読書の記録

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承認をめぐる病

2014年03月25日 | 生き方・育て方・教え方
承認をめぐる病

斎藤環


 なるほど、最近のなやめる人の増大は「承認欲求の飢餓感」が背景にあったのか。すごく納得した。
 スクールカースト現象も、“キャラ”というものの見方も、コミュ力重視の傾向も、モンスタークレイマーの増大も、新型うつの発生も、これみんな「承認欲求の飢餓感」が原因ないし遠因なのである。
 
 だけれど、なぜこんなに承認欲求に飢えるようになったんだろう。
 
 本書が指摘するように、「承認」とは「他人に自分の価値を決めてもらう」ことだ。承認欲求の飢餓感というのは、「他人に自分の価値をみとめてもらいたい」という欲求が増大しているということである。
 
 もともと日本社会の土壌として他人に依存しやすいという点がある。
 個人主義の欧米と異なり、日本の場合は多かれ少なかれ、他人との協調と共生を前提とする傾向が強い。
 もともと日本は「承認欲求」を求めやすい社会性がある、と言える。

 その、もともと欲求の充足に他人に頼りやすい日本社会において、今日さらに問題になってきているのは「何があると承認されやすいか」ということである。
 これがすなわち「面白い話ができる」とか「円滑にその場の空気を進められる」人が「承認されやすい、といういわゆる「コミュ力」ということにになっているのだ。
 従来の「成績が良い」「足が速い」「絵がうまい」では「承認」されないのである。価値として認められないのである。

 ここで注目すべきは「コミュ力」とは、相手あって達せられる能力ということだ。「足がはやい」「成績がよい」は客観的であり、孤立的に証明できるが、「コミュ力」は、コミュニケーションする相手の評価があってこそ成立する。
 つまり、「コミュ力」の有無は他人との共依存で決まるということになる。

 「承認欲求」そのものが「他人に自分の価値を決めてもらう」という極めてあやうい土台に乗っているものであり、なおかつ「承認」に値するものは「コミュ力」という他人との共依存関係で決まる、という、いわば二重他人依存状態なわけで、現代の「承認に至る病」というのは、完全に他人に委ねた社会ということだ。

 「我思うゆえに我あり」ではなく、「他人思うゆえに我あり」である。

 相互に他人に自分の価値を委ねることで均衡を保つ社会、「講」とか「相互持ち株」とか「ゲーム理論」みたいなことを「承認」という行為を媒介にして行っている社会。
 どうしてこんなことになったのかは、高度情報氾濫社会の副産物とも必然的帰結とも考えられるが、では果たして、今の人は昔の人に比べてコミュ力が達者になったかというと、必ずしもそうではないように思う。
 むしろ、異質の他者、見知らぬ他者に対してのコミュ力は減っている。なぜなら、兄弟姉妹の数も減り、教室の数も減り、隣近所付き合いも減り、同質同価値の社会集団で群れることのほうがずっと多くなっているからだ。電車の中で向かい合わせに座った見知らぬ他人から話しかけられるということも今やほとんどなくなった。

 だから、今もてはやされているコミュ力は、あくまでコモンセンス、つまり「お約束」を共有できる間でのみ発揮できる能力であることがほとんどである。「キャラ」というのは「お約束」の上で成立するシステムだ。
 当事者たちもそれをよくわかっていて、ゼロベースに戻る瞬間、たとえば新学年とか新入学、転校、新社会人のときの戦々恐々ぶりが話題になる。中学校のときは人気者だったのに高校に入ってまったく通用せずにとつぜんぼっちになる例はすごく多い。

 逆に言えばその程度のことでもあるはずなのだ。しょせん、その所属とは一過性のものだし、「お約束」を共有している狭い集団の中だけの話なのだ(むしろ、所属集団から抜け出すことのリスクは昔のほうが高かった)。
 だから「コミュ力」に振り回され、承認をめぐる病におちいっている人がいたら、その集団に所属していることの価値から見直してもらいたいとは思うのだが、だがしかし、その真っ只中にいる本人にはなかなか見えにくい地平だろう。本来的には他人にどう評価されようと自分の承認は自分で行う、という境地に至れるのがいちばん健康的なのだろうが、これにはやはり成熟を必要とする。
 
 ただ、せめて自分をさいなむのは過度な承認欲求なのだ、と知るだけでも、だいぶ気負いは軽くなるかもしれない。
 「承認欲求」というのはたぶんに記号的価値、つまりレッテルみたいなところがあって、「承認元」にどれだけ信用力や説得力があるかは案外に主観的なものだったりする。こういう記号的価値は指摘されるまで気がつかないものなので、それは過度な承認欲求のなせるわざだ、と知ることは、幽霊の正体みたり枯れ尾花にも似た効果を発揮するかもしれぬ(山本七平の「空気の研究」における「水をさす」に近いかも)。

 ちなみに、同質的な空気を握り合う集団の中でもっとも恐れられているのは「お約束」が通用しないのに「堂々としている」人である。これこそ「異界」に連れていく人なのだ。


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