「ボクセルポリゴンな日々」 - UnityでMakersとVRをつなぐ挑戦 -

Unityプログラムで3DCGアセットデータをVRや3Dプリンターで利用可能にする最新技術や関連最新情報を紹介します。

PC版3DCGヒストリー(1990年代~95年~2000年)

2011年07月31日 20時25分42秒 | 3DCG
この7月、行き帰りの時間を利用してPCにおける3DCGの歴史についてツィートしていたのをまとめてみました。

少し読みにくい文章になっていますが、
時系列でまとめましたのでご覧いただければ幸いです。(^^)


●2011.07.20

◎ネットコンテンツにおいて非常に重要なファクターとして、
「いかにして新しい遊びを提案し、受け入れてもらえるようにするか?」
があります。
初期の3DCGブームも遊び感覚が発端で、自分だけの美少女を作らせる事で利用者のモチベーションを維持しようとしていたのです。

◎思い起こせば最初期の3DCGブーム(とは言えない程小さかったけど)もパソコン通信から始まりました。当時はPC雑誌が元気だったので色々と記事に取り上げられたり執筆したりでそれなりに楽しかったです。
勿論現在程情報がなかったので3DCG作品を作るのは大変でしたが。(^_^)

◎その時の3DCGは新しい遊びと言うより挑戦すると注目してもらえる新技術というテーマでした。自分達は苦しくも楽しい開発活動を大学時代から趣味としてやっていたのです。

◎そして少し時間が進んで社会人になった頃にパソコン通信の時代が始まりました。(^_^)


◎パソコン通信時代の3DCGは米で発表された技術をいかに模倣するかがテーマでした。その頃はまだPCのメインメモリが2MBしかなかったので、そのメモリで10万ポリゴンをアンチエイリアス付きで高速にレンダリングさせるプログラムを作ってました。(PIXARのREYESを参考にして。(大汗))

◎その状況が劇的に変わったのがWindows95の登場とInternetの普及でした。
これにより国際標準OS環境が出来たのと、海外の情報の流入で海外3DCGアプリが使えるようになりました。そしてパソコン通信で支持されていた従来の3DCGアプリはWin95への移行を余儀なくされたのです。

◎1995年は3DCG界にとっても転機の年でした。
阪神大震災が起こった年ですが、PC的にはWin95の発売も忘れられません。
この時意外にも市販の3DCGソフトは今よりずっと多かったのです。
しかしその大半がPC-9801とそのDOS上のコマンド環境で動く物でした。
しかもそれぞれ独自のGUIを備えていました。

◎95年当時の3DCGアプリは、主に2通りありました。
一つはとにかくレイトレーシング法で美しい絵を作る系。しかしモデリング機能はブーリアン演算で基本形状をくっつけたり削ったりが主であり、ポリゴンは扱えませんでした。その中で後にポリゴンベースのモデリング機能を持つ新派が現れました。

◎もう一つはポリゴンモデリング系です。レンダリングはZバッファ方やスキャンライン法を使って高速性を確保し、ポリゴン表現で様々なかたちを表現する事を目指したツールです。
中には最初からMac用として登場した物もあり、Win95以降のGUIを意識して開発されていました。(^_^)

◎かく言う自分もX68K時代からコツコツと3DCGアプリを作っており、94年にはDOSベースながら98とFM-TOWNSとDOS/V機上で動く3DCGアプリを雑誌上で発表したりしてました。
95年にはこれをWin95上に移植してパソコンショップで販売してたりしました。(^_^;)

◎私もそうですし、六角大王の作者の古島さんもそうですが、この頃パソコン通信を通じて3DCGアプリを発表してきた人達がWin95の登場を機に自作のソフトの市販化に踏み切ったのです。私の方は惨敗でしたが。(^_^;)


●2011.07.21:

◎昨晩からの続きです。95年はパソコン通信もまた転換点の前夜でした。この頃はニフティを始め大手も草の根も勢力を保っていて、中では様々なフォーラムや会議室に別れてそれぞれ3DCGの話題を扱っていました。画像データとしてJPEGが出回りだしたのもこの頃です。
(最初期のデジカメもです)

◎当時パソコン通信で注目され利用された3DCGアプリとしては、私の記憶の中ではMac系が多かったと記憶してます。仕事用にはElectricImage、ホビー側にSwevel3D、そして六角大王。PCではDOSコマンド系が健在でC-TraceやRAYTREC。

