読書の記録

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SDGsの正体 メディア報道ではわからない真の目的とは

2020年11月09日 | 環境・公益
SDGsの正体 メディア報道ではわからない真の目的とは
 
村井哲之
PHP研究所
 
   SDGs。SUSTAINABLE DEVELOPMENT GOALS。持続可能な開発目標。日本でもだいぶ巷間に知られるようになってきた。絶対善の象徴のようになりつつあるから、そろそろこういうアンチテーゼの本が出てくるんじゃないかと思ったらまさかのPHP社とは。
 
  もっとも、本書はSDGsを決して否定してはいない。強いて言えば、生兵法は大怪我の元みたいにしてSDGsをとりあげている。ただ、そのやり方が全体的に露悪趣味というか、やさぐれたテイストで、品の悪いB級本のような体を醸し出している。それが作戦なのかもしれないが、なにもこんな編集方針にしなくても真っ向勝負で切りこめたんじゃないかとも思う。
 
 SDGsに限らないのだけれど、なにか倫理的・公共的なものにふれたテーマの議論は、正論の暴力というか、誰しもがNOと言えない正論を武器に議論を前へ前と進んでしまうことがよくある。それは倫理や公共というものがもともと内包している性質とも言えるだろうが、ある種の思考停止というか、議論のための議論になりやすい陥穽を性質上そもそも持っているともいえる。したがって、この手の議論は重要ではあるが罠にはかからないリテラシーを要する。ゴドウィンの法則というのがあって、何か長引いた議論で誰かがナチスやヒットラーのことを持ち出したら、その議論はもう続けるべきではない、というものだが、これなんか正論の罠にかからないためのひとつの手段であろう。
 
 もはや一昔前の印象がある地球温暖化にて京都議定書が喧しいころにも同様のことを思っていたが、SDGsも列強各国の覇権争いという性格は多いにあるだろう。技術開発や経済水準で米国におされがちなヨーロッパが自分に有利なルールを敷いてゲームの機先を制しようとするのはSDGsに限らない。アメリカがパリ協定から抜けようとするのも、そんなヨーロッパの動きの牽制とみることもできる。
 ただ、「development」というなんとも適度な言葉を、世界秩序のために持ち込んだのはアメリカだと指摘したのは、世界システム論で有名なウォーラーステインである。もともと西洋史観では、西洋の価値観や歩んできた歴史をスタンダードとし、それに劣るものとしてのアジアアフリカ諸国や東洋諸国(つまり中国とのその周辺)、という世界の見立てが主流だった。レヴィ=ストロースなど思想の世界ではそれに異をとなえることはあったが、人々の常識的価値観はそんなものだった。文化人類学とは珍なるものを収集する博物学であって要は見世物であった。戦後は、このような格差観は望ましくないと、少なくとも表向きにはそうなって、アカデミズムとしては文化人類学や東洋学は、西洋とは「異質ではあるが対等なもの」と見做すものとして台頭した。そして経済活動においては「development」という言葉が持ち込まれた。
 「development」は、日本では「開発」という訳語があてられたが、実際には成長とか発展とか展開とか、もう少し広いニュアンスを含んでいるようで、日本語感覚でドンピシャな適語がないっぽい。ただ、端的に言うと「development」はすごく上から目線で自分主義な言葉なのである。「こちらがかかげた理想ゴール地点まで現状を変容させていく」という意味合いがある。
 アジアアフリカ諸国と先進国の間にある格差を格差のままにして収奪する仕組みはよろしくない、ということになって、アジアアフリカ諸国の経済発展を促すものとして「development」は導入された。しかしこれは先進国の贖罪でも無償の援助でもなく、やはりビジネスモデルなのである。欧米同様の技術様式・生活様式に至らせることで、西洋がもともともっていた技術インフラ・生活インフラを援用させ、西洋中心のグローバル経済にとりこむビジネスモデルなのであった。アジア・アフリカを植民地時代の文明文化水準のままにしておくのは忍びないからそれを西洋諸国まで引き上げる、ただし経済システムや資本は西洋中心のままであるというのがdevelopmentの含意である。
 つまり、西洋史観が本来もっていた欧米白人主義は根強く残っていて、彼らが設定するところの理想的なゴール像にむけて段階的に「後進」国や「発展途上」国を変容させていく、というのが「development」である。アフリカの医療水準があがり、アフリカの乳幼児死亡率は下がる一方で、もうかるのは欧米の製薬会社である。一見Win-Winだが、実は逆のパターンは一顧にされていない。逆のパターンとは、ボルネオの森の民は、ボルネオの森の民として持続可能かつそれなりに秩序と平和が保たれた技術様式・生活様式―それは自然資源との共存の在り方とか、金銭を介さない経済循環の在り方とかあるがこれを欧米が評価・導入して、欧米の過剰なエネルギー依存や資本依存を減退し、逆に西洋がもつ知恵や技術をボルネオがボルネオの様式のままさらに安定的な秩序と平和に資するようにするという発想は一切に無い。ボルネオは極論だということであれば他の国でもよい。ベトナムなんかは生活水準の充実度と地球環境への負荷度のもっともベストバランスな国として算出されたレポートもある。しかし、アメリカもヨーロッパも日本も、みんなベトナムを開発目標にしようという話にはならないだろう。
 つまり、アジアアフリカ諸国も「欧米同様の技術様式・生活様式」に至ればそれは先進国と格差がない、という前提があり、人間的で平和な世界という錦の御旗のもとに「development」は行われる。
 
