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ある町の高い煙突(ネタバレ)

2018年03月26日 | 小説・文芸

ある町の高い煙突(ネタバレ)

 

新田次郎

新潮文庫

 

本屋で平積みになっていて、「あれ? 新田次郎にこんなのあったかな」と思った。新潮文庫の新田次郎、黄色い背表紙は一通り把握していたつもりだった。

どうやら映画化するようで、そのために文庫で再販という運びになったらしい。初出は1968年ということだ。

この小説は、日立製作所の前身となった茨城県の木原鉱業所銅山における煙害をめぐっての企業と周辺の村の物語であり、やがては当時にして世界一となる大煙突建設へと結実する物語でもある。事実をもとにした小説ということだ。

帯の宣伝コピーは「今日のCSRの原点」。

 

1968年という連載当時の時代背景に留意する必要がある。日本において「公害」というものが露骨に社会問題化されたころだ。俗に四大公害病と言われた、富山県神岡鉱山のイタイイタイ病、熊本県水俣市の水俣病、三重県四日市市の四日市ぜんそく、そして新潟県阿賀野川流域の第2水俣病が、国として公害認定されたり、企業と裁判を繰り広げられたりしていたのがこの時代である。

そういうところにこの小説は登場したわけだ。当時の企業や国ーー被害の原因を他責にしようとした企業や国に対しての強烈なカウンターとなったと思われる。

 

もっとも本小説においても鉱業所を所有する企業である木原製鉄所は一枚岩ではない。この煙害において心の底からなんとかしなくてはと考えていたのは経営者の木原吉之助(当初は不遜な経営者っぽいがやがて肝の座った力強いリーダーになる)と技術課の加屋淳平くらいで、あとはひたすらことを荒立てずにすませたかったり、そもそも村民をよく思わない重役や社員たちであったりする。また、この騒ぎにかこつけて「煙害虫」こと活動家や県議員もぞくぞく登場しては村民をアジったりする。

もちろん村側も一枚岩ではない。むしろ結束のなさという意味では村がもっとも足並み乱れているといってよい。村の運動の中心を担ったのは(というより外堀を埋められた形で担ぎ出されたのは)この小説の主人公、関根三郎だが、確かに彼のバランス感覚なくしては、この入四間村の運動は体をなさなかったのではないかとさえ思えるし、その三郎の働きも、そもそも木原や加屋がいなければ実らなかったのではないかという気もする。

むしろ、企業側に木原や加屋という人材が存在し、村側に三郎という傑出した人間がいたことが、この煙害事件にとって幸運だったと言えるだろう。

 

煙害対策としての大煙突へと収斂していく物語はたいへん明確なのだが、この小説のもうひとつの主眼は、やはり近代と前近代の戦いということもできる。なぜ「公害」が起きるのかは、ここに近代と前近代の矛盾をみるからだ。日本を諸外国に負けないためにする近代化のための前進と、もともとそこにあった前近代の社会基盤維持はどちらも正義の一側面であり、この矛盾が「公害」となって現れる。「害」そのものは絶対的に存在するにしても、害を微小におさえるか拡大させるかは加害サイド被害サイドそれぞれにかかわる人間たちの価値観、行動様式とも関係してくる。

産業革命をはじめとする世界史のすべてが証明しているように、技術開発は時代のパラダイムシフトと両輪の関係にあり、そのなかで古い慣習や価値観は急速に捨てやられる。しかし、その「古い」価値観もその後の振り返りで「あれは古かった」となるのであって、当時としては十分に正義の考え方であった。

この小説でも、煙害にみまわれた足元の村は明治維新以前からこの地でなりわいを営んできた前近代的な村である。当然ながら前近代的な文化、風習、思想、いわゆるパラダイムというものが根強く残っている。この束縛力は想像以上に大きい。企業側にも古い価値観の人間が登場するが、この小説でもっとも「前近代」的なのは、関根三郎が養子に入った関根家の祖母にあたる関根いねだろう。

 

祖母いねにとっての正義とは、関根家を守ることにあった。いねの家にかける執念はすさまじい。

この小説は15才の関根三郎と3歳のみよの登場で始まるが、みよは三郎の許嫁であった。三郎は、関根家を継ぐために養子として迎え入れられたのである。スウェーデンから赴任してきた技師オールセンは、三郎の傍らにる3歳のみよの姿を見て「それはまことに東洋的、神秘的婚約である」と繰り返した。

いねは、なんとしてでも三郎とみねを結婚させねばならない。それの障害になるものはことごとく「悪」であった。みよが水戸の女学校に行くことも反対する(けっきょく、みよの説得に折れるのだが)。三郎が他の女性と会うことを極度に警戒する。三郎は、加屋淳平の妹千穂と恋仲になろうとするが(みよもまた複雑なながらその2人の仲を肯定するが)、いねは文字通り全身全霊でそれを阻止する。三郎とみよと千穂の3人で写った写真に鋏を入れ、あまつさえ千穂を先祖伝来の呪術をつかって呪い殺そうとする。この地は、世界最新の気象観測法を試される地であると同時に呪術が生きている地でもあったのだ。

大煙突の操業がついに始まったその日、千穂が肺病の末に亡くなる。病院から訃報が届けられる。それをみていねは喜ぶ。「煙が退散してよかった。悪い奴は一度に退散した。このわしの念願がかなったのじゃ」といって赤飯を炊く。

悪い奴とは千穂のことである。しかしいねは決して悪人ではないのだ。これが彼女の正義であり、前近代の正義だった。「皮肉であり暴言であったが、関根家を守ること以外に、なにも考えていないいねの身にとって見れば、煙も千穂も悪い奴であるに違いなかった」。

三郎はみよと結婚し、村のしきたりにしたがっての祝義を挙げ、伝統的なやり方を踏襲して初夜の床へと至る。

 

何が勝ちで何が負けかは簡単には言えない。煙害の件で三郎は村を近代化(むしろ旗をたてて一揆よろしく暴力的に殴り込みをかけるのは前近代の美意識である)させ、企業を近代化させ(生産のために村は犠牲になればいいというのも前近代的価値観である)、大煙突という解決に導いた。三郎は前近代に勝利した。しかし、千穂とは添い遂げられず、当初の夢だった外交官にもなれず、どころか高校への進学もあきらめて村に留まり、村の代表として東西奔走し、関根家の12才年下の長女みよと結婚し、その後も村に留まる人生を選んだ。ついには関根家の後継者になる。ここにおいて三郎は前近代に敗北したとも言える。

公害は近代化と前近代化のはざまで起こるが、そのはざまとは単に時間軸の節目というだけではない。近代的な公害解決に走り回る三郎の足元をつかんでいたのは前近代の土壌だ。技術としての近代、思想としての前近代、教育としての近代、規範としての前近代。新田次郎は、大煙突の足元にそんな近代と前近代の輻輳するパラダイムをみたのだと思う。

 


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