読書の記録

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よつばと!(第15巻)

2021年03月01日 | コミック

よつばと! 第15巻

あずまきよひこ
KADOKAWA

 

 連載開始18年目にして、物語はようやく第1話から半年が経過したという「異化」としか言いようのない実験的作品にいつのまにやら大化けした本作であるが、不覚にも本巻最終話「よつばとランドセル」で涙してしまった。Amazonのレビューを観たら同様の人が多かったようである。

   なので今回は久々にマンガをとりあげる。いちおう内容を説明しておくと6才の女の子「よつば」と、育て親「とーちゃん」(血の繋がりは無い?)を中心とした超絶日常系マンガである。

 このブログでも実は過去に一度扱っている。それは13年前。なんと第7巻である。

 よつばと!における「とーちゃん」のよつばに対する距離感の取り方は、僕の育児においてなかなか影響を受けるものであった。
 うちの長女が喃語から幼児語を話すようになったころのコミュニケーションの取り方を、僕はまさに「とーちゃん」に見習っていた。その本質は、こちらはガチのテンションでコミュニケーションをするというものだった。こちらは幼児語も甲高い声も用いず、適当な応答で済ませもせず、通常のボキャブラリーと声色で、しかし全力で子どもの相手をするというものだった。つまり「とーちゃん」のスタイルである。
 それがどこまでうまくいったのかはよくわからない。子どもにとってよかったのかよくなかったのか、それとも関係なかったのかも不明だが、このコミュニケーションスタイルは、そのやりとりを見ていた保育園の先生方からはなかなかユニークなものと映ったようだった。


 「よつばと!」に限らず、僕の育児におけるマンガの影響や参考はけっこう多かった。宇仁田ゆみの「うさぎドロップ」とか榎本俊二の「カリスマ育児」は繰り返し読み返していた。父親の育児がテーマになっていたことが大きい。

 たとえば「うさぎドロップ」では、主人公のダイキチが祖父の隠し子であり遺児となった「りん」をひきとって父親代わりになる話である。保育園の送迎や子育て時間の確保のため、ダイキチは所属していた残業上等の営業部の部署から、定時退社の部署への異動を上司に願い出る。ダイキチはそれを出勤途中の電車の中で決心するのだが、そのときのダイキチのせりふは“やっちゃうか…?”というつぶやきであった。
 この“やっちゃうか…?”はなかなか僕に効いた。カッコいいと思った。そして僕は当時、職場の僕の上司に定時退社ができる部署への異動を願い出たのだった。まだイクメンというコトバが世の中に出る前のことで上司はかなり慌てたが、幸運なことに上司はさらにその上と相談してくれて、僕は当面のあいだ終業ベルがなると同時に会社を出て保育園に娘を迎えにいく毎日となった。
 あの時の僕の決心を後押ししたのは「うさぎドロップ」の“やっちゃうか…?”だったのである。

 榎本俊二の「カリスマ育児」では、作者の娘のアトピー治療の話が出てくる。
 我が長女にも1才になる前からアトピーが出ていた。アレルギーはけっこうひどくて牛乳も卵もダメだった。小児喘息でもあった。小児科の先生は厳しい現実を言い、妻はなかなか悲壮にくれていた。
 そんな中、「カリスマ俊二」の作者は、マンガ表現の誇張の上であろうが(なにしろ榎本俊二である)、このアトピー治療を陽気なギャグとテンションでやっていくのだ。初めての育児においてこれはかなり救いだった。アトピーとはこうやってつきあっていけばいいのだ、と思った。


 そんな長女もいまや花のJKであって、アトピーは完治はしてないもののだいぶよくなったし牛乳も卵も平気になった。喘息も引っ込んだ。女子高生らしく学校の部活やら友達とのLINEやらYoutubeやらの毎日を送っている。「よつばと!」も当初は僕の部屋の本棚に並んでいたが、いつのまにか全部彼女の部屋のほうに持っていかれてしまった。よもや自分の子育ての参考にされていたとは夢にも思わないだろう。
 このペースでいけば次の第16巻が出るころは、もう長女は成人なんじゃないかと思うと驚愕的ですらあるが、その巻を手にするのはどちらなんだろうとか、そもそもその時に彼女はまだ家にいるのかなどと、陳腐ながら時の流れを思う次第である。「日常という奇蹟」とはよくぞ言ったりだ。


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