 SDGsの前身は、MDGs「ミレニアム開発目標」だった。これは対象国が後進国や発展途上国に限定されていた分、先の「development」の意味合いがもっと露骨に出ていた。SDGsでは、「発展途上国」だけでなく「先進国」もなすべきことがある、というアジェンダが設定されて196か国すべてが同じ目標を背負う、ということになった。
 が、MDGsからSDGsと名を変えたこの時点で、「development goals」という言い方が継続されたところに、連中の本音が垣間見えているとは思う。あるいは彼らの無意識が露呈されていると言うべきか。設定された17の目標も国連196か国の総意ということになってはいるが、それぞれの目標の達成手段が欧米諸国が持つ生活様式や技術様式に依存することが大なのは暗黙の了解である。
 
 
 というところまでを十二分に理解し、「儲ける仕組みを作りながら」「17目標の達成につながるようにする」のがSDGsの在り方である。こんなことは欧米諸国も中国も多くの人間が知っているし、日本だって勘のいい人はわきまえているのだろう。性善説・性悪説・偽善・偽悪をすべて織り込んだゲームとして、プレイヤーたちはシノギをやっている。
 
 が、これが教育とか倫理の文脈が立ちすぎていて、経済的側面が見えにくいのが市井で多くみられるSDGs状況と言えるだろうか。
 どちらかというと「社会的責任として、弱者や環境にも配慮した生き方をしなければならない」という点が強調され過ぎて「儲ける仕組み」部分が影に回りすぎているきらいがある。これには日本特有のいくつかの背景があるには思う。
 
 もともと、「金儲け」をよろしくないもの、とする美学が日本にはある。「守銭奴」という言葉があるように、「儲け第一主義」は薄汚い観点がある。が、これが転じ転じて、「人様を助けること」と「お金儲け」は分離すべきという価値観にいきついている。稼いだ金から「寄付」するのは偉いが、税金対策だとなるととたんに非難の対象になったりする。NPO法人活動を多く勤めた谷根千工房の森まゆみは、NPOが儲かるのはおかしいという誤解があると指摘している(スタッフの人件費や次の活動資金のために利益確保は絶対に必要である)。
 したがって、「わが社は稼いでいますが、一方でこうやって人助けもしてますよ」という、なに金儲けの「免罪符」としてSDGsを使う企業や団体が増えてきた。発想の前提として「儲けること」と「17目標の達成につながるようにする」が別のことなのである。これは企業メセナとかCSRという前例があったため、その発想の延長にとらわれていると言えなくもない。
 
 また、近江商人の「三方よし」を引き合いに出して、日本はもともと「SDGs」の精神があるのだ、と自信満々にいう言説をあちこちで見るが(本書にもでてくるが)、どうもこれも思考停止の罠なんじゃないかと思っている。SDGsはもっと覇権をかけたビジネスゲームなので、うちは「三方よし」なんですなんてニコニコ言っていると、あっという間に乗り込まれて顧客も社会も収奪される気もする。耳障りのいいスローガンをかかげた日本企業がいつのまにかプラットフォームをすべてGAFAにとってかわられたのは、ここらへんの温度感の違いもあるんじゃないかと思ったりする。
 
 「SDGs」がはらむ問題というのは、「sustainable」と「development goals」がくっついたところにあるのでは、というのが僕の直観である。
 現在地球上にある人類や自然環境上の問題が存在することは事実であり、野放しにできないことも事実である。ほっておけば地球の気温は取り返しのつかない高さにまで上昇する。つまり「sustainable」は絶対に外せないアジェンダなのである。要は「sustainable」だけでいいじゃんということなのだ。気温も海洋も病原菌もエネルギーの確保も待ったなしである。なにかしなければならないのは確かなのだ。そこに17個の開発目標ルールをおいたところにSDGsゲームのルール設定者の我田引水の引き金がある。だから本書が「18番目の目標を勝手につくればいい」というのは一見乱暴でありながら、実はコトの目的と手段を明確に分けた切り込み方で、けっこう本質を突いていると思う。とにかくいまなんとかしなければならないのはSustainableだ。Development Goalsではない。

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