◎この頃のMac用3DCGアプリとしてShadeの存在も忘れられません。86年にPC98用のポリゴンベースモデラーとして当時パソコンショップで120万で売ってましたが、ある時突然Macに移植されたのです。95年の時点でもプロ用3DCGアプリとして定番でした。

◎95年当時は性能的な見劣り感が大きくなったとはいえ、x68000がまだ3DCG
アプリ実行機として使われていた時代でした。その理由はプロジェクトチームDoGA(現株式会社ドーガ)が阪大京大連合プロジェクトとして自主開発したDoGACGASystemがあったからです。

◎後日、流石にDoGACGASystemもいつまでもX68000のままではいられなかったので、Win95登場以降Windowsに移植され、DoGAGENIE(PC-FXGA専用アプリ)を経てDoGAL1,L2へと続く事になります。

◎さらに同じ68000系CPUパソコンの雄AMIGAからも動きがありました。それまでビデオ編集ツールVideoToasterのおまけだった3DCGアプリのLightwave3DがWindows用として独立した事です。これは後に国産3DCGアプリにとって強力なライバルとなります。

◎95年当時の3DCGアプリについて長々とツィートしてきましたが。総括すればこの頃3DCGがパソコンを通じて身近に触れられる存在となり、その可能性を広げる者達がパソ通から現れだしたという状況でした。PC上の3DCGはようやくプログラマと制作者が分離する時代を迎えたのです。

◎まだこの頃は3DCGで絵を作るだけで珍しがられた頃であり、流行り始めたCG絵師の第一次ブームに乗ろうとして皆がさまざまな模索を始めた頃でした。当時の3DCG映像はプロダクションがワークステーションと言う大型機を使って一千万位する3DCG映像制作ツールを使って作られていました。

◎さらにこの頃Macのアート志向はますます鮮明になり、ワークステーション並の高級機の立ち位置を確立しています。一部のPC利用者はこれらのプロ用機材への反抗心があり、PCへの3DCGアプリの開発熱が高まったようです。しかしWindows95の登場を契機にまた大きな波が起こったのです。

◎Win95以降の時代は、海外性の優秀な3DCGアプリが流れ込んで3DCGによる絵作りが一気に向上します。ワークステーションは存在意義を失い2000年頃に消滅します。個人用には高額ながら高い表現力を手にした者達は、次の3DCGシーンを普及が始まったインターネットに発表し始めます。

●2011.07.22

◎パソコン3DCGとネット(初期はパソコン通信)の繋がりは、古くは1990年直前位から語る事が出来ます。パソコン通信以前は日本に数種類あったPC用の雑誌を通じたユーザー交流レベルの情報交換から始まり、草の根と大手のBBSによる地域から全国への交流に移行発展していきます。

◎特に95年頃がパソコン通信の全盛期かつ最終盤でした。これ以降は皆インターネット接続に移行し、ニフティサーブなどの大手BBSはインターネット上にBBSサービスを移行します。
しかしそのここで会員制サービスに固執したため、大手BBSの利用者か激減する事になります。

◎私がニフティにお世話になったのは10年足らずでしたが、主に90年代前半が一番利用していました。勿論この間の大手BBSにおけるソフトウェアの蓄積は大きな物がありました。
その中にユーザーが作った3DCGアプリも含まれていたのです。

◎当時はネット上で3DCGアプリを公開するとそれなりに大きな反響を頂けました。こうした作成物の公開とその反応を楽しむというネット利用ユーザーの行動は今も昔も変わるところはありません。反響はすなわち多くの人とのコミュニケーションの機会を得る事になり、得難い経験となるからです。

◎95年にWin95が登場すると、初期に3DCGアプリをネットに提供していたユーザーは新時代を予感してベンダーになりました。しかしそれは新たな競争の始まりでした。海外勢が優秀な機能を持つ3DCGアプリを日本にもたらし、ネットユーザーにも本格的なCG映像制作が可能になったのです。

◎一方95年以降インターネットの普及が加速し、パソコン通信のユーザーはほぼ皆ホームページを持つに至りました。しかしそれはユーザー間の孤立を深めただけで、いつしか皆が自由に交流や発表が出来る場を求めたのです。そこに従来のタブーを破る形で過激な討論ができる場を提供した掲示板が現れます。

