読書の記録

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もの食う人びと

2018年03月07日 | ノンフィクション

もの食う人びと

 

辺見庸

角川書店

 

辺見庸の「もの食う人びと」が世に登場したのはいまから四半世紀も前だ。当時ものすごい本が出たとたいそう話題になり、そのころ大学生だった僕も共同通信社の単行本を買って読んだ。圧倒された。

 

あれから時代は変わった。国際情勢もいろいろあった。中国はGDP世界第2位へと成長した。IT革命があり、リーマンショックがあった。9.11があり、3.11があった。しかし、あらためて読み返してみて、ことの本質はなんにも変わってないんじゃないかと思った。

 

くらくらするくらいに打ちのめされたルポのひとつにチェルノブイリ訪問がある。著者はかの地に訪れ、かの地に住み続ける人々と接し、そこで食される食べ物を口にする。読んでいて滅入ってくる村の光景の描写も、そこに住む人々のよせるやるせない思いと、そこにいくばくかの偽善の気持ちを隠そうともしない。その容赦なさが福島の今に重なる。このチェルノブイリの描写ー役人は大丈夫大丈夫と言い、住民の怒りと諦めがやり場もなくうずめき、そこの食べものを疑いながらも信じて食し、免罪符のような風説を信じる村の人々の姿を著者は哀れむが、これはいま現在でも福島にて継続されていることだ。チェルノブイリにある止まったままの観覧車の写真に胸をうつが、福島の避難地域のいまをうつす写真も、同じような止まってしまったままのコンビニや鉄道のものがあり、そのメッセージ力はまったく同じである。福島産の農産物がフェアで並ぶのをみると、僕は応援の気持ち、恐れる気持ち、偽善の気持ち、後ろめたい気持ちなどが整理できずにうずまいてしまうことを告白する。

 

ユーゴスラビア紛争におけるベオグラードやザグレブの荒廃した光景とそれでもそこに住む人々。僕は去年ザグレブを訪問していて平和な街そのものだった。きれいな路面電車が走り、ショーウィンドーは磨かれ、アイスクリームをなめながら人々は道を歩いていた。ここで描かれたザグレブの町はそういう意味では過去だ。しかし、そこから決して遠くはないシリアの街では、周知のとおり滅茶苦茶なことになっている。ソマリアの街モガディシオのルポも、米軍やUNが撤退してしまったいまどうなっているかはわからないが、南スーダンで同じようなことになっている。

 

従軍慰安婦を尋ねる項では、むしろ本書が刊行されたころのほうが、日本では着目している人が少なかったと思う。

児童労働も女性差別も異民族の排他も貧困と病も現代技術科学からの隔離も禁漁もここでは出てくる。

 

 

さいきん「SDGs」が注目されている。サステナブル・ディペロップメント・ゴールズ。日本語では「持続可能な開発目標」。17のゴール目標が掲げられている。目標1は貧困をなくそう。目標2は飢餓をゼロに。目標3はすべての人に健康と福祉を。目標4は質の高い教育をみんなに。目標5はジェンダー平等の実現。目標6は安全な水とトイレ。目標7はエネルギーをみんなに、クリーンに。目標8は働きがいと経済成長。目標9は産業と技術革新。目標10は人や国の不平等の是正。目標11は住み続けられるまちづくり。目標12はつくる責任つかう責任。目標13は気候変動対策。目標14は海の豊かさを守る。目標15は陸の豊かさを守る。目標16は平和と公正。目標17はパートナーシップで目標を達成する。

 

なんと四半世紀前の「もの食う人びと」はSDGsの17の目標につながる現状のほぼすべてを描いたのである。ここにないのは目標13の気候変動くらいか。地球温暖化が取りざたされるようになったのは21世紀になってからだ。

そして目標17のパートナーシップで目標を達成する。「もの食う人びと」に出てくる人々ー弱い立場の人々は、国や組織の上の部分最適なふるまいの犠牲になった者たちだ。利己のぶつかり合いがどれだけ弱い人々を傷つけ、破壊するか。非パートナーシップこそが諸悪であり、これほど罪なことはないとさえ思えてくる。

 

 


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