読書の記録

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生と死を分ける数学

2020年11月11日 | サイエンス
生と死を分ける数学
 
キット・イェーツ 訳:富永星
草思社
 
 歳のせいか、本を読んでもなんか頭に入ってこない具合がひどくなっている。記憶に定着しないとでもいうか。読んでいるときはなにか面白くてためになることが書いてある気がするのだが読み終わるともう忘れているのである。一説によると、歳をとると生きてきたぶんだけ脳内に蓄積されたメモリーの量も溢れ気味になって、情報処理するときにエラーをおこし、うまく記憶が引き出せなくなるのだそうである。
 一度読んで頭に入らなかったのならば、また読み返せばいいのだけど、べつに必要にかられて勉強しているわけでもないし、義務感で再読しても面白くない。かといってそのまま忘却の彼方に葬り去られるのもくやしい。
 というわけで、同ジャンルの本を何冊か続けて読むことがある。読めばだんだんこの分野の基礎リテラシーがついてきて、少しは頭に定着しやすくなるし、同じエピソードが出てくれば、それは業界内で重要なエピソードなんだということがわかる。
 
 というわけで、「銀河の片隅で科学夜話」や「平均思考は捨てなさい」や「アルゴリズム思考術」といった数学にまつわる本を読んでいる。「銀河の片隅で科学夜話」に出てきた検査の偽陽性発生率が引き起こす勘違いの話がこちらでも出てきて、この業界では有名なパラドックスなんだと知る。「アルゴリズム思考術」に出てきたオバマ大統領がバブルソートについてコメントする話が出てきて、なるほど反響を呼んだんだなとわかる。
 
 本書で一番興味深いのは最終章、感染症のパンデミックシミュレーションを数学的に解き明かす数理疫学の章だ。本書が執筆された時点でコロナ禍はまだ起こってなかったため、本書の指摘は予言の書ともいえるし、あらためてコロナ禍を照らし合わせてみることで本書の当たり外れの点検もできる。
 それにしても、あの「人の接触を8割減らす」とか「2週間は自宅で待機」とかいうのはみんな数理疫学のシミュレーションだったのだということが本書でわかる。7割でも10日間でもないのはしっかりとした計算根拠があるのだ。
 本書によれば、その数理疫学を活用して封じ込めに成功したのがエボラ出血熱とのことだ。しかし、西アフリカでおきたあの伝染病も、終結宣言が出るまでは2年半かかったそうだ。ということは、全世界に広がったコロナに終結宣言が出るのはいつのことだろうか。(そのまま風土病になる可能性もある)。
一方、イギリスにおける麻疹の再流行の話も興味深い。反ワクチンキャンペーンのため、ワクチン接種率が90パーセントから80パーセントに減ってしまった。たいして減ってないように見えるが、実はこのスコアの間に事態を相転移させる閾値が存在した。麻疹の患者はなんと20倍に増えたのである。ネットワークインパクトの恐ろしさをみる思いがする。
 
 ところで、本書のタイトルにある「生と死を分ける」、なかなか剣呑なタイトルだが、これが本書のコンセプトである。数理疫学なんかはその最たるものだろう。
 とはいうものの本書でとりあげられる事例の多くはもっと生臭い。数字というのは客観性の代名詞みたいなもので、しばしば証明や証拠に用いられる。しかし、その数字を用いるのはやはり人間であって、使い方を間違えると本人の意図に関わらず大変な結果をもたらす。まして人の命や人生がかかっているときは。本書ではそういう数字の間違った使い方による被害者、犠牲者が次々出てきて暗澹たる気持ちになる。
 
 とくに顕著なのは「統計」である。
 統計がいかに胡散臭いものであるかは「統計でウソをつく法」という古典的名著があってこれは文系理系問わず読んでおいて損はないと思うが、統計に限らず、何かの数字が誰かへの説得に使われるときは、ほぼ間違いなくその数字は客観的中立的根拠ではなく、説得のレトリックとして都合よく用いられると思ってよい。あからさまな「嘘」は少なくとも、いい加減だったり歪曲されたり、都合の悪いものは隠された統計の引用例はごまんとある。しかし、数字のもつ信頼感(宗教といってもよい)は、市政の人間を動かすに十分な力がある。
 説得に統計を持ち込んだのはナイチンゲールが最初だという説がある。これをして彼女のことを「統計学の母」と呼ぶむきもある。ナイチンゲールをペテン師視するつもりは一切ないが、ナイチンゲールはイギリス政府を動かしたくてその説得の材料に統計を用いた。この「動機」は事実である。実際にイギリス政府は、ナイチンゲールの示した統計によって動いたのだった。統計とハサミは使いようである
 
 
 「統計」についつい説得されてしまうのは、人が「数字」が示す肌感に弱いということでもある。人間の想像力を刺激してしまうのである。
 しかし、人間の想像力が追いつきにくい「数字」というのもある。そしてこれがまたその想像しにくさゆえに、人の生死に関わったりする。その代表例が「指数関数的増加」だ。ねずみ講とかウィルスの増加などでみられる増加スタイルだが、どうも人間が生理的に持つ想像力と相性が悪く、その本質をなかなか脳みそが受け付けようとしない。サイエンティストならばともかく一般の生活者にとっては直観的にそれを感じる機会がなくて抽象的になりがちなためか、なかなか適正な把握ができない。よって放射線の被ばく量を表すシーベルトのグラフや、リボ払いの複利計算などで、本来とは違う直線的増加に誤解釈してしまい、過剰な心配をしてしまったり、逆に過小評価しすぎて大変な目にあったりする。本書は翻訳書なので、すなわち指数関数的増加に人間の想像力が追い付かないのは万国共通ということらしい。
 ただ、教えれば”あれが指数関数的増加だったのか”と多くの日本人が持っている原体験がある。
 それは、ドラえもんの「バイバイン」だ。あのマンガやアニメを子供のころにみた人は、その指数関数的増加の恐怖を原体験的に味わっている
 いちおう説明しておくと、バイバインとはドラえもんのひみつ道具のひとつ、この薬を垂らした栗まんじゅうを、5分間ほっておくと分裂して二つに増える。さらに5分待つとそれぞれが二つに割れて全部で4つになる。わあ、おやつが沢山になったぞ! オチは推して知るべし。指数関数増加の性質を持つものは原則として警戒すべきなのだ。宇宙に打ち上げられたあの栗饅頭は、そろそろ自重に潰されてブラックホール化しているかもしれない。

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