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われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか 進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略

2021年03月13日 | 歴史・考古学

われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか 進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略

ウィリアム・フォン・ヒッペル 訳:濱野大道
ハーパーコリンズ・ジャパン


 原題は「THE SOCIAL LEAP」である。直訳すると「社会的跳躍」となる。
 翻訳本の中には原題のニュアンスに沿わない邦題をもつものが多く、本書も原題とはまるで異なる。原題のほうが人類史のスケールと奇蹟を感じさせる。では、この邦題がダメかというと実はそうでもなく、内容を端的に言い表してはいる。この「社会跳躍」とはどんな本かと問われると、たしかに回答としてはこの邦題ということになるのだ。
 つまり、われわれ人類が、嘘をついたり、自信過剰になったり、お人好しになるのは、脳みそがそう働くからである。そして、なぜ脳みそがそう働くのかというと、20000年の人類史の中で、そうしたほうが生存確率が上がる時代が長く、そのように脳みそが最適化されたたから、というのが本書の主題である。
 さらに、特にそのような心理を生んだのが本書よれば原題である「社会的跳躍」となったエポック、すなわちジャングルから離れて草原地帯に立ったとき、それから狩猟生活から農耕生活にシフトしたときであった。生活環境の激変の中で生き残らなければならなくなったとき、我々の心理において嘘をついたり、自信過剰になったり、お人好しになることが生存上有利になることが働いたのである。
 要するにこの本は、ハラリの「サピエンス全史」の心理版と言えるだろう。

 本書の仮説として面白いのは、人間が動物と異なるのは「社会の中で行動する」というところだ。いや、蜂だって狼だって猿だって「社会」なんではないかと問いたくなる。が、人間のそれが決定的に違うのは、ここに「駆け引き」が存在することだと本書は主張する。
 つまり、集団の中で自分がいかに安全で得があるポジションをとるかというのを企てるのが人間の特徴なのである。
 たとえば集団で狩りを行うとする。狩りは労力を使うし、危険も多い。したがって怠けたくなる。どうせ一人くらい抜けても多勢に影響はないし、個人的には楽で安全である。だが、もちろんこれは良くない結果を迎える。集団からはあいつは協力的でないとして獲物の分け前をもらえない。これはすなわち得ではない。
 だからといって率先的に狩りの先頭にたつと、今度は危険である。したがってほどほどのところでほどほどの活躍にしようという気持ちがはたらく。ここに絶妙なバランスがある。
 しかし、狩りの先頭に立つことは、自分は他人よりも「強い」ということを周囲に誇示することができる。仮にその人が「男」だとすると、そういう強い「男」は、「女」から「モテる」。「女」からすると、強い男のほうがDNAを継ぐ子孫の生存率が高いからである。その意味では少々危険でも狩りの先頭に立つことはDNA的には「得」になる。
 では、体躯も筋肉も明らかに他と比べて劣った「男」はどうすればいいか。狩りの先頭に立つわけにはいかない。でもそんなポジションでは「モテない」。モテるかモテないかというのは「性淘汰」という観点で厳しい生存競争なのである。
 そこでその小さな男は、狩りでは後塵を拝しても他の「男」の誰もができない罠づくりの技術を磨くことにした。その結果、彼は罠づくりの「専門家」として、集団から一定のリスペクトを集め、それなりに「モテる」ようになる。
 ほかにも、力も指先の器用さも持ち合わせないけど、その人柄でやたらに他人から支援の手を差し伸べられるのもひとつの生存戦略である、いくら腕っぷしが強くても、他人に危害ばかり加えていれば、集団からは嫌われ疎まれ、ある日目覚めたときに自分ひとり荒野の真ん中に取り残されて仲間はみんな彼を見捨てることだってありえる。いくら彼が強くても、独りでは荒野では生きていけない。この、一人一人は弱くても徒党を組んで強いやつを駆逐するという連携プレーも人間に顕著なことらしい。
 
 つまり、役割分担やなにがしかのヒエラルキーがある集団、しかもその中でポジションをめぐって生存をかけた相互の駆け引きがある。こんな集団の中でのかけひきをやる動物は人間の他にはない。
 こういった人類史の中で、集団の中で自分はどう見えているかに対してのアンテナは敏感になり、それをつかさどる脳みそが発達していった。農耕社会になると、狩猟社会にくらべてより集団規模と役割分担が大掛かりになり、ますます社会の中でいかに立ち振る舞うかの生存戦略はシビアになっていった。
 そうなってくると、より自分がまわりよりも優秀であるかを誇示するために嘘をついたり、あるいは自分を優秀と信じたいために自信過剰になっていたり、他人の好感を得ようとしてお人好しになっていったりもする。これらはもちろん行き過ぎると仲間から総スカンをくらって報復されるが、生存上有利になる一定の効果はあったのである。

 これがわれわれがなぜぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのかの理由である。そのほうがモテて、安全で、余得のあることが多かったからなのだ。

 
 こうしてみると、どの組織や地域にもいる「イヤなやつ」。嘘つきだったり傲慢だったりケチだったり他人を踏み台にするやつも、彼らなりの生存本能なんだなと思う。「社会」というからみんな規律正しくて合理的で公正的な動きと結果を期待されるが、人間の脳みそにとってはこの世の中は社会Societyではなく、20000年このかた世界Worldのままなのだ。生態系であり、生存競争なのだ。したがって誰もが自分と自分のDNAのための生存のために直接間接ウオの目タカの目で駆け引きをやっているのだと思うほうがよっぽどこの世の眺めとしてしっくりいくなという気がする。


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