みつちーのevergreen-forest

現在は再びQMAがメイン。An×Anではお世話になりました。クイズに使っていた頭脳は、別のために使い始めています。

「正義」を論ずるのなら…

2009-07-31 12:44:24 | Weblog
先日、何気なくテレビをつけたら、痴漢事件の容疑者にされ、否認し続けていたのも関わらず刑務所に行かなければならなくなってしまった方のニュースをやっていました。
やっていないと主張すると、「反省の色が見られない」とされてしまう。じゃあ、本当にやっていない人間は何を主張すればよいのかと、その方と奥さんが話されていました。本当にそうですよね。やっていないことは、やっていないとしか言えないのに…。
このニュースで見た件が冤罪かどうかは、真実は神様しか分からないのでしょうが、僕個人は、少なくとも実刑にするほどの説得力を感じられませんでした。
被害者という女性の話もありましたが、彼女が嘘をついているというわけではありませんが、何かの間違いがあったという可能性も否定できなかったように感じました。大体、本当にやった人がわざわざ最高裁まで争うとは考えにくいのです(じゃあ、早く解放されたくて泣く泣く罰金を払った人は、実はやっていたのかといえばそうではないのですが)。

この件に限らず、最近は冤罪事件が多いように感じます。富山、志布志、足利…。
こういうことが自分はもちろん、家族や友人の身に起こる可能性があるのかと思うと、本当に恐ろしいです。
今回は、少ない知識・つたない文章ですが、具体的な事件ではなく、一般論として僕の思うところを簡単に書いてみます。

一番思うのが、「正義を追求するあまりに、何が不正義になりうるかを見落としていないか?」ということです。
何か事件が起きた。被害者(場合によっては遺族)がいる。容疑者がいる。
ここまで来たら、「目の前にいる容疑者には罰をあたえなくてはならない。なぜなら、それが正義を守るためだ」という流れに行きがちです。
でも、ここで一歩立ち止まって、「目の前に容疑者がいる。しかし、もし間違っていたら、計り知れないほどの不正義を犯すことになる」と考えることが必要だと思うのです。だから、裁判員になったとき「被害者の感情を…」が前面に出てくる意見には賛同しかねるのです。
正義の名の下に、もし無実の人間の時間・財産、最悪な場合には生命すらも奪ったのであれば、それは正義などではなく、国家権力による、個人への暴力行為なのです。

日本の裁判の無罪率は0.1%だそうですが、普通に考えてそんなことありうるのでしょうか?日本の警察や検察を無能だというつもりはありませんが、逮捕・起訴された事件の99.9%が真犯人だったとは思えないのです。人間のやることなんですから、間違いが起きる確率は0.1%よりもはるかに高いと思います。
「疑わしきは被告人の利益に」という言葉があります。これは、(あっては困りますが)実の犯人を無罪にする可能性を背負っても、無実の人間に罪をかぶらせないという精神をあらわした言葉だと思います。ですが、上の事実は、すべてのケースがとは言いませんが、この原則をないがしろにしている結果ではないでしょうか。今の世間の流れは厳罰化に傾いていますが、それを唱える人は、このような原則を何度でもしっかり考える責任があると考えます。

これに関連して、法科大学院の制度にも疑問があるのです。
僕は、そこへ入ったことはありませんので、行われている授業内容は分かりません。ですが、そこでの授業は「実務重視」ということを聞きます。それは、聞こえはいいですが、心配な面でもあるのです。
法科大学院には行っていませんが、法学部では、犯罪捜査においても、人権を尊重するために守らなくてはならない様々な原則があると学びました(上記「疑わしきは~」や、違法収集証拠の取扱いとか)。ただ、そのような原則は、捜査をする人間にとっては(言い方悪いですが)うっとうしいものにもなります。
法科大学院の教員の中には検事もいます。彼らが、自分達に不利になる原則をきちんと教えているのか、「実務」を重視するためにそれをないがしろにしていないか、ここが非常に心配なのです。

今日の最後。刑事補償のことについて。
日本国憲法40条に刑事補償についての一条があることをご存知の方も多いと思います。それについてより詳しい内容を定めているのが刑事補償法なのですが、その内容を見るとびっくりします。懲役の場合、その補償額は1日1000円から12500円だそうです(同法4条1項)。これでは、最高額でも割りのいいアルバイト程度の額にすぎません。
また、死刑にしてしまった場合は最高3000万円だそうですが(同条3項)、これも交通死亡事故の賠償額と比べてもかなり少ないんじゃないでしょうか。
大切な時間や仕事や人間関係を奪われ、身に覚えのないことに対して「お前がやった」と傷つけられたその補償としては、あまりに安過ぎます。

こう考えると、日本ってかなり人権感覚が希薄な国であると痛感します。
冤罪の問題に限らず、例えば何か困っている人がいた場合、四方八方から「自己責任」の攻撃を受けてしまう。しかも、顔も見えない一般人からだけでなく、政治家などからも。
僕は、他者の人権を守ることは、すなわち他者の尊厳、そしてめぐりめぐって自分の尊厳を守ることだと信じているんです。前ネットで、人権が大切だという意見に対して、「人権だなんだとうるさい」旨の意見をみかけました。そうやって好きなことをネットに書けるのも、自分が否定している人権があるおかげなのに…。

もう誰かを無条件に悪く言うのはやめでほしい。
他人を愛することができないのなら、せめて傷つけるのはやめてほしい。

若干話がそれますが、僕が子どもの頃は、学校でも家庭でも、「人が嫌がることは言うな」と教えられてきました。それは、相手を傷つけるようなことはするなということです。でも、今は、政治家でもタレントでも、誰かをバカにするような発言が多いですよね。面白いから、事実だからという理由付けをして。それは、僕の中では、どう考えても「正しさ」(「正義」という言葉を使うと独りよがりになる危険があるので、あえてこう言いますが)に到達しないんですよ。でも、こんなことを偉そうにほざいている自分も、きっと誰かを傷つけている。だから、頭がパンパンになるまででも、相手の心情を理解しようとすることが大切なんじゃないでしょうか。

最後はなんだかとりとめもない文章になってしまいましたが、これが僕の思うところです。
こういうことが崩れていくと、多分この世界に「希望」を繋ぎとめておくことはできなくなるのでしょう。

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