読書の記録

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コドモダマシ ほろ苦教育劇場

2008年09月25日 | 生き方・育て方・教え方
 コドモダマシ ほろ苦教育劇場---パオロ・マッツァリーノ

 「反社会学講座」で一世を風靡した謎の千葉在住イタリア人? の新刊。「どうして学校に行けなければならないのか」など、厄介な質問をしてくる子供に説明する際のひとつのヒントにはなりそうだけれど、これまでの著作に比べると過激さはだいぶマイルドで、先入観をひっくりかえすような技もあまりない。むしろ今回は、ブックガイドとしての性格が強い本かもしれない。

 著者の持ち味は、統計データを逆用(あるいは悪用)したプレゼンテーションと、「ロジックよりも実用性」という信念にある。
 社会発言なんかで引用される統計データのほとんどは、結果が先にあって、それに都合がよいデータだけをひっぱってくる、という使われ方が圧倒的に多い。だから、互いに矛盾しあうデータなんてのはその気になればいくらでも探せるし、つくることもできる。勝手にデータを捏造する、という意味ではなくて、調査の対象となるサンプルのとり方とか、比較対象の選び方とか、アンケート文の書き方など、いくらでも匙加減が可能で、結果は自由自在なのである。「最近の若者は利口になっている・バカになっている」「ケータイは教育にいいと思う・悪いと思う」「麻生総理は国民に期待されている・期待されていない」なんてのは、どちらでもそれを証明するデータがつくれると思う。
 で、これは「統計データは信用できない」ということではなくて、それだけ現実の世の中は一筋縄ではいかないということだ。一人の人間の中に天使と悪魔が共存するように、互いに矛盾しあうものが並存するのが現実の世の中なのだ。最近の若者は利口になった面もあるし、バカになったところもある。ケータイが教育にいい部分もあるし、悪い部分もある。ある部分では麻生総理は期待されているだろうが、ある部分では期待されていない、ということだ。
 つまり、ロジックなんてのはいくらでもつくられるということ。

 ロジックがなんとでもつくれるのなら、大事なのは、どのロジックが、この瞬間もっとも実用的か、ということになる。実用的というのは、他人と分かち合いやすく、行動にうつしやすいということだ。これを先に考えて、あとからデータをくっつければよい。ズルイ考え方のようだがこれを称して「仮説思考」というもっともらしいコトバもある。

 コドモダマシどころか、オトナの騙し騙されこそが現実の世の中。その現実の理不尽の荒波に耐性をつくるため、子供は学校に行って、いろいろな角度からの理不尽をシミュレーションしておくのです。

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