◎それが匿名掲示板「2ちゃんねる」なのです。その過激なルール故に急速に参加者を集め、今でも世界有数の巨大掲示板として存在しています。95年はPCの32bit化というエポックメイキングがあったのですが2000年近辺は掲示板において大きなエポックメイキングが進行していたのです。

◎95年は一通り書き上げたので、いよいよ96年から2000年辺りに話題を変えてネットユーザーと3DCGの流れについて話していこうと思います。筆者的には伝説化した雑誌CGHobbyに絡めたある意味幸せな時期だったと思っています。(^_^)

◎10年前を知れば10年後が分かると言ったのはチャーチルでしたっけ。過去には学ぶべき事例が沢山あります。今のツィッター時代もパソコン通信の昔と比べてそんなに中の人の傾向が変わったとは思えないのです。(^_^)

◎96年は自分の自作3DCGアプリを世にだしたほろ苦い年でした。(^_^;) 3DCGを多くの人に遊んでもらいやすくしようと考えた設計は完全に裏目に出ました。当時はハイパーリアリティが主流になろうとしており、それを強力に推進する新進の3DCGアプリが海外から進出してきたのです。

◎余談はともかく、Windows95以降のPCはそれまでより性能が格段に進化した事から話を始めます。
それまでのPCは最大発色1670万色中256色でも大したものでした。それがWin95により1670万色全部使える環境になったのです。今では何それ事ですが当時のPCはプアだったのです。

◎実はPCの多色化は結構昔から望まれてきてました。PC9801は長らく4096色中16色しか選択出来ませんでしたから、1987年に登場したX68000の65535色同時発色の性能には目を見張ったものです。
それがついにWin95時代には1670万色を同時に使えるようになったのです。

◎筆者としては95時代を前にしてCPU性能を伸ばせないX68000に見切りをつけて早々にDOS/Vマシンに乗り換えていた口でした。それ故にWin95時代は3DCGアプリの時代が始まる事を信じていました。しかし多色環境はさらなる表現力への夢をネットユーザーにかきたてました。

◎最初は少しずつ入ってきた海外製3DCGアプリの流れが本格化したのはLightwave3Dの登場につきます。LWの登場したを合図に次々とWindows上に本格的な3DCGアプリが開発あるいは移植されていきます。さらにこの頃マイクロソフト社がソフトイマージュ社を買収していました。

◎何故海外性の優秀な3DCGアプリがWindows95を契機に移植されるようになったか。その謎を解く鍵はもう一つあります。それらのアプリは高性能なワークステーションという機械の上で動いていました。それらの機械ではリアルタイムに3DCG形状データを表示する性能があったのです。

◎そのリアルタイム3DCG表示機能をサポートするオープン規格のライブラリであるOpenGLがWindows95以降のPCでサポートされるようになったのです。このためワークステーションは急速に競争力を失いました。引き換えに高性能3DCGアプリが大挙して移植されるに至ったのです。


●2011.07.24

◎96年以降、海外製の3DCGアプリでワークステーション専用の物がPCの高性能低価格化の波に乗ってWindowsに移植され始めました。または一部の高級PCでしか利用出来なかった3DCGアプリがWindows用としてリリースされる等の動きが出て来ました。

◎その中でこの頃一番躍進したのがLightwave3Dでした。このアプリは元々コモドール社製のAMIGA上で動くビデオ編集システム「VideoToaster」の付属アプリ扱いだったのですが、Windows用アプリとして独立ブランド化したものです。

◎何故Lightwave3D(以下LWに略します)がここまで日本市場で支持されたのか、その要因は幾つか挙げられますが、筆者としてはネットユーザーの注目と支持を集められたのが大きな勝因と判断しています。とりわけ様々な日本国内のCG及びアニメ作品のコンテストで注目を集めていました。

◎このLWの進出に刺激されて、様々な3DCGアプリがWindowsに進出を始めています。その中には元々DOS上で動く高機能3DCGアプリとして有名だった3DStudioがありました。Windows版では3DS maxとなり1999年にAutodesk社に開発会社が買収されました。

※ http://t.co/ga3XB4X
  植木等がボーカロイドで蘇る!我々は何て時代を生きてるんだ!!(^_^;)

●2011.07.25

◎話は変わりますが、筆者が3DCGポリゴンコンテンツでコミケに参加したのは97年頃です。当初は連敗続きで、3DCGポリゴンモデル作者さんと連合して作品集を出してからようやくちょっとずつ数が出るようになりました。(^_^;)

