞いて覚えていたのと少しも変わらないのに可笑しくて、ついにこらえら切れなくなり大声でウワハハハと笑ってしまったと言う。
 
お山参詣というのは津軽に昔から伝わる岩木山最大の祭りで旧暦の8月1日に五穀豊穣、家内安全を祈願して白装束にわらじ、御幣やのぼりを先頭に行列をなし岩木山神社を目指して歩く行事だ。

商店街の土手町から坂道を下り、わたしたちが子どもの頃住んだ下町の通りを岩木山目指して行列が歩いていくのだが、検索してみると子供だったわたしが記憶しているのと違い、行列の様子も少し変わったようだ。

昔は白装束でお供え物を両手に抱えての厳かな行列だったのが、今では人寄せでもあろうか、随分カラフルで「行事」と書くより「イベント」とカタカナかローマ字にしたほうが似合いそうだ。


画像はwikiから

さて、妹がこらえら切れなくなり大声でウハハハと笑ってしまったという、その唱文が、これである。

♪さ~いぎ さ~いぎ どっこ~いさ~いぎ
 おやま~さ は~つだ~い
 こんごう~どうさ
 いっつにな~のは~い
 なのきんみょう~ちょうらい

毎年こう唱えながら目の前を通り過ぎていく白い行列、子供心に神聖なものを感じてはこのお唱えをいつの間にか諳(そら)んじていたのである。この御山参詣が終わると津軽は一気に秋が深まる。



長い間、そのお唱えの意味など気にしたこともなかったのだが母も亡くなり、帰国したある年、彼女が残した着物を妹と二人で整理しながら、3人で暮らした子供の頃の思い出話の中にひょっと出てきたのがこの「サイギサイギ」だった。

亡くなった母は津軽で生まれ育ち、60まで住んだ。その後は妹夫婦の住む東京へ移り所沢の彼らの家を終の棲家とした。義弟も津軽衆なので、東京にありながら夕食時の食卓は、妹、義弟、母の3人ともが津軽の出ではおのずと津軽弁が飛び交おうというもの。帰国した時のわたしは母と義弟が交わす津軽弁を聞くのが本当に懐かしく楽しいものだった。

その母が「ことすでに遅し」の意味でよく使っていたのが「イッツニナノハイださ」である。 はて?いったいこれは元来がどういう意味合いなのであろうかと妹とそのとき疑問に思ったのだ。

たまたま、当時、我が母校の後輩で「サイホウ」さんと言う女性仏師の方とメールのやりとりをしており、聞いてみたところ、これが元になっていますと教えていただいのが下記。

懺悔懺悔(サイギサイギ)  
過去の罪過を悔い改め神仏に告げ、これを謝す。

六根清浄/六根懺悔?(ドッコイサイギ) 
人間の感ずる六つの根元。目・耳・鼻・舌・身・意の六根の迷いを捨てて汚れのない身になる。

御山八代(オヤマサハツダイ) 
観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・地蔵観音・普賢菩薩・不動明王・虚空蔵菩薩・金剛夜叉明王

金剛道者(コウゴウドウサ)  
金剛石のように揺るぎない信仰を持つ巡礼を意味す。

一々礼拝(イーツニナノハイ)  
八大柱の神仏を一柱ごとに礼拝する。 
          
南無帰命頂礼(ナムキンミョウチョウライ) 
身命をささげて仏菩薩に帰依し神仏のいましめに従う。

唱文のカタカナの部分は津軽弁の発音である。


どの方言もそうだが、津軽弁は特に独特のなまりが多い方言だ。我が同窓生である伊奈かっぺいさんは津軽弁でライブをする人で有名だが、彼いわく、津軽弁には日本語の発音記号では表記不可能な、「i」と「 e」の間の発音があり、津軽弁を話す人はバイリンガルである、とさえ言っている。

わたしと妹が笑ってしまったのは「六根懺悔」が何ゆえ「どっこい懺悔」になったのかと、津軽人の耳構造はほかとは少し違うのであろうかとの不思議にぶつかったのであった。

大人になったわたしたちにしてみれば、「どっこい」という言葉はなじみでありとても唱文の一語になるとは思われない、なんで「ドッコイ」なのよ?と言うわけである。

実は「さいぎさいぎ」も「懺悔」ではどうしても津軽弁の「サイギ」に結びつかず、わたしは「祭儀祭儀」と憶測してみたのであった。そして、数日の検索で、ついに語源をみつけたぞ!

「懺悔」仏教ではサンゲと読み、キリスト教ではザンゲと読む、の一文に出会ったのである。「サンゲ」が津軽弁で「サイギ」、これで納得だ。

御山参詣は日本人の山岳宗教につながるものであろうか、修験者が霊山に登るのが弘前に行事として定着したと思われる。

父と母、わたしと妹4人家族が住んだ桔梗野のたった二間の傾きかけた埴生の宿のような家の窓からは、見事な岩木山の美しい姿が日々仰げたものである。


画像はwikiから

テレビやパソコンなどのような情報入手方法がなかったわたしの子供時代、空耳で覚えていた唱文も今となってはいい思い出につながり、ふと頭を横切るたびに笑みがこみ上げて来て、懐かしい人々の顔が浮かんで来る。

正規の唱文の発音よりも300年も続いてきたであろう津軽弁の唱文に耳を傾けながら、修験者を受け入れてきたお岩木さんは、津軽弁そのままが誠に似合うようだとわたしは思うのである。

♪「さいぎさいぎ ドッコイさいぎ おやまさはつだい こんごうちょうらい(と、わたしは覚えている)
 イッツニナノハイ なのきんみょうちょうらい」

下町を歩いていく白装束と幟と、「イッツニナノハイ」と言う母の姿が浮かんで来るようだ。孝行したいと思えどおかあちゃん、14年前にみまかり、「イッツニナノハイ(事すでに遅し)」でございます。ハイ。