読書の記録

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モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

2020年09月26日 | 生き方・育て方・教え方
モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く
 
尹雄大
ミシマ社
 
 
 近代人足るもの「我れ思う、ゆえに我れあり」であるが、昨今は自分の存在価値を「承認欲求」という形で満たす傾向がつよくなったとされる。「承認」というからには他人を必要とするわけで、つまり「他人思う、ゆえに我れあり」という状態になっている。
 最近に限った話でなく、Vベネディクトの「菊と刀」のころから、日本人の特性として他人とのスタンスで自己のふるまいが決定することが指摘されているから、現代日本人の自己というのは二重の他人依存というわけで、ウスバカゲロウみたいにずいぶん脆いところで立脚しているということになる。
 
 ここまで、他人の視線を気にするようになった背景は、ちょっとでも横紙破り、というか逸脱した行為をしたとみなした人に対してバッシングが過激化する一方になっているからでもある。SNSによってこういったバッシングが手段化され可視化され、流布しやすくなったという技術背景もあろうだろう。ただ、「正義という名の暴走」は歴史的に人類が行ってきたものでもあり、人間が古来から「脳」に備わったプログラムが、現代技術を武器に大活性化していると言えるのかもしれない。
 
 本書の指摘にもあるが、「他人の視線を気にするようになること」と「ちょっとした他人の逸脱行為が許せない気持ちになること」は、根っことしては同じメンタリティであろう。「自分だって窮屈な思いをしているんだから、お前だって我慢しろ」といったところか。
 しかし、言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズンなのはみんなもわかっているはずで、それなのになんでこんなに先鋭化してくるのか不思議なメカニズムである。ゲーム理論的な力学が働いているのだろうか。
 
 じゃあ我々はどうすればいいのか、ということで、本書は「心」の判断に頼り過ぎず、「身体」の感受性を信用しろ、と説く。
 
 
 ここにきて「身体論」がクローズアップされるのは、やはり「脳」や「心」に依存しすぎなこの現代社会の揺り戻しということなのだろうか。なにしろ、あのハラリでさえ「21Lessons 」の最終章で、瞑想によって身体の声を聞くことを推奨しているのである。
 
 本書でいう「身体」は、身体といっても皮膚とか骨格ということではなくて、「氣」みたいなものかもしれない。腹が立つの「腹」とか、胸がわくわくするの「胸」みたいな身体感覚である。脳みそがシナプスをぷちぷちいわせてニューロンをこねくり回す以前に体得するされる感覚みたいなもの、とでもいおうか。
 こういった身体感覚は、自転車が倒れずに走行するように、たとえ脳意識が感知しなくても身体のほうでフィードバックを繰り返しながら順応化していく。いわゆる「体が覚える」というやつだ。
 
 たとえば「自信」というもの。
 よく、揶揄をこめて「根拠なき自信」と言ったりするが、著者は「そもそも自信に根拠なんてない」と言い切る。「根拠のある自信」というのは本来あり得ないというのである。
 というのは「根拠」の多くは自分もしくは誰かの「主観」に基づくものであり、そして「主観」とは結局おぼつかないものだからである。それに、自信を得ようと理論武装をしようとすればするほど、新たな疑問や穴が見えてきて、ちっとも完全武装にならないことは誰しも身に覚えがあるだろう。
 つまり「根拠ある自信」というのは不可能解なのである。「自信」とはもともと根拠がないものなのだ。
 畢竟、他人の情報をあてにしては「自信」はつくれないということになる。「自信」とはまさに字のごとくで自分を信じるしかない。「自信力」とは「自分を信じる能力」そのものであって、他人からの承認の欲求なんかでつくろうとしてはいけないものなのである。
 本書では、寡黙な職人が内に秘めてるものがこの「自信」であるとしている。できるもできないも言わず、表情も変えず、ただ目の前の対象に真摯にとりくむ。彼らに根拠なんかはなくって、単に己の身体を信じているのだ。
 自信は「身体」に宿るものなのである。
 
 職人でない我々は身体感覚が鈍く、どうしても周囲の情報から頭で意味を嗅ぎ取ることに過敏になる。
 本書の指摘としてなるほどと思ったのは、何かしら意思決定をする際に、とかく「客観的」と称して自分の周囲の状況や情報から最適解を導き出して行動を決定する人が増えてきている、ということだ。一種のライフハックといっていいかもしれないが、自分が本来何をしたかったかという気持ちはどんどん抑圧されていて、そのうち「そもそも自分が何を欲しているのか」という気持ちが無くなっていく。「自分の欲望」=「周囲状況からの最適解」になっているのだ。これ、自分自身省みても心当たりがある(若くないが)。
 こういう意思決定はリスク意識が働いているときにしたくなる。リスクが高いと感じるときは、自分の本能的欲求はひとまず抑えて、多くの情報源を参照して最適解を出そうとする。
 ということは、この世は「リスクだらけ」という世界観設定が現代日本人にはびこっているということになる。いつから世の中はそんなにリスクだらけになったのか。
 
 リスクの高まりは自信喪失につながる。そしてリスク回避のためには少しでも多くの情報を取ろうとし、意味を探ろうとする。マツコ・デラックスが「最近のテレビはたいしたことやってないわりには何か意味を探ったり、意味をひけらかしにいこうとする」と、かなり辛辣かつ的確なコメントをしていたが、これもテレビ局におけるリスクの現れかもしれない。つまり、テレビのこの態度は「守り」に入っているのである。
 
 実際に今の世はかつてに比べてリスクだらけになっているのか、それとも脳が過大にそう反応しているだけなのかは永遠にグレーだろう。
 だけど、リスクと感知することが「守り」に入らせて自信や主体性の喪失をもたらすとしたら、その「守り」の姿勢はかえってその人の「リスク」を高めているのではないかとは思う。かえって自分を危険においつめていることも考えられる。
 むしろ、身体感覚が鋭敏になるように鍛えるほうが、サバイブする能力は高まるのではないかとも思う。
 鈍感になった「胸」や「腹」の感覚をもういちど内省してみるのは、思った以上に大事なことかもしれない。
 

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