※ 当時のサークル名は「ぽりごん堂」でした。ここしばらくは参加を見送っ
  ていますが、来年には何か持って行きたいです。(^_^)

◎それと1998年にエリアス社が出したMAYAも忘れてはいけません。加えてカナダのソフトイマージ社が94年にマイクロソフト社に買収された際、自社の3DCGアプリのSoftimageがWindowsNTに移植される事となり、98年にavid社に買収された時PC向けの価格になります。

◎後にSoftimageは99年にプロトタイプのスマトラを発表、翌2000年にXSIとして販売を始めます。

◎ここにハイエンド3DCGアプリがPC上に一堂に集まる時代が始まります。この時代、ネット利用者の3DCGへの興味はもっぱらハイクォリティな画像や映像制作に向かっていました。

◎そうしたハイエンド3DCGの嵐が吹き荒れるPC市場で埋没を恐れたShadeの開発会社が、自社の3DCGレンダリング性能の存在感をアピールするため仕掛けたのが、漫画家のくつぎけんいち氏とのタイアップで作った3DCGの美少女「テライユキ」のプロモーションだったのです。

◎この国産3DCGアプリのShadeが仕掛けた「テライユキ」。これがいわゆる3DCG美少女ブームの嚆矢(こうし)となったのです。このブームに乗ってLWやMAXそしてMAYAなどの海外製アプリに人気が集中し、皆こぞってリアルな美少女モデル作りを目指したのです。

◎しかし3DCG美少女モデルの最初の流れはテライユキに始まった訳ではありません。最近AKB48に3DCGで作られたフェイクメンバーが加わって話題になりましたが、その発端は96年にホリプロが登場させたバーチャルアイドル「伊達杏子」です。(^_^)

●2011.07.26

◎昨晩はようやく3DCG美少女ブームの初めの方に言及しました。このブームは日本で初めてネット利用者に業務用クオリティの3DCG映像制作環境がPC上で利用出来る様になった事を周知するに十分でした。今3DCG関係の仕事に従事されている方はこの時のブームをご存知かと思います。

◎また、94年に登場した家庭用ゲーム機の初代プレイステーション等の存在も高機能な3DCGアプリの普及に一役買いました。この頃からゲームの制作現場に3DCGコンテンツは不可欠の存在になったのです。95年以降にはTV放送のアニメーション映像制作にも3DCGが使われだすようになりました。

◎そしてこの高機能3DCGの流れは2000年のプレイステーション2登場で一つのピークに達します。
ゲーム機の3DCG表現力が劇的に進化したのです。これ以降3DCGは静止画やムービー制作用途からゲーム開発へ用途が変わって来ます。技術面でもリアルタイム3DCG研究が活発化しました。

◎また、90年代は現在使われている3DCGの表現技術やモーション技術の大半が研究により開発され実用化していった時代でもありました。
80年代はレンダリング技術の黎明期でしたが、90年代後半はそれをさらに推し進めたフォトンマップなどのレンダリングで絵のリアリティがさらに向上しました。

◎90年代最終盤はプレステ2の登場で高品質な3DCGの未来がバラ色に確定したとすら思える位の勢いがあったと思います。実際にこの頃LWやMAX,MAYAを使用して高品質な3DCG画像や映像を発表して有名になった方も多いのです。 (^_^)

◎しかしその一方、ブームを当て込んで増えすぎた3DCG関連の専門雑誌の淘汰が始まりました。
90年代中盤まで最新の3DCG技術や製品を紹介して来た専門雑誌のPIXELが98年に休刊し、2001年には97年創刊のWinGraphicsも休刊するなどがありました。

◎そういえば筆者が直接関わったCGHobbyも2000年創刊でした。
翌年3号で終わってしまいましたが。(^_^;)

◎2000年は家庭用ゲーム機が驚くべき進化を遂げて、3DCG映像がお茶の間を席巻し出した年でもあります。プレステの出現やドリームキャストの健闘により、ゲームに3DCGは不可欠であるとの認識が広がった中で、この頃はまだ高画質な映像表現にお金をかけるだけの魅力がありました。(^_^)

