緊急提言 パンデミック 寄稿とインタビュー
ユヴァル・ノア・ハラリ 訳:柴田裕之
河出書房新社
日本独自版なのだそうだ。いくつかの雑誌への寄稿とNHKのインタビュー番組の書き起こしで構成されている。
コロナ禍におけるハラリの発言や寄稿は、この半年のあいだ随所で見かけたように思う。目にした際につまみ食いしていただけなので、そんなに強い記憶に残ってはいない。あらためてこうやってまとめて読むと彼の主張はわりと一貫していて、そしてシンプルだ。
・門戸を閉ざすんでなく、今こそグローバルで協調体制を。
・人類はいずれコロナを制する。冷静に科学を信用せよ。問題は、その後の世界がこれまでとはだいぶ違っていることだ。
・こういう緊急事態に強引に導入されたシステムや政策は、コロナが落ち着いた後もそのまま残る。ここに警戒しなければならない。
・独裁者の登場に気を付けなければならない。民主主義としてのリーダーシップがとれるよう、市民ひとりひとりが賢くあるべき。
・一挙に監視国家に傾くおそれがある。行動だけでなく、皮膚の下(意識や感情)までも監視対象になる。
まあ、こんなところか。
ここにおさめられた寄稿やインタビューは、2020年の3月前後が中心、つまり各国でロックダウンや緊急事態宣言が出されたころである。あのころの危機感・狂騒感の記憶はやや薄れつつある。慣れた、といってもよいかもしれない。このブログでは、キューブラー・ロスの「死の受容」になぞらえたりしたが、それで言えば今現在は「受容」のステージにあるといってもよい。
とはいえ、経済の大打撃は言うまでもない。倒産した企業は数多いし、大学は未だにリモートだ。海外との行き来は制限が続いたままである。そしてウィルス流行は今でも下火にならず、毎日感染者数が報告されている。
日本だけではなくて、海外でも相変わらずだ。とくに欧州では本格的な第2波としてふたたびロックダウンや国境封鎖が議論されているところもある。
かたや、台湾やニュージランドのようにかなりうまく制御した国もあるし、タイのように観光客受け入れに動き出した国もある。国によってけっこう温度差が出てきているわけだが、日本は諸外国の中でうまくいっているほうなのかいってないほうなのか、ちょっとわからない。一時期はロックダウンもしないのに死者も少なくて「ミラクル」と呼ばれていたが、最近はどうなんだろう。
コロナそのものの制御よりも、むしろ注目したいのは「ウィズ・コロナ」「アフター・コロナ」と呼ばれる、ウィルスと共存するこの社会の在り方だろう。「ニュー・ノーマル」という言い方がされるように、コロナ前の生活価値観や商習慣が通用しなくなった。新時代である。
ハラリが警告を発するのはここである。
ハラリは、人類はコロナそのものはいずれ制することになるが、その後の社会については悲観的だ。施政者の暴走を予言するのである。とくに監視システムにおいてそれは顕著になるとする。
監視社会の絶望を描いた古典的SF「一九八四年」はこれまで何度も話題に上がった。トランプ大統領が就任したときもAmazonで売り上げ一位になったとされる。西欧では必須の教養書とされている。ハラリはこの「一九八四年」よりも恐ろしい監視社会を予言している。
社会が大きな災禍に見舞われたとき、普段ならありえないような独裁的で偏執的な指導者が現れやすい、と指摘したのは「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」を著した加藤陽子である。その加藤陽子は、日本学術会議の新会員メンバーとしての任命を菅総理から断られるという前例の無い仕打ちを受けた。
デジタル庁の創設も、省庁縦割りの一元化やハンコ文化の撤廃など聞えはよいが、要はマイナンバー制度の普及と定着を担っていると思うと、国民監視強化への一里塚であろう。今はなんのためにあるのかよくわからないマイナンバーカードも、ゆくゆくの構想としては自動車免許証も健康保険証も学生証も公共施設の利用証もすべて一元化するとされ、ひとりひとりの移動・収入支出・学歴・職歴・病歴・思想すべてを国が把握することは技術的には可能である。
リモートでどのようにして効率的に仕事するかとか、大人数での飲み会はもうやめようやとか、そういう生活習慣の「ニューノーマル」の裏で、行政システムの「ニューノーマル」が着々と進んでいることはもう少し意識していてよいのではないか。携帯電話の値段を下げるという一見利用者にとって良さそうな話も、こと生活インフラに直結する話だと考えると、何かの企みがあるのではないか、などとも思う。