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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

ポルトガル雑貨店:東のポルト屋

2017-12-14 11:39:11 | ポルト
2017年12月14日 

ポルトの街を歩いて、あるいはポルトガル国内を旅行した際に、自分が発見して気に入ったポルトガルの伝統工芸品を紹介するのが楽しみのひとつです。

紹介すると、買いたいのですがとか送っていただけないかとかのメールが時に入ったりします。

ポルトガルは郵送料が高いのと、それを買い求める時間、更に郵便局まで出向く時間がないのとで、残念ながらお引き受けしないのですが、こういうものをもっと日本に紹介できたらいいんだがなと、以前から考えていたのでした。

そこで、本日は、まだ構築途中ではありますが、既にいくつかアイテムがアップされていますので、ポルトガル雑貨オンラインショップ「東のポルト屋」をご紹介したいと思います。
          


★「東のポルト屋←クリックするとサイトへ飛びます。

また、下記はフェイスブックサイトです。
https://www.facebook.com/mikeyinPorto/

本サイトでは工芸品にまつわる小ばなしや説明を併せて載せています。また、ポルトガルのメディアから拾った「ニュース!ポルトガル」も和訳して設置しています。

徐々にアイテムも増えていく予定ですが、お時間を見て訪問していただけたら嬉しいです。

海の幸山の幸

2017-12-13 13:13:42 | 思い出のエッセイ
2017年12月13日

大正14年生まれだった母は9人兄弟であった。

その長兄は戦争で若くして死んだと聞くから、戦後生まれのわたしは知らない。母を筆頭に8人兄弟となり、7人がわたしのおじおばになる。母とわたしと妹は、このうちの5人のおじおばと、祖母が構える弘前下町の大所帯で、幼い頃を共に暮らした。わたしは祖母の初孫にあたるのである。

母のすぐ下のおじは当時すでに結婚していて独立、そして、女姉妹で一番若いおばが東京に出ていて結婚も間もなかったころであろう。わたしは、このおばの若いころに似てるいるとよく言われたものだ。
父はと言えば、この頃は盛岡の地方競馬の騎手だったので、弘前にはほとんどいなかった。母は食い扶持稼ぎに、なにかとその日の小さな仕事を見つけては家を空けることが多く、留守をまもる祖母が母代わりであった。

その祖母は、秋になると山菜採りに山に入るのである。弘前の町からバスで小一時間も走るのであろうか、岩木山の麓の嶽(だけ)へ温泉に浸かりがてら、キノコ、筍、ワラビなどの山菜を求めて入山するのだ。祖母が採る山菜はごっそりとあり、それらは塩漬けにされ長期保存食料となり、時折食卓にのる。
何と言ってもおいしかったのは、細い竹の子を入れたワカメの味噌汁であった。

後年この祖母の慣わしを引き継いだのが母とすぐ下の弟、おじだ。母もおじもその季節になると、山へ入って行った。そしてどっさり採った山菜をカゴや袋に入れて抱えて来る。だが、決して二人が一緒に同じ場所へ行くことはない。それぞれ自分だけが知っている秘密の場所があるのであった。

これは釣り人の「穴場」と同じである。おじは釣り人でもあった。山菜採りがない週末などは、自分の経営する小さな自動車整備工場の若いもの数人を連れて早朝に川へ車で乗り付ける。
そのおじは、知り合いの工場に頼み込んで、採った山菜を瓶詰め缶詰にするに至った。わたしが帰国する度に、弘前から缶詰の細長い竹の子やワラビなどが、宅急便で届けられるのだった。

さて、母は60を過ぎてからの晩年、所沢にある妹夫婦の家族と共に暮らしたのだが、そこでも近隣の林や森に入って山菜探しが始まり、いつの間にかしっかりと自分の秘密の場所を見出して、秋に入るとキノコ、ワラビを採ってきては所沢のご近所に配るようになった。毎年それを楽しみにする人もいた。

所沢に移ってからも、70半ばまで脚が元気なうちは、弘前の田舎へ帰り毎年のように山での山菜採りはしていたものだ。

母より若い山菜ライバルのおじが先に身まかった時、言ったものである。「とうとうわたしに秘密の場所を明かさないで、あの世まで持って行った。」と。そういう母も、おじには自分の持ち場を明かすことはなかったようだ。

母が亡くなった今、祖母からの、いや、恐らくはそれ以前のご先祖さまの時代からの山菜の見つけ方、見分け方、そして秘密の場所の秘伝は途絶えてしまったことになる。母もおじも海の幸山の幸を知る人であった。

都会に出たわたしは、母や叔父が採ってきては、味噌汁や煮物にした、かの細長いしなやかな竹の子を見かけることはなかった。母やおじの秘密の場所はいったいどこだったのか。大の大人が二人とも頑として教え合わずに逝ったことを思うと、なんだか可笑しさがこみ上げて来るのである。

そして、このことを思い出す度に、倉本聡のドラマ「北の国から」の最終回で、主人公、黒板五郎が二人の子供にしたためる遺言の言葉を思い浮かべる。
「金など欲しいと思うな。自然に食わせてもらえ。」

海の幸山の幸を自ら捨て去り葬って来たわたし達現代人には、到底吐けない素朴でありながら重みのある遺言である。

綴り方教室

2017-12-11 18:49:13 | 思い出のエッセイ
2017年12月11日

今日は子どもの頃の思い出話です。


子供の頃は、究極の内弁慶であった。

ご近所では、女だてらに男の子達を従えてのガキ大将、親分であったのに、学校に行くとからきしダメなのだ。毎学期ごとの通信簿には、良くもない成績に加えて、「今学期も一度も挙手がありませんでした。」とか、「発言が一回も行われませんでした。」と、ずっと毎年書かれて来た。だから、悪さをして親が先生に呼ばれる、などと言うことは学校ではなかったのである。

小学校5、6年の頃であろう。わたしは生まれて初めて学校の小さな図書室に入り、一冊の本を借りた。それまで、本らしき本は、手にしたことがない。当時は「なかよし」「少女」「少女クラブ」などの少女向けの月刊雑誌があったが、それらのどれか一冊を手にするのは年に一度のお正月であった。

朝、目が覚めると、わたしと妹の枕元にお正月特別号として、いっぱいの付録でパンパンに膨らんだ一冊の少女雑誌がお正月のお年玉代わりとして置いてあるのだ。それは本当に待ち遠しく、嬉しいものだった。その一冊は、完全に自分の物だったから。

さて、わたしが初めて手にしたその本には、「シャーロック・ホームズ:まだらの紐」とあった。なぜ、自分がそれを選んだのか今では覚えていない。しかし、それが以後のわたしを読書に駆り立てることとなった始まりの、挿絵はところどころにありはしたが、活字がぎっしり詰まった、いわゆる「本」なのであった。

一発で推理小説の面白さに引き込まれ、わたしは瞬く間に図書室にあるホームズ・シリーズを読破してしまった。

次に向かったのがモーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン:奇巌城」。これには参った!泥棒とは言えども、エレガントで世界中を股に掛け恋をし、大金持ちからしか盗まないルパンが実にカッコよいのである。

「怪盗紳士ルパン」「ルパンの冒険」「ルパンの告白」「ルパン対ホームズ」と次々と読み漁り、すっかり虜になってしまい、寝ても冷めてもヨン様ならぬ、ルパン様である。そして、シャーロック・ホームズよりも「怪盗ルパン」の方にわたしはより魅力を感じたのだった。 布団の中で、夜寝付くまで想像を膨らまし、夢の中ではわたしはルパンになった。

そんなある日、クラスで綴り方、つまり作文の宿題が出た。作文を書き、それを各自がクラスで読んで発表するのである。迷うことなどあろうか、わたしは自分が夢中になっていた、「怪盗アルセーヌ・ルパン」について書いたのである。

内弁慶だったわたしは、発表の自分の順番が回ってくるのにドキドキしながら、その反面、ルパンについて、皆に話したくてたまらなかったのだ。これは、究極の内弁慶にしては、生まれて初めて持った鮮やかな積極的な気持ち、興奮であった。胸の高鳴りを感ながらじ、大きな声で読み上げ、最後をわたしの作文はこう結んだ。

「わたしも大人になったら、ルパンのように世界中に手下を持つ大泥棒になりたい。それがわたしの夢です。」

数日後、母は先生に呼ばれた。「泥棒になりたいというのが夢。ましてや女の子がとんでもない。」と、当の本人ではなく、母が説教をくらって来たのである。母はわたしを叱りはしなかった。

大人になったわたしは世界を股に掛けるとまではいかないが、一般の日本人の人生軌道を逸して、海の向こうはアフリカ大陸というイベリア半島にひっついている国、ポルトガルに定住することになったのだが、これは幼い頃の夢のかけらだと思っている。

ここにはあの頃の究極の内弁慶の少女の姿はもうない。日本とポルトガルを股に掛けてる間に、あのころの内弁慶だった少女は、人前で自分の思うところを言えるほどに、逞しい変貌をとげたのであった。

ポルトガルのお歳暮&アフォンソとマチルダ

2017-12-07 08:33:38 | ポルトガルよもやま話
2017年12月7日
 
お歳暮という意味合いの言葉こそポルトガルにはありませんが、12月の贈答はそれに相当すると思います。
  
日本と比べて違うところは、職場の上司や仕事関係のお得意先へという義理がらみの付け届けはほとんどないという点でしょうか。また、わたしたち日本人は早く義理を果たしてしまいたいとでも言うように、お返しは早々に果たしてしまおうとします。ポルトガルでは一年を振り返ってみてお世話になったと思われる人に、クリスマスの贈り物を届け感謝の気持ちを表すのです。

どういうものが贈られるのか、ちょっと興味があるところでしょう。
ワイン、ウイスキー等は日本と変わりませんね。ポルト・ワインやウイスキーは高価なものを贈りますから、たいてい一本ですが、Vinho Verde等のテーブルワインとなると、ドバッと10本から20本が届けられます。これなどは日本で言うビールを贈る感覚でしょう。
そう言えば、こちらではビールがこういうお届けものに使われることはまずもってないのが面白いです。



また、この時期にはデパートや大手のスーパーではクリスマス贈答品コーナーが備えられ、ワインを始め、チーズ、生ハム、缶詰などが入ったcabaz(カバス=果物等をいれるカゴ)がたくさん並びます。

その他、贈り物として室内の飾り物、クリスタルのデキャンタ、銀製品、そして不景気な今からは考えられませんが、たまに金の装飾品などもありました。これらはかなり高価なものになりますから、受け取る方も多少躊躇します。銀製品の菓子皿、ぼんぼん入れ、燭台などは3、4万円はくだりません。

食べ物としては、「バカリャオ=bacalhau」と呼ばれる大きな鱈を開いて干したものを贈り物に。これは、肉類を食さないクリスマス・イブと、そして大晦日にポルトガルの習慣として他の野菜と茹で上げて食します。また、豚の足一本からなる生ハム、これも贈答用に使われます。

とまぁ、本題「アフォンソとマチルダ」の前置きが大部長くなってしまいましたが、色々な頂き物の中には「こりゃ困った」と言う物も多々ありました。

さて、これはわたし達一家が現在の我が家、フラットに引っ越す前の古い小さな庭つきの家に住んでいた時の出来事で、子供たちが小学生だった頃のこと。
夫の仕事柄、この時期にはお届け物が参ります。12月のある日のこと、田舎の方と思し召すセニョールが玄関の前に立ちました。
「だんな様に大変お世話になった。どうぞこれを。」と言って大きなのダンボール箱を置いていきました。
「あらら、なんでしょ」と、中身が生ものであっては後で困りますので箱を開けてびっくり、玉手箱!ナマモノもナマモノ、生きた二本足を紐でくくられた二羽のトリではないですか!一羽は真っ赤なトサカを冠しており、もう一羽は見事な七面鳥です。12月は七面鳥の季節でもありますものね。
しかし、これ、どうするのよ?自分・・・
よく見ると可哀相に、この2羽、足をくくられたままでとても辛そうです。で、いやだったんですが、恐る恐る両手を差し伸べて抱きあげようと両手を出しましたら、騒ぐこと騒ぐこと、そのけたたましさといったらありません。
こちらの方がビビッてしまいましたが、思い切って抱き上げました。その柔らかい体を通して体温が伝わってきます。

庭には昔の鳥小屋がそのままほったらかしでありましたから、庭まで運び、くくっていた紐をほどき、二羽を庭に放して見ました。子供達が帰宅して、特に動物好きの娘は大喜びです。早速にこの二羽に牡雌も分からないと言うのに「アフォンソ」「マチルダ」と名づけました。アフォンソとはポルトガル王の名前ですから、ひどい話ではあります(笑)

夕方になると、今度は庭中追い掛け回して二羽をひッ捕まえ、一時しのぎの鳥小屋に入れるのですが、これがまた一仕事です。あちらは必死で逃げ回るし、こちらはこわごわ追いかけ回すわけです。庭には好きなバラをたくさん植えてましたし、大きなあじさいの木もありましたから、それらの陰に入ると捕まえるのにこちらは手や腕が傷だらけです。

こういう悪戦苦闘の数日が続いたのですが、クリスマスがいよいよ近づいてくると、さて、ここで問題が持ち上がりました。こうして名前までつけてしまうと、とてもとても潰して食卓に載せることなどできましょうか・・・
名前はつけるべきではなかったのです。娘など、よもやそういうことには考えが及ばないでしょう。夫もわたしも、つぶせるわけはなし。

しかし、このまま庭で飼っておくというわけにもいかないのです。なにしろ、我が家には犬のポピー、そして数匹の猫たちもいるのです。このまま飼って行くと、アフォンソとマチルダを守るために四苦八苦、そのせいで毎日クタクタになるのが目に見えています。

一日一日と延ばし延ばしになり、ついに決心を迫られる日が来ました。我が家で始末するわけには参りません。ネコや犬たちが騒々しさや血の匂いできっと怖気づいてしまうに違いありません。こ裏に大きな畑を持つジョアキンおじさんの飼っているブタが、悲鳴を上げて鳴くことがままあるのですが、わたしには何が起ころうとしているのか想像できます。そのときの我が家の犬猫たちは「なにごと?!」とでも言うかのようにみな揃ってあっちへすっ飛びこっちへすっ飛び。その不安な様といったらありません。

子供達に、「これはアフォンソとマチルダです、頂きましょう」と言えるくらいの気概が哀しいかな、わたしには当時ありませんでした。

結局、週に2度、我が家の掃除にくるお手伝いのドナ・ベルミーラに2羽とも上げました。不意に手に入った素晴らしいご馳走です。嬉々として2羽を抱えて帰って行ったお手伝いさんの後姿を見ながら、わたしはちょっと複雑な思いでした。こんな気持ちになるのなら、肉類はもう口にしなくてもいいや、なんて偽善的な思いが頭を横切ったものです。

生きる、ということは、そのために生かされてる命があるのだ、ということに思いを馳せる出来事でありました。子供達には、一言「お手伝いさんにあげましたよ。」それで十分伝わったでしょうか。

モイケル娘の複雑な表情を打ち消すかのように、わたしはクリスマス・ソングのCDをボリュームアップでかけたのでした。

ごめんよ、もいちゃん、そしてアフォンソとマチルダに合掌。