◎このゲーム機の進化がその後の3DCG業界のあり方を一変させ、ゲーム業界が3DCG産業を牽引する時代に切り替わりました。それまでの3DCG業界は主にTV広告向けの映像制作がメインでしたが、2000年を境にゲームに進出する所が多くなりました。

◎一方、ネットにおける3DCGの関心は有名作家の作る作品ではなくなって来ました。ゲーム機による3DCGの大躍進と、個人でも頑張れば購入できる価格帯になったプロ用3DCGアプリの普及で3DCGへの求人がぐっと上がり、職業として3DCGを見る人が増えたのです。

◎もちろんそうした3DCGのプロ化を皆が喜んでいた訳ではありません。2000年には相当数の利用者がいた掲示板「2ちゃんねる」では連日有名な3DCG作家へのやっかみやらヤジ書き込みが目立ち、ニフティなどのパソ通時代の作者とファンとのアットホームな雰囲気が消え失せていたのです。

◎それでもまだ個人3DCG映像作家の人達には活気があり、未来を切り開く意志に燃えていました。
この頃辺りから3DCG作家のコミケやWF(ワンダーフェスティバル・フィギュアやガレージキットの即売会)への進出が始まっています。その中で一時最大勢力となったのが前述のCGHobbyでした。

◎たった3号で潰えた一時の夢のような雑誌でしたが、あの頃は3DCGがガチガチのプロ志向に流されて行く中で唯一これを堂々と「趣味だ!」と言い切ろうとしたスタンスは今でも評価出来ると思っています。結局3DCGは趣味かと問うても今でも微妙な状況になっていますが。(^_^;)

※ いや、今こそ3DCGはホビーになったと言えると思えます。初音ミクを踊ら
  せるというコンセプトのフリーソフトがもたらした偉大な恩恵によって、
  自分達が夢想しか出来なかった時代が今存在しているのですから。(^_^;)

●2011.07.27

◎昨晩は2000年付近の3DCG市場や出版業界、ゲーム業界の状況、そして職業として認知され始めた3DCGクリエイター(筆者はこの呼び方は好きじゃないですが、って既に死語ですが)とそれに抗う個人3DCG作家さん達の行動についてさらっと書きました。今日はその続きからです。(^_^)

◎今仕事についている人ならご存知かと思いますが、2000年は3DCGが専門学校でさかんに教えられていた時期でした。そのため専門雑誌も今よりはるかに多く刊行され、ネットの掲示板でもそこそこの話題を集めていました。しかしいわゆる「おたく」文化と3DCGはまだ明確な接点がなかったのです。

◎当時は既にTVアニメーションの制作現場でCGが使われ始めた所でした。しかし基本的に3DCGの出番は少なく、背景やメカデザインで実験的に使われたに過ぎませんでした。3DCGのキャラクターをアニメに出すには違和感があり過ぎて使い物にならないと言われていたのです。(^_^;)

◎そうしたアニメ業界の評価に対抗し、3DCGキャラクターを全面的に使った映像を制作した方々がいました。その人達は今アニメ制作の最前線で頑張られています。(^_^)

◎当時はシェーダーと言う概念が3DCG制作現場に定着する一歩前の時代で、セルシェーディングの走り出しの技術が紹介され始めた頃でした。そんな中で、キャラクターアニメーションに特化した3DCGアプリとして、「アニメーションマスター(略称アニマス)」が急速に認知され普及しました。

◎アニマスは利用者人口が多く、当時は時々東京方面でオフ会を開いていたりしました。
その後日本での販売代理店が撤退したのでユーザー数は激減しましたが、アメリカ本国の開発元では今もバージョンアップを続けています。

◎一方95年から2000年までの間、国産の3DCGアプリは何をしていたのでしょう。好調だったのがShade。そして六角大王がWin95に移植されてPCショップに並ぶようになりました。

◎さらにシェアウェアですがX68000時代からアマチュア3DCGの普及を推進するプロジェクトチームDoGAからは新たにLシステムと言う構想が示され、Windows版のDoGA L1とL2が配布されました。こちらも六角大王と共に今でも存在し続けています。

◎そして忘れてはならないのが、今でも機能追加を続けていて主にアマチュアの3DCG作家さんの強い味方になっているあのモデリングツールもリリースされています。
ご存知メタセコことMetasequoiaです。その必要充分な機能は3DCGモデル作成の初心者に適しており、今でも書籍が刊行されています。

◎この200年までの間、ハイエンドな3DCGアプリの登場が続き、ハイエンドな3DCG美少女が微笑む専門誌ばかりを読まされて、当時のアマチュア3DCG作家さん達は息が詰まりそうだったのです。そこで出てきた考えが「3DCGのホビー化」だったのです。その考えを持った同志は年々増え、皆WF会場に集結したのです。

●2011.07.28

◎昨晩は2000年における3DCGホビーを作ろうとするムーブメントについてお話しました。
本来はプロ用の映像制作ツールとして使われる3DCGをアニメなどのコンテンツやデジタルフィギュアの制作に利用して作品を売り物に出来ないかという試行錯誤が始まったのです。

◎WFにおいて3DCGモデル作品データの入ったCDROMをガレージキット風の箱に収めて売り始めたのも2000年になる少し前からでした。もちろん個別に版権申請して通したものを頒布していました。ディーラー参加の作家さんも買いに来た人も多数集まり、活況を呈していました。(^_^)

◎そもそも3DCGは映像制作のための道具として始まった経緯があるため、3DCGで作品作りを考える人は必然的にコンテンツの事を考えざるを得なくなります。漫画やアニメからモデルを勝手にチョイスして無許可で立体化して販売してはいけない事はWFやコミケを通じて理解が進んでいた状況でした。

◎コンテンツがないと人に注目してもらえる作品は作れません。そこで3DCG作家さんの中には連合してオリジナルテーマを分かりやすく打ち出し、そのテーマに沿った3DCGモデル作品を集めてパッケージ化したCDROMをコミケで頒布したりしていました。

◎当時の3DCG作品の配布(頒布)方法は、映像ファイルや3DCGモデルデータファイルをCDROMに収録したものが一般的でしたが、映像ファイルはともかく3DCGモデルデータファイルの収録にはそれを直接見る手段がないという問題がありました。

◎3DCGモデルデータファイルを直接PC上で表示させて楽しむ事が出来るアプリの開発は筆者の個人的な開発テーマなのですが、自作3DCGアプリをリリースし終わった後のメインテーマとして様々な取り組みをやってました。その話はまた別の機会にしたいと思います。(^_^;)

◎とにかく3DCGで面白い事をするためには、皆に面白いと思われるための企画作りから始める必要がありました。
筆者の場合は96年に制作した日本SF大会OPAの制作に参加したメンバー達の協力を仰ぎ、オリジナルストーリーの紙芝居風3DCGコンテンツ連載を某PC誌でやったことがあります。

※ 恥ずかしい事に自分もこの感覚を長く忘れていた。だからあえて言おう。
  3DCGは形を作るための道具じゃない、世界を作るための道具なのだ。
  >http://t.co/N4njs4z

●2011.07.29

◎3DCGコンテンツの同人頒布やWFでの作品販売の流れが出てきて、次第に売れるネタを探す流れになってきました。
当時も今もコミケはネタの実験場としては最適だったのですが、3DCGは分が悪かったのです。何故なら作品の中身を直接見る手段が無いからです。

◎同人ジャンルにおける3DCG作品の配布方法は幾つか類例があります。
一つは「3DCG形状データファイルをCDROMに収録する」方法で、一番多い収録形態です。
但しデータファイルの収録だけでは3DCGやってない人が入手しても中身を見れないため、メタセコ等の3DCGアプリを同梱します。

◎3DCG形状データファイルの収録にもこだわりがあって、特定の3DCGアプリの形状データのみ収録するパターンから、出来るだけ多くの3DCGアプリをカバーするパターンまで様々です。方法としては後者の方が便利なため頒布の時の訴求ポイントにはなりますが大半の参加者には「?」と思われます。

◎そこでもうちょっと3DCGをやってない参加者にも分かりやすくした配布方法が「3DCGビュワー同梱による3DCG作品の配布」です。
これはメタセコイア等の配布可能なモデリングツールを同梱する代わりに簡単な操作で3DCG作品を見る事が出来る表示専用アプリを同梱するのが特徴です。

◎3DCGビュワーと言っても、単純に表示するだけのものからシェーダー対応で高画質表示対応のものや、CDROMから一発起動で直ちに3DCG作品を見る事が出来たりといった物まで様々なパターンがあります。中にはウィンドウを飛び出して表示されるデスクトップマスコットと言う物もあります。

ということで、先週はここまで書きました